最寄りの図書館の新着図書コーナーで見かけた一冊、思わず手にとってしまいましたですよ。先ごろに武蔵国分寺跡などを訪ねまわった折、その堂宇は鎌倉幕府打倒を目指して戦った新田義貞軍の敗走に際して焼失した…なんつうことに触れたばかりであったものですから。手にした一冊のタイトルは『対決の東国史3 足利氏と新田氏』というものでありました。
「対決の東国史」の3巻目ということですので、既刊である2巻「北条氏と三浦氏」とか、これから刊行されるらしい「源頼朝と木曾義仲」とか、そういう内容のものの方が(大河ドラマのことを考えても)時期には適っているとは思いますけれど、それはそれとして。
そも足利氏と新田氏と言われますと、即座に思い浮かぶのは足利尊氏と新田義貞であろうかと。さりながら本書では、その両者の対決構図において前者が勝利するに至る前段階、つまりは鎌倉幕府ができる当時からの足利氏と新田氏の動向を対比的に、丹念に掘り起こして、その後の結果になるほど感を抱けるようにつながっていくのですな。とても興味深い内容でありましたよ。
ただ、とにもかくにも似たような名前の人たちが次々と出てくるので、俄か知識では追い付かないところがありますので、その点は心してかかる必要がある本ですけれどね。ま、そんな中からざっくりと(全体像にご興味がおありならば、本書を読むにしくは無し)足利VS.新田を見ておくことにいたしましょう。
源頼朝の旗揚げは源氏の長者として武家の棟梁を掲げていたわけですけれど、八幡太郎義家の次男・義親の系譜が頼朝に繋がっておりますね。一方、義家の三男・義国から後の新田氏、足利氏は出るわけです。義家の嫡男とされた義親の流れではないものの、場合によっては新田、足利の両者も武家の棟梁を標榜することができたことでありましょう。
八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光から出た甲斐源氏・武田信義は、源氏の長者は頼朝よりも自分の方と思っていたように大河ドラマでも窺えましたし、頼朝の従兄弟にあたる木曾義仲も同じような思いがあったかもしれませんしね。
ですが、治承寿永の乱にあたって、新田と足利ではこの棟梁意識をより強く持ったのは新田の側だったようですね(新田の祖が義国の長男、足利の祖が次男ということも、新田にとっては関係しておりましょうか)。頼朝の合力要請に対する応じ方に、新田の側は自らの存在感を示せる場を考えて即応しなかったことが、鎌倉幕府成立後の処遇に尾を引くことにもなったような。つまり、足利は鎌倉中央で重用され、新田は淡々と自領経営に勤しむといったふうに。こうしたことから鎌倉幕府の時代を通じて、彼我の差は開く一方であったようです。
後のことにはなりますけれど、足利尊氏が室町幕府を開いたとき、直ちに幕府運営に着手できたのは、足利歴代が鎌倉中央での政治に深く関わっていた、つまりすでに政権運営能力があったからでもあるようで。これに対して、新田義貞も一時、越前に引いて地方政権を作り出すかに見えた頃に、政治的な手腕を身に着ける、あるいは政治官僚的な部下を抱えることができたようながら、いささか時すでに遅しでもあるような。
こうしたことをも考えるにつけ、足利尊氏が慎重な政治巧者であった一方、やはり新田義貞は勇猛果敢な武将のイメージがより強くなるような。その点では、この像の義貞はイメージにぴたりかもしれませんですなあ。
JR南武線の(というより京王線のと言った方がいいでしょうか)分倍河原駅前にある新田義貞の像は、鎌倉幕府討伐の途次、幕府側との決戦があった古戦場ゆかりとのこと。予て駅前に像のあることは知っておりましたですが、これが機会と古戦場の方へも足を延ばしてみることに。
ということで、駅前から始まる「ぶらり分倍河原散歩」、『太平記』に関わるお話ばかりではありませんけれど、またしばらく書き継いでまいります。