James Setouchi
石川淳の諸作品(ネタバレを含む)
石川淳(1899~1987)
台東区出身。浅草育ち。京華中学、東京外語専門学校(現・東京外大)でフランス語を学ぶ。ジッドの翻訳、旧制高校フランス語講師などを経て、作家に。『普賢』で昭和12年芥川賞受賞。戦中は江戸文学を研究。戦後「無頼派」の一人と目される。多くの作品を発表。代表作『普賢』『焼け跡のイエス』『最後の晩餐』『紫苑物語』『白頭吟』『夷斎筆談』などなど。
1 『普賢』(昭和11年)(昭和12年、第4回芥川賞)
普賢菩薩(サマンタパドラ)とは、釈迦如来の側にいて、白象に乗って衆生を救済する菩薩。中国の禅僧である寒山と拾得は、文殊菩薩と普賢菩薩の化身と言われる。拾得は箒を持った姿で描かれる。本文中語り手「わたし」は、「下根劣機の身としては寒山の真似よりもまず拾得の真似で、風にうそぶき歌う前に箒をかついで地を払う修行こそふさわしかろう。しかし、かりにも拾得の箒を手にした以上、町角の屑をかきあつめるだけではすまず、文殊の智慧の玉を世話に砕いて地上に撒き散らすことこそ本来の任務」「願わくはかの大士のおん振舞、おん身において百宝の花を放ちたまう菩薩の遊戯、馥郁たる普賢行につながろうとする一念を秘めて」文章を書こうとする。
*注:釈迦三尊は、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩。阿弥陀三尊は、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩。薬師三尊は、薬師如来、日光菩薩、月光菩薩。このように表現されることが多かった。(JS)
時代設定は恐らく戦前の東京(上野・日暮里エリア)。しかしいつかは明確に書いていない。いつどこにでもいかにもありそうな猥雑な生活風景だ。人物関係が煩瑣で最初はやや読みにくいが、やがて面白く読める。
語り手「わたし」は若い書生で、ジャンヌ・ダルク頌歌を歌ったクリスティヌ・ド・ピザンの伝記を書こうとしている。が、筆が進まない。自分を取り巻く様々な人たちの騒動に巻き込まれ、右往左往している。周囲には、悪人ではないが、何をして生活しているか分からない、怪しげな小人物たちが右往左往する。あるいはアル中、あるいは生活能力がなく資産を失い、あるいはモルヒネ中毒、あるいは鉄道で轢死、あるいは遊郭の女を取り合う、あるいは資産の払い下げを狙い政治家に近づこうとする。これが、「わたし」が生きる濁世の現実だ。
注目すべきは、庵文蔵だ。「わたし」と同級生で、優秀な学生だったが、今や落ちぶれてアルコール中毒になっている。庵文蔵は、もうひとりの「わたし」だ。
だが、二人を分けるものは何か? 「わたし」には、この濁世にあってもなお、普賢菩薩の衆生救済の行につながるべく、ペンを取る、という志がある。この一点において、「わたし」は庵文蔵とは区別される。実際には右往左往するばかりで、筆は進まないのだが・・
ラスト近く、長年胸に秘めた思い人・ユカリの老いさらばえた姿に再会し「わたし」は幻滅する。庵文蔵は死ぬ。「わたし」は猥雑なこの下宿を引き払い、新しい生活に出発しようとする。
わたし:書生。上野近辺、下谷車坂の下宿に住む。クリスティヌ・ド・ピザンの伝記を書こうとしているが、周辺の騒動に巻き込まれ、筆が進まない。
坂上青軒:政治評論家。「わたし」の先輩で、「わたし」に原稿を書く場を与えてくれる。
葛原安子:車坂の下宿の大家。厚化粧の女。何やらわけあり。
田部彦一:もとは軽井沢の資産家の子。今は没落。「わたし」の車坂の下宿の前の大家。日暮里在住。
お組:田部彦一の妻。モルヒネ中毒で病弱。
庵文蔵:「わたし」の同級生。かつてはハンサムなエリートだったが、今はアル中になっている。庵文蔵は観念的な文学論を「わたし」に向かって語りかける。
ユカリ:庵文蔵の妹。「わたし」の思い人。が、革命家と逃亡。
垂井茂市:新宿や上野エリアをふらふらしている人物。
寺尾甚作:謡の師匠。妻がいるが、浮気をする。
寺尾久子:甚作の妻。肋膜が悪い。夫の浮気で倒れる。
綱ちゃん:洲崎の遊郭の女。甚作の浮気相手だったが最近は茂市と親しいようで・・
(洲崎遊郭は、江東区にあった。)
