James Setouchi

2025.6.5

丹羽文雄『親鸞』  浄土真宗・親鸞の生き方と思想  

 

1        丹羽文雄

  1906(明治37)年三重県四日市市生まれ。父は浄土真宗高田派の僧侶。家庭の事情で母が家を出た。文雄は幼少時得度(とくど)した。県立富田中(現四日市高校)を経て大谷大学に行かず早稲田の第一高等学院から早稲田大学文学部国文科へ進む。尾崎一雄らを知る。卒業後一時僧職に就くが家出、上京、創作に専念した。昭和10年代には国策で漢口やソロモン海戦に従軍。昭和28年『蛇と鳩』で第1回野間文芸賞。昭和30~31年『菩提樹』連載。昭和35年『水溜り』。昭和37~41年『一路』連載。昭和39年『汽笛』昭和40~44年『親鸞』連載、昭和45年仏教伝道文化賞。昭和46~56年『蓮如』連載。2005(平成17)年没。(集英社日本文学全集の年譜や解説などを参照した。)

 

2 『親鸞』1965(昭和40)~1969(昭和44)年連載。作者59~63歳。

  丹羽文雄文学全集(講談社)第26~28巻(1976年発行)で読んだ。

 

  書店で買えず、図書館で借りた。公共図書館はこういう本をストックしていて貸し出してくれるので、大変ありがたい。近所に公共図書館がなければ、私にはこの本は読めなかっただろう。

 

 2段組で全部で1200頁くらいある。私にとっては非常に面白く、内容のある作品。浄土真宗高田派の寺の出身である丹羽文雄が、親鸞と文字通り格闘した本だ。どこかで浄土真宗のしかも高田派に対してやや護教的になっているかもしれない。旧仏教の念仏と法然・親鸞は違う、法然と親鸞も違う、親鸞と唯円も違う、いわゆる本願誇りの人びととももちろん違う、などと書いてある。栄西、道元や日蓮との違いも書いてある。親鸞の子・善鸞の悲劇についても書いてある。親鸞の思想を紹介し丹羽文雄なりの考察を加えているところは高度なので、すらすらとは読めない。浄土真宗や浄土宗の方ならある程度読めるかも知れない。日本史や日本仏教思想史の知識があった方が読みやすいだろう。

 

 親鸞の生涯に光をあて、その人生と思想を丹羽文雄なりに探った作品。但し、どこまでが史実や書き残された伝承で、どこからが丹羽文雄の創作か、は私は知らない。本書に見られる丹羽文雄の親鸞解釈が、浄土真宗(特に高田派)とどう整合しているかも、私は知らない。丹羽文雄は当時の政治・社会の全体を視野に収めながら、親鸞が生涯の各段階を通じて信仰を深めていく様を描こうとしている。通史的・編年体ではなく、立ち止まり繰り返し先取りしたり後戻りしたりしながら叙述していく。その過程で丹羽文雄自身が懸命に思索している。栄西、道元や日蓮など他の仏教者との比較対照をしながら親鸞の独自性を浮き彫りにしていく方法はわかりやすい(当否は知らず)。

 

 本書を正確に要約し、その上で自分なりの批評を正確に加えるだけの力量は私にはない。が、読み進めながら、「これは何だろう」「本当か」「自分ならどう考えるか」と思索していくことはできる。思索しながら読むので、その分時間がかかる。本書をまだ十分理解しきったわけではないし、自分の考えが整理できたわけでもない。以下はところどころ気の付いたところについての覚え書きのようなものである。

 

 時代状況としては、源平の合戦、後白河法皇や後鳥羽上皇や周囲の貴族や鎌倉武士の権力闘争、天変地異による人びとの餓死、難民・賊徒化、比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)や園城寺(おんじょうじ)や南都興福寺などの僧や僧兵が入り乱れての闘争と混乱が、うんざりするほど描かれている。仏教界では密教(台密、東密)が盛んだが念仏聖なども盛んだった。その中で・・

 

