読響の演奏会で池袋に出たついで、開演前に少々時間が空いたので豊島区立郷土資料館を覗いてみたのですなあ。企画展示室では「小熊秀雄 遊歩者のスケッチ」展をやっておりましたよ…と、会期は3/13まででしたが…。
生誕120周年と銘打ってありまして、周年展が開催されるほどに有名人?と思ってしまった小熊秀雄という人、実のところ、これまで(浅学にして)一度もその名を耳にしたことがありませんでした。一応、詩人ということになっているようですけれど(ご本人もそのつもりであったようで)、説明に曰く「詩だけではなく、童話、文芸や美術批評、漫画原案などでも活躍した人」だということで。
興味が昂じて絵も描くようになったようでありまして、本展ではその手遊び?のスケッチが主たる展示になっておりますが、なかなかに達者なものですなあ。
昭和の初めから戦前にかけて、豊島区西部の要町・長崎・千早地域に、絵や彫刻を勉強する独身学生向けのアトリエ付借家群が形成され、アトリエ村と呼ばれました。
豊島区の文化・観光・交流都市情報を提供する「IKE-CIRCLE」というサイトに、こんなふうな紹介のあるアトリエ村。池袋駅の西方に広く点在した、若い芸術家たちの集った場所を総称して「池袋モンパルナス」と言うことがありますけれど、この「池袋モンパルナス」という呼称を与えたのが小熊秀雄であったということでもあるようです。
ひと頃は、後に「原爆の図」で知られるようになる丸木位里・俊夫妻もアトリエ村の住人であったそうですが、意気盛んな画家たちに囲まれて、詩人という触れ込みの小熊も大いに触発されてペンを、絵筆を握ったのかもしれませんですね。
ただ、39歳で早世する小熊にパリ留学の経験などありませんですので、当然にモンパルナスの雰囲気を肌で感じたことは無い。つまりは耳学問であろうかと思うところながら、小熊描くところのスケッチを眺めておりますと、不思議とパリを想ったりもするのですよね。題材は至って身近なもので、パリを気取るといったふうは全く無いにもかかわらず。
エコール・ド・パリの画家たちがモンパルナスに集まるよりずいぶんと前になりますけれど、パリで『シャリバリ』や『カリカチュール』という風刺新聞が出回りますけれど、そこに描かれたペン画の挿絵の数々(1830年の7月革命で即位したルイ・フィリップを洋梨で描いてしまったものなどは有名ですなあ)を、なんとはなし、小熊のスケッチは思い出させたりもしたものですから(個人の感想です)。
池袋モンパルナスによるが来た
学生、無頼漢、芸術家が街に出る
彼女のために、神経をつかへ
あまり太くもなく、細くもないありあはせの神経を―。
池袋モンパルナスに夜が来た
これは小熊の「池袋モンパルナス」という詩でして、1938年の作という。革新性に溢れる若者たちが夜な夜な気炎を上げたとして、おそらく議論は文化の面ばかりではなかったでしょう、戦争への足音がどんどん大きくなっていくような時勢であったでしょうからね。小熊自身、小林多喜二の獄死に衝撃を受け、また官憲との確執もいろいろあったようですし。もしかすると、津田青楓(池袋モンパルナスの世代よりは上と思いますが)あたりとも知己を得ていたでしょうか。
ちなみに池袋モンパルナスに集った画家たちには、丸木夫妻のほかにも靉光、熊谷守一、野見山暁治、長谷川利行、松本竣介などがいたのだそうな。豊島区といえば、漫画家たちが集ったトキワ荘が有名ですけれど、あたりにはかつてあった気風のよ残り香が漂い、手塚治虫らを呼び寄せたのかもしれませんですなあ。