寄り道はあれこれありましたですが、ようよう辿り着きましたのは分倍河原古戦場跡。鎌倉幕府討伐に立ち上がった武将のひとり、新田義貞の軍が上野国を出立し、迎えた幕府軍を小手指原(埼玉県所沢市)、久米川(東京都東村山市)で撃破し、多摩川を背にした分倍河原まで追い込んで、いざ決戦!という場所でありますな。

 

 

先に見た「分梅」の碑に解説されていた多摩川の流れが南に移動したのはいつ頃であったか、定かではありませんけれど、かつては会戦の場にふさわしく広々とした河原であったのでありましょう。考えてみれば、古来の戦いは広いところで雌雄を決するというのが常道だったのでしょうね。

 

義貞が鎌倉に攻め上るにあたっての戦いも、小手指原、久米川(の河原?)と原っぱや河原などで起こっていますし、後の関ケ原合戦や遠く西洋に目を向けてナポレオン戦争のワーテルローの戦いなど、やはり広い所で行われている。市街戦という誰もかれもを巻き込む戦争は近代になってからでしょうけれど、思えば応仁の乱などは例外なのでもあろうかと。

 

ともあれ、分倍河原の戦いがあった場所も、今よりもずっと多摩川に近い文字通りの河原だったのかも。今では府中用水の流路のひとつ、新田川の流れに沿った遊歩道状の緑地が細長く続くだけですけれど。

 

 

ちなみに緑地帯の脇を流れる新田川ですが、文字づらからして「これまた新田義貞ゆかりであるか?」と飛びつきそうになるところながら、実際には「しんでんがわ」と読むのだそうな。江戸期になって開墾が進み、田畠が作られるようになって名付けられたものでありましょうかね。ともあれ、立派な石碑が建てられておりますので、解説板にも目を向けておくといたしましょう。

 

 

ここに至るまでの戦いでは勝ちに乗じていた義貞の軍勢ですが、ここ分倍河原の緒戦では北条泰家(執権・北条高時の弟)率いる幕府軍に敗れ、この敗走の際に武蔵国分寺は焼失の憂き目を見ることになってしまったようですなあ。されど…という、新田軍巻き返しのところは解説板の説明に委ねることに。

…その夜(元弘三年(1333年)五月十五日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、十六日未明再び分倍の北条勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻め二十二日に鎌倉幕府は滅亡した。

とまあ、何ともあっけない鎌倉幕府の最期が記されておりますなあ。されど、実際にこの分倍河原での勝利の後、多摩川を渡河した先でもう一戦交えたようですな。

 

 

今現在の多摩川の土手に上がってみますと(こう言いますと、古戦場跡から多摩川が至近と思われるかもですが、結構離れておりまして、ちと端折って書いております)、右手(上流側)に見えるのが関戸橋でして、渡った先は聖蹟桜ヶ丘になります。町名表示としては多摩市関戸、鎌倉幕府の関所があったところから来ている地名のようですが、ここでまた一戦を展開、数に優る幕府軍を打ち破って一路鎌倉へ攻め上る…というのが、本当のところのようです。府中市側の解説板からは分からないことですけれど、いささか手前味噌的なる説明なのかもです(笑)。

 

新田義貞が上野国で挙兵してから鎌倉幕府が倒れるまで(諸説あるも)およそ半月ほど。この電撃的な成果にいちばん驚いたのは足利尊氏でもあろうかと。これによって義貞の武将としての評価はうなぎのぼり、誰もが気付いてみれば「新田も源氏の嫡流だあね」となったりもしたようで。あまりにうまく運んでしまった作戦の結果として、後の新田VS.足利となる一因が生じたのでもありましょうね。