(登場人物)(実在人物か、丹羽文雄の創作か、知らない)

親鸞:主人公。いわゆる浄土真宗の祖。1173年京都南郊の日野氏(藤原氏の末流)に生まれた。幼名松若麿。幼くして比叡山に上り範宴と名乗り堂僧(学僧などよりランクが低い)を務めつつ仏教、特に他力浄土門を学ぶ。29歳で六角堂に参籠(さんろう)し吉水(よしみず)の法然に入門。綽空(しゃくくう)と名乗る。妻帯し一子をもうけるが35歳頃弾圧により越後に流罪。藤井善信と改名。愚禿(ぐとく)親鸞とも自称。非僧非俗の存在となり越後で別の女性と結婚、土地の百姓らに布教。罪を許されたが京都に帰らず北関東に行き布教、多くの弟子を育てる。60歳頃京都に戻り、市中に隠棲し著述を多くものした。1262年90歳で示寂(じじゃく)。著書『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』ほか。本作では、親鸞の人生のステージにしたがって思索(信仰)も深まる、という方向で書いている。・・JS:①他の伝記では越後から長野の善光寺を経由して北関東に行った、と書いてあったが、丹羽文雄は善光寺については書いていない。私の見た誰かの説に、親鸞は善光寺の勧進聖の一人のような存在だったのではないか、というものがあった。②親鸞の妻についても3人説などもある。当否は知らない。玉日姫伝説については丹羽文雄は否定している。

 

(第Ⅰ部、幼少期から吉水時代まで)

日野有範:親鸞の父親。藤原氏の末流。学者の家柄。親鸞が幼少時に没した。

日野範綱:親鸞の伯父。幼い親鸞を養育。

尋有:親鸞の弟。出家した。

五郎七:京都に暮らす商人。物知りで幼い親鸞に外の世界を知らせ、また親鸞たちの世話を続ける。

万助:五郎七の子。材木商として成功、親鸞たちの世話をする。その子が五左衛門と信輔。

源信:横川の恵心僧都。法然・親鸞よりも先輩の比叡山の僧で、『往生要集』を書き「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」を唱え時代思潮に影響を与える。

空也:法然・親鸞よりも先輩の僧で、諸国を歩いて念仏を唱え井戸を掘り道を作った。

良忍:法然・親鸞よりも先輩の僧で、融通念仏宗の祖。大原を拠点にした。法然・親鸞以前に天台系の念仏をする僧は他にも大勢いた。

源光:比叡山西塔北谷の僧。

皇円:比叡山東塔西谷功徳院の僧。

叡空:比叡山黒谷の僧で、法然の師匠。

法然:親鸞の師匠。源空。比叡山を下り吉水で口称念仏を説き貴賤に信者が多かった。九条兼実とも近い。『選択本願念仏集』を書く。弟子が多い。浄土宗の祖。・・JS:私見では(親鸞も言う通り)法然の信心と親鸞の信心は同じである。いずれも阿弥陀如来からいただいたものだ。だが、丹羽文雄は、法然は念仏中心でどこかに旧仏教を引きずっており自力が残っている、親鸞は信心中心で絶対他力だ、これは全く親鸞の独自の思想だ、とする。浄土真宗の立場から差別化すればそうなるのだろう。が、浄土宗の立場からはどう言うだろうか。また阿弥陀如来の立場から見ればどうだろうか。(下記コメント参照。)

明雲上人:天台座主。後白河法皇や平清盛との関係が深かった。

九条兼実:摂関家。法然に近かった。『玉葉』の著者。

慈円:九条兼実の弟。天台座主。鎌倉幕府に対し公武合体を考えた。『愚管抄』の著者。

重源:俊乗房重源。東大寺大仏の復興に尽力。後白河法皇に近かった。大原問答に列席。

明遍:信西の子。空阿弥陀仏と号した。大原問答に列席。

顕真:天台僧。明雲の弟子。大原に長く住む。大原問答の主催者。のち天台座主。

景戒:奈良時代の薬師寺の僧。『日本霊異記』の著者。本書によれば、親鸞は景戒を先輩として考えていた。

栄西:臨済宗の祖。南宋に留学。鎌倉幕府に接近し鎌倉に建長寺、また京都に建仁寺を開く。『興禅護国論』を書く。本書では権力に接近した点が親鸞と全く違う、とする。・・JS:栄西も道元も外国帰りで新思想を持ち帰ったスーパーエリートのイメージだったろうか。

