山梨の釈迦堂遺跡博物館まで車に便乗で連れて行ってもらいましたが、
どうせ釈迦堂まで乗せてもらえるなら、「ついでにもひとつリクエスト」とばかりに立ち寄ってもらったのがこちら。
笛吹市青楓美術館なのでありました。
津田青楓の名前を最初に意識したのは装丁家としてでありましょうか。
夏目漱石の『道草』や『明暗』が出版される際に装丁を手掛けていますから、
それらの展示をどこかしらで見かけたところが始まりではなかろうかと思うところです。
この漱石とのつながりは、青楓自身が漱石の門下生的位置づけであったことからその深さが偲ばれます。
漱石門下には寺田寅彦のように文学畑の人ばかりではありませんので、
漱石山房という梁山泊(?)に集った仲間たちのひとりと言ったらいいのかもしれません。
門下といって単に漱石から教えを受けるというばかりでなくして、
青楓は漱石に絵の手ほどきをしたりしておりますし。
とまあ、そんな青楓は装丁というデザイン的な仕事を手掛ける一方で、
画家であり書家でもあったということなのですけれど、
画家としての道筋はなかなか複雑なものであったようですなあ。
京都に生まれて最初は日本画を学ぶも、浅井忠や鹿子木孟郎を通じて洋画を志し、
安井曾太郎と同時に派遣留学生として渡仏、ジャン=ポール・ローランスのアカデミー・ジュリアンに通うことに。
先にたましん美術館の展示で明治洋画壇の変遷を見てきましたけれど、
この画塾出の勢力はコランに習った黒田清輝はじめとする白馬会と対立する側に当たると知れば、
その後に青楓も文展と意見の合わない二科会の創立メンバーになるというのもなるほどというところですね。
とまれ、日本に洋画が根付いていく段階で夙に名の知られた青楓だったわけですが、
あるとき「もう洋画の筆はとらない」と洋画断筆宣言をしてしまうのですなあ。
どうも油絵という主張の強い素材、画法を使うと、青楓はそこに強いメッセージを込めてしまうようで、
それが政治的なメッセージと受け止められて、官憲からにらまれることにもなったようです。
契機となったものとして「犠牲者」というタイトルの作品がありますけれど、
これは当時いわゆる「アカ」と目されて特高に捕まり、過酷な取り調べの末に獄死した
作家・小林多喜二の姿を荒々しく描いたものでしたので、絵そのものが大声で主張していると取られたのでありましょう。
ですが、この後は日本画に転じて(本家帰りですかね)画業を続けることは
果たして清楓本人にはどんな心持ちだったのでしょうかね。簡単には想像しにくところです。
美術館では油彩作品と日本画の作品と、ともども見ることができますが、
日本画とこれに連なる図案デザインなどの仕事はとてもストイックな世界に入ったことが窺えるような。
こぶりな美術館ではありますけれど、津田青楓という画家を知るにはうってつけ。
周囲はフルーツ王国山梨の面目躍如たる場所なだけに、ぶどうや桃をお目当てに加えつつ、
訪ねてみるのもいいかもしれませんですね。春と秋に展示替えされるということですし。