秩父に向かって未だその途次、昼飯に越生町の道灌うどんでおなかを満たした後に向かったのは

東松山市にある「原爆の図 丸木美術館」なのでありました。

 

裏道、裏道と進んでこんなところに美術館があるのかいね?と思った頃に到着するのは

あたかも栃木県那珂川町に訪ねたいわむらかずお絵本の丘美術館のごとし…といって、

彼の地ほど山の中ではありませんですが。

 

 

この美術館のことは、そして「原爆の図」という連作絵画のことはご存知の方も多いことでありましょう。

描いたご夫妻画家の丸木位里さんと俊さんとが、これまた壮大な連作「沖縄戦の図」を描くようすは

半年くらい前にEテレ「日曜美術館」で紹介されたりもしましたし。

 

おそらく、画家も含めて芸術家といった人たちは感受性が強いのではないでしょうかね。

即座にびびっと反応するというでなしに、いったんは大きく受け止めたものをいつしかの段階で

ぐおっと吐き出さずにはおけない。それが作品として形を成すのでありましょうか。

展示室の壁いっぱいを占める一作ごと、見て回って思うのでありますよ。

 

 

いったん引き受けて吐き出さずにはおけなかった作品たち。

画家であるだけにそれは視覚的に訴えかけるものであって、

これに言葉を尽くすのはどうであろう…とも思ったりするものですから、

いわば淡々と見入る形になりましょうかね。

 

 

 

一見して、それこそ言葉に尽くせない惨状を見せているわけですけれど、

描き込めば描き込むほどに画家たちが表現するリリシズムが入り込むのかもしれません。

不適切な言いようかもしれませんけれど、詩的世界の雰囲気を感じてしまったりもしたものです。

 

ともあれ、見る側に思い受け止めようを迫る(迫るとはまた適切ではないかもですが)作品の傍らに

丸木位里の母親・スマさんの描いた絵を展示する部屋が設けられているのは、やはり意図あってのことかも。

 

 

いわばパントル・ナイーフのスマさん、70歳を過ぎて初めて絵筆をとったところから対象に向き合うさまは

あたかもグランマ・モーゼスの作品を想像したりもするところでありますよ。

スマさん自身、被爆体験はもちろん記憶するところでしょうけれど、

「ピカは人が落とさにゃ落ちてこん」と語っていたそうで、そのヒトよりも大きな自然と

そこに息づく生物を描き続けてもいたようです。

 

 

 

「素朴」といって終わってしまいそうなその作品からは、

「原爆の図」のように明確なメッセージを放っているわけではありませんけれど、

人となりの背景などをも知ってみれば、隠れたメッセージが読み取れそうな気もします。

もちろん、描いた本人には全くそのつもりは無いのかもしれませんけれど。

 

とまれ、丸木美術館を訪ねて、硬軟とりまぜた作品のメッセージ性を考えた次第なのでありました。