熊谷直実:『平家物語』にも出てくる武士。出家して法然に入門。蓮生(れんせい)と名乗る。

文覚:もと武士の僧。俗名遠藤盛遠。源頼朝や後白河法皇とも近かった。多くの政争に巻き込まれた。

大業、以心、晦堂:比叡山における親鸞の仲間。語り合う。大業には恋人がいた。

賀古の教信:興福寺の僧だったが西方を志し賀古に住み妻子を持ち念仏をして暮らした。親鸞が先輩として見た一人。

柳原康行:承子の兄。

承子:五郎七の家に出入りする若い女性。親鸞と恋に落ちる。子を産んで亡くなる。その子がのちに善鸞になる。

南英:比叡山にいたが、山を下りて親鸞の弟子になると言い出した。諸国を旅する。

居中:六角堂にいた年長の僧。親鸞に色々なことを教える。・・JS:六角堂で親鸞は夢告を得た、それは観音が妻になってあげるというものだった、といった伝承が知られているが、そんなことは事実ではない、と丹羽文雄は言う。

藤原定家:歌人。『新古今集』編纂者。念仏衆を批判。

市女笠の女:吉水で見かけた女性。筑前。のち親鸞の二人目の妻(恵信尼)となり5人の子を産む。

住蓮、安楽:法然の弟子。美形・美声で、人気があった。後鳥羽上皇に憎まれ死罪となる。

後鳥羽上皇:ほぼ独裁体制を敷く。のち承久の乱を起こし敗退、隠岐に流される。

源実朝:鎌倉三代将軍。京都の文化に憧れるが暗殺される。

証空、源智、聖光、隆寛、幸西:法然の高弟。『選択本願念仏集』の書写を許された。(親鸞も許された。)証空は一念義で西山派。久我通親の養子。源智は勢観房源智。法然の晩年にそばにいた弟子。知恩院2世。聖光は聖光房弁長(字は弁阿)。九州で布教し鎮西派と呼ばれる。浄土宗二祖。本作で丹羽文雄は鎮西派は異教の教えが混入しているとしている。隆寛は藤原氏の高級貴族の子。どちらかと言えば多年義と言われる。親鸞は隆寛を尊敬していたという。幸西は一念義。一度念ずれば救われるのであって、多く唱えるな、と教えた。

行空:法然の弟子。一念義の急進派。佐渡に流罪となる。

阿波介:最初陰陽師だったが、法然に入門。

安居院(あぐい)の聖覚:親鸞が尊敬する先輩。高級貴族の子孫。唱導師。『唯信抄』の著者。

貞慶:興福寺の僧。戒律を重視。念仏集を批判。

明恵高弁:栂尾(とがのお)の上人。清僧。『選択本願念仏集』を批判。『摧邪輪(さいじゃりん)』を書く。

 

(第Ⅱ部、受難から北関東を経て京都に戻るまで)

法然:親鸞の師匠。1207年弾圧され藤井元彦の名で四国に流される。のち許され摂津(神戸)にしばらく滞在した後晩年に京都に戻って没。死の直前に『一枚起請文』を弟子に与えた。また①遺弟・同朋に集住するなと教えた。②報恩追善のために図仏・写経などするなと教えた。(第Ⅱ部204頁)・・JS:私の手元の本では、四国まで行かず塩飽諸島あたりにとどまったとあるが、本作では丹羽文雄は土佐に流されたと書く。但し土佐での記述はない。丹羽文雄創作時点以降に研究が進んだのだろうか? 

