どうも春が前のめりになっているようですけれど、暖かさに溢れる中、池袋の東京芸術劇場へ読響の演奏会を聴きに。基本的に多摩籠りを続けておりますので、都心部へ出かけたのは先月、2月の読響演奏会以来ということになりますなあ。

 

その2月に出かけた際、「来月の演奏会は指揮者も曲目もオール・フランス、これはこれで楽しみですなあ。 もっとも、予定者が来日できれば…ですけれどね。」と記しておりましたですが、やはりというか案の定というか、フランス人指揮者のマキシム・パスカルは予定通りなものの、ソリストは来られなくなって代役が立ちましたですよ。それがなんとまあ、前橋汀子の登場となるとは。こう言ってはなんですが、まだいた(生きていた?)のでしたか…。

 

2022年で演奏活動60年だそうで、ソリスト交代を告知する読響HPには「日本を代表する“ヴァイオリンのレジェンド”前橋汀子」とありました。おそらく今から40年以上前ですかね、初めて(自分でチケットを買って)プロ・オケの演奏会を聴きに行ったとき、颯爽と現れたのが前橋汀子その人でありましたなあ。曲はチャイコフスキーの協奏曲だったかも。もはや記憶はあいまいですが。時を経て当然に、誰しも年齢を重ねるわけですが、前橋さん、ほぼ80歳にもなろうかというあたりかと。生きてた?は失礼ながら、現役で弾いていたのですなあ。凄いことです。

 

 

ヴァイオリン・ソロが入る曲目には変更がありませんでしたので、ショーソンの「詩曲」、ラヴェルの「ツィガーヌ」の2曲を聴かせてくれたわけですが、元々のプログラムとはいえ、ここまで技巧的な曲(特にラヴェル)をそのままかけなくてもよかったのではなかろうかと。見ていて(聴いていて)いささかハラハラするところ無きにしも非ずだったですし。

 

さりながら、ステージ上の存在感といいますか、演奏中に放つオーラのようなものには尋常でないところがありまして、テクニカルにおぼつきがたいと思しきあたりは、むしろそれがわびさびの世界でもあるかのように聴こえてしまったりもするのでありますよ。なんか凄いものを見たぞ!と思いましたですよ。

 

と、これが今回の演奏会のポイント(?)のひとつめ。もうひとつは、オール・フランス・プログラムという中にあって、ルベルのバレエ音楽『四大元素』が取り上げられていたことでしょうか。予てマルク・ミンコフスキ盤のCDで聴き覚えのある曲でありますが、初めて耳にしたときには「これがバロック?!」とぶったまげた次第。まあ、それも後から付け加えられたという最初の「カオス」なる部分だけなのですけれど。

 

されどこれを改めて実演の形で聴いてみますと、それほどにぶったまげないものでしたなあ。もはや慣れてしまったということでしょうか。いずれにせよ、この曲を実際の演奏で耳にすることができる機会があろうとは(個人的に)画期的なプログラミングであったことよと思ったものでありました。

 

そして最後にもう一つのポイント。クラシック音楽の演奏会といえども、やはり爆演はカタルシスにもなろうかということなのですなあ。音楽のライブと言えば(特にポップス系においてですが)演奏を聴きに行っているというよりは、音楽を通じてその場の高揚感に浸るということがありましょう。ですので、もっぱら「聴く」ことを主眼にすると、お門違いのイベントということになりますですね、音楽ライブは。

 

ですが、クラシック音楽の演奏会では皆がじっと聴き入っている。ニューイヤーコンサートの「ラデツキー行進曲」で手拍子を打つとか、プロムスの「威風堂々」で大合唱するとか、こうしたことは例外的な、お決まりのお楽しみであったりするわけでして、そうでもない限り、曲が終わったときに大喝采が送られたりするものの、曲の間はじっと聴いているわけです。なんとなれば、聴きにきている、聴くことが主目的であるからですな。

 

とはいえ、曲によっては聴いている側にも曲の孕む高揚感がじわじわと伝わってくることがあるわけで、今回の演奏に擬えれば、前半に演奏された(前座の締めたる)ベルリオーズの「ハンガリー行進曲」(「ラコッツィ行進曲」とも)、そして演奏会の最後を飾るラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲などは正しく。そして、これが爆演となって会場に音の大洪水を巻き起こしたとなれば、その場の束の間にもせよ、高揚感、満足感、幸福感といったものが一気に押し寄せたりもするわけですね。

 

クラシック音楽が辿ってきた道筋は作曲技法の発展過程でもあったりするところでして、必ずしも客受け狙いではないわけです。また、演奏のありようにしても、聴衆を熱狂の渦に落とし込んでやろうという魂胆があってなされているではないでしょうし、むしろそれ狙いが見透かされると俗に堕した演奏などと貶められたりするような、いささか高踏的ところもありましょうなあ。しかしされど、ではありますね。

 

いつもいつも爆演を期待しているわけではありませんけれど、とはいえ結局のところ「俗」な聴き方しかしておらず、それがいけないこともでもないとは思っているところがあり、演奏として、演奏会として、長く記憶に残る可能性は爆演でもあるかなと思えたりもしたものなのでありました。