2 『紫苑物語』(昭和31年)は、弓の魔力に取り憑かれた国の守と、狐の変身した美女の話だ。小谷野敦氏は「高校生の空想程度のものでしかない」とこき下ろす。それでも、高校生の空想程度のものではあり、文体のうまさもあって読ませる。最後はカタストロフだが、最後に残るのは仏の力か魔の力か。
3 『白頭吟』(昭和32年)
結構面白い。舞台は大正10~11年頃の東京。
主人公・伸一は、政権与党の政治家の息子だが、出自に反発している。周囲にアナキストの若者の群れがいるが、そこに加担するわけでもない。恋人の志摩子に影響され、役者になろうと考える。「世界は舞台だ、男も女も役者に過ぎない」(シェークスピア)を地で行くがごとく。それは、世界のどこにも本当の居場所を見つけられない、中途半端な若者の、辛うじて選んだ身の処し方と言うべきか。だが、それでも人生は続いていく。ラストあたり、「役者はいつも無数の代りをそろえて、何のことはない、いつも世はもとのままではないか。・・・巷のけしきはさしあたり太平楽をきわめていた。」「ここもまた世界の片隅ではないか。」晋一はどうであれ生きていくこつを身につけたかのようだ。但し、それは本当に充実したものとは言えない。隣にいる恋人・志摩子との対照でそれは表されている。明後日には欧州に留学する晋一に対して、志摩子は東京の小さな劇団で芝居をすることを選ぶ。「志摩子の髪はここに金色にかがやくかと見えた。『たのしいわ』志摩子の声が響いた。」志摩子は「楽しい」と言う。晋一はその姿を眺めることにおいて一定の幸福を感じてはいるが、それが一時的なものでしかないことを知っており、それでもよいと考えている。上野の観覧車の上から眺める二人の視線は、別のものを見ている。志摩子は志摩子なりに生きる実感を掴み、晋一を相対化している。
・・・だが、作者・石川淳は、さらにもう一つの仕掛けを施しているように私は思う。この小説の舞台設定は、大正10~11年。晋一が欧州に去り、志摩子が残った東京を、大正12年9月、関東大震災が襲う。東京に生活する多くの人が焼け死んだに違いない。その事実をあえて書かず、カタストロフの予感を読者に感じさせて、小説は終わる。晋一の確立したかに見える「いつも世はもとのまま」という世界観は、甘く、空想的なものに過ぎなかった。作者・石川淳は、そう読ませたいのではないか? 晋一の許嫁・笙子について晋一が思う、「笙子はおそらく短命に終わるさだめではないのか」は不気味である。
但し、晋一は、志摩子が年老いた姿を想像している。志摩子は生き延びる、そこに石川淳は希望を残しているのかも知れない。
これは同時に、作品発表当時の昭和30年代の日本社会に対する批評でもあるだろう。
(反対の見方もできる。金持ちのボンボンである晋一の予測は外れる。笙子は生き、志摩子は死ぬ。志摩子の今の輝きは所詮今だけ、晋一の甘い未来予測も必ず敗れる。歴史はそのことを知っている。石川淳はそう読み取らせたかったのか?)
尾花晋一:政権与党の有力政治家・尾花晋作の子。父のせいで生母が死んだと思い、父親を憎んでいる。生きる道を模索している。頭痛持ち。
尾花晋作:政権与党の有力政治家。地盤は九州。原敬暗殺後うまく立ち回ることを模索する。
三輪子:晋作の後妻。若い。
笙子:日本橋の骨董屋で政治家フィクサー・楢屋亥兵衛の孫。晋一の許嫁の立場になるが…
平板登:アナキスト。爆弾を入手しテロを行おうとしている。本作では、アナキスト・平板登の論理が開陳される。それはコミュニストとも違い、右翼テロリストとも違う。大杉栄をも平板は批判する。だが、その果てには・・?
平板志摩子:登の妹。新劇女優の卵。晋一の恋人になる。新しいタイプの女性か。
リャク伝、ゲタ哲、ブラ半:平板のアナキストの仲間だが…
荒貝次郎:劇団の庶務。実は平板のアナキストの仲間。
梢三太郎:18カ国語を解する言語学者。エスペラントも学ぶ。日本語を批判し日本から脱出しようとする。この人物の日本語および日本社会に対する批判は、なぜ登場しているのだろうか。
タヨリさん:九州出身で平板の恋人。上京しジャーナリストを目指す。当時出現した新しいタイプの女性か。
掛矢教授:晋一の大学の教授。新劇運動を牽引する自負を持つ俗物。志摩子に色目を使う。