安楽・住蓮・西意・生願:法然の弟子。弾圧され、安楽は京都で斬首、住蓮と西意と性願は流罪の上刑死。

浄門房、禅光房澄西、好覚房、親鸞房善信、法本房行空、成覚房幸西、善慧房証空:法然門下。流罪にされた。このうち行空、幸西、証空は一念義。・・JS:丹羽文雄は、①一念義と多念義の急進分子に対する弾圧だった、と記す。隆寛(多念義)は高級貴族出身だから弾圧されなかったのだろうか? ②親鸞は彼らと並ぶ高弟で重きをなしていた、と丹羽文雄は考える。が、元禄時代の義山良照の『翼賛遺事』は、親鸞は幸西の弟子に過ぎない、師法然から擯出(ひんしゅつ)(排斥)された、とした(第Ⅲ部103頁)。

慈信:親鸞と最初の妻・承子との間の子。生まれて来たとき承子が死んだ。また親鸞が越後に流罪になった。慈信は京都に残り承子の兄の家に預けられ、生活のために(と丹羽文雄は記す)天台宗の寺に預けられた。やがて成人後父・親鸞と再会し善鸞となって北関東に行くが、親鸞の教えに背き義絶される。一時は念仏宗に修験道と真言立川流をミックスしたような教えで北関東に一定の勢力を持った。・・JS:これは丹羽文雄の説明である。おそらく浄土真宗の立場(本願寺も高田派も)はこう言うのだろう。だが、善鸞については資料が乏しい。力量のある方が善鸞の真実を研究し書いて欲しいと私は思う。

三善為教(ためのり):越後の国府あたりの豪族。京都の九条家の荘園を管理。

筑前:三善為教の妹。京都の吉水で親鸞を見かけたことがある。親鸞の二番目の夫人になり五人の子を産む。出家して恵信尼。親鸞と越後、北関東、京都をめぐり苦楽をともにする。晩年は越後に住む。彼女の書いた手紙が一級資料となっている。実は「恵信尼消息」の発見は大正10年で、これによって新事実に基づき親鸞の研究が進んだ。

中沢広泰:越後の寺目付。

お種:越後の女。森という名主の家族だが嫂にいじめられて苦しんでいる。親鸞に学ぶ。

明慶:越後の僧。親鸞の越後における最初の弟子になる。お種と結婚する。

覚善:越後の国分寺の僧。越後における親鸞の第二の弟子。

明恵高弁:栂尾上人。清僧であり貴族や武家に人気があった。華厳経学の立場から法然思想を批判。光明真言を唱えよと言った。『摧邪輪(さいじゃりん)』での批判の論点は①菩提心を撥無(はつむ)している点②聖道門を群賊に喩(たと)えている点、だった。・・JS:②既成宗教は(よく言えば人びとの安心に貢献しているが)悪く言えば一般大衆の信心につけこんで搾取している、と言えば言えるので、②の批判は当たらないのでは? ①は高度な議論になる。念仏して浄土に往生して仏になってのちすべてを救う、というロジックであれば、菩提心を否定しているとは言えないのでは? どうなのだろうか?

信寂:法然の弟子。播磨(はりま)の朝日山の信寂。『慧命義』を書いて明恵高弁を批判。(第Ⅱ部211頁)

越後の少年:盗みを働き、仲間が殺人を犯したので、村人から暴行を受けた。親鸞が手当てし念仏を教えた。・・JS:この話は印象的だが、丹羽文雄の創作だろうか? 村人からは殺される運命にある少年に、宗教家・親鸞は何ができるのか? は、非常に深刻な問題をはらんでいる。本作では、親鸞の語りに少年は初めて人間扱いをされたと思いついに念仏を唱える、となっている。生まれたときから劣悪な環境で、人間としての自覚も無いままに犯罪行為の仲間にさせられた少年に、親鸞は語りかけ、少年の心に灯(ともしび)を灯(とも)す。宗教にできることはある。(現代で言えば死刑囚の刑執行に立ち会う教誨師(きょうかいし)に何が出来るか? という問いになるかもしれない。)だが、そもそもの原因である貧困や支配階級の搾取・横暴についてどうすればいいか? は、丹羽文雄の親鸞は言及しない。「宗教はアヘンだ、現実の搾取の構造を改革することなく、世界に対する解釈を変えているに過ぎない」という声がどこからか聞こえてきそうだ。だが、どう考えればよろしいか?

