1805年12月、アウステルリッツの戦いで

ナポレオン軍が墺露連合軍に勝利したことにより神聖ローマ帝国は解体され、

翌1806年7月にフランスはドイツ諸侯をライン同盟にまとめて傘下に置くことになります。


これに対抗したプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は

ドイツ中部のテューリンゲン地方に進撃してきたナポレオン軍との会戦に及ぶことに。

1806年10月のイエナ・アウエルシュタットの戦いです。

(昔の世界史の教科書では単にイエナの戦いと言っていたような)


強大なナポレオン軍の前にプロイセンはあえなく敗退、

こうしたことはテューリンゲン地方の領邦領主も敏感に反応したのでしょうか、

ザクセン=ヴァイマル公国 は同年12月にライン同盟に加盟、

つまりはナポレオン側に寄りそう決断をしたということになりますかね。


現在のドイツにあたる地域がいわば実質的にナポレオンの支配下に入ったと見られる中、

ナポレオンは次の一手を打つべく諸侯に参集を求め会議を開催するのですな。

場所はテューリンゲン地方の中心都市エアフルト。

1808年9月27日から10月14日まで、世にいうエアフルト会議が開催されたのでありますよ。


そこで話し合われたナポレオンの次なる一手とは、

先のアウステルリッツ会戦でも相まみえたロシアとの関係修復を図り、

対オーストリア戦が起こった際にはロシアに味方してもらおうということ。

会議では合意に至ったものの、その後のロシア関係は歴史が語り伝えているとおりですな。


そんなエアフルト会議でロシア皇帝アレクサンドル1世をはじめ、

プロイセンやライン同盟の領邦の代表、そしてあろうことかオーストリアの代表までが集った、

その場所がこちらでございますよ。


テューリンゲン州首相府

エアフルトはテューリンゲン州の州都であるとは先に申しましたですが、

現在ここはテューリンゲン州の首相府となっているわけながら、

かつてマインツ選帝侯領だった時代には総督府とされていた建物が歴史の舞台というわけで。


で、有名な話として伝わるのは、ナポレオンゲーテ と対面し、

予て「若きウェルテル の悩み」の愛読者であったナポレオンはゲーテを見るや、

「ここに人有り!(Voila un homme!)」と言って、喜びを表したということですな。


このときのゲーテはヴァイマルのカール・アウグスト大公お付きとし

エアフルトに出向いたのではと思うところですけれど、ナポレオンとしては

ヴァイマルの政治家としてよりも文化人としてドイツじゅうに知られたゲーテに

支持を得られればドイツ統治は安泰と考えたようでもありますよ。


ダッヒェレーデンの館@エアフルト

と、そのような会談の地のすぐ近くにはダッヒェレーデンの館という建物があるのですね。

ちょうどエアフルト会議の頃、館の主であったカール・フリードリヒ・フォン・ダッヒェローデンは

多くの文化人と交流があったということでして、壁面にはこのようなプレートが見られます。


ダッヒェレーデンの館の壁面にあるプレート

この邸にはシラー やゲーテが出入りしていたこと、そして当主の娘カロリーネが

ここでヴィルヘルム・フォン・フンボルトと結婚したことが刻まれています。


ヴィルヘルムはベルリンにあるフンボルト大学(一般にはベルリン大学)の創設者として知られ、

弟のアレクサンダーはフンボルトペンギンにその名を残した、やはり学者であったわけで、

こうした学者たちやシラー、ゲーテといった文化人が集うサロンになっていたのが

このダッヒェレーデンの館であったのですなあ。


折に触れて、ゲーテがそうであったようにドイツの人は陽光燦々のアルプスの南、

イタリアに憧れるといってますですが、明るい地中海のコルシカ島で生まれたナポレオンは

むしろ思索のドイツにいささかなりとも憧れていたのかもしれません。

だからこそ、「ウェルテル…」を何度も読んだのではなかろうかとも。


ゲーテをはじめドイツの知識人が集まる場所でもあったエアフルトが

会議の場所に選ばれたのはナポレオンなりの思い入れがあったのかもしれませんですね。