明信:親鸞と筑前の第一子。後の信蓮。越後で生まれ、北関東、京都と家族で旅をし、最後は越後に戻る。善鸞の異母弟にあたる。

俊芿(しゅんじょう):真言宗の僧。南宋に学ぶ。戒律を重視した。高級貴族や武家の帰依を受けた。

萩原民部:越後の郡司。

然阿良忠:鎮西派の聖光房弁長(弁阿)の弟子。安芸から関東を布教。鎌倉でも隆盛。日蓮はこれを攻撃した。・・JS:丹羽文雄は、聖光と然阿は法然から違ったものになってきている、とする(第Ⅱ部214頁)が、法然→親鸞が正統、としたときそう言えるのであって、法然の教えには解釈の幅があり多様な弟子が出るのは当たり前で、聖光や然阿もまた親鸞も、その幅のうちのひとつではないか、と私は考えてみるのだが、どうだろうか? この辺が丹羽文雄が護教的になっている、と私が感じるところだ。(下記コメント参照)

南英:親鸞の弟子を自称する僧。各地を旅し、越後の親鸞と北関東の笠間をつなぐ。

宇都宮頼綱(蓮生):下野国の有力者。源頼朝の御家人だったが疑われ出家して法然および証空に入門。蓮生(れんしょう)を名乗る。京都に隠棲し宇都宮歌壇を確立。のち園城寺再建など。

稲田九郎頼重:常陸国の笠間の稲田の領主。宇都宮頼綱の猶子(ゆうし)と言われる。親鸞の弟子となり教養を名乗る。

塩谷朝業(しおのやともなり):宇都宮頼綱の弟。塩谷家に養子に入った。源実朝にも仕えて歌の相手をした。法然の弟子の証空(西山義。久我通親の猶子)に入門し京都で暮らした。

井上善性:常陸の下妻に近い蕗田に住む。かつては領主だった。稲田に向かう途上の親鸞を下妻に招く。(第Ⅱ部254頁)

鴨長明:『方丈記』著者。丹羽文雄は、文体が素晴らしいが、彼の無常観は美意識に傾斜している、とする。・・JS:この、中世の文芸の無常観は美意識に傾斜していて必ずしも宗教的なものではなかった、というのは、教科書などによくでてくる見解だ。また丹羽文雄は、「鴨長明は仏教的無常観による現世否定の思想をのりこえることはできなかった」(第Ⅱ部267頁)と記す。が、果たして妥当であろうか? 『発心集』なども含めて再読・再検討した方がいいと私は考える。鴨長明は晩年日野法界寺の近くに住んだ。専修念仏の禅寂という友人がいた。つまり法然、親鸞の念仏集に近い位置にいた。天台系の教えを引きずりつつ、専修念仏に接近した人と言うべきかも知れない。

兼好:『徒然草』作者。「求道生活として現世を肯定したのは、そのころとしては珍しいのだが、そのために親鸞のような深甚な苦悩を経験したのではなかった。・・その生涯の態度はあくまで人生の傍観者であったようだ。隠者と呼ばれる所以であろうか。」(第Ⅱ部268頁)と丹羽文雄は記す。・・JS:これも再検討が必要かもしれない。親鸞と兼好はどう違うか。丹羽文雄の描く親鸞は妻帯し家族を作り、民百姓とともにいた。仏典と対決し己の罪を見つめ思索を深め著作をものした。これらに比べると兼好は、公家的趣味人であり続けた。生活の実践においても思索の深まりにおいても、兼好は親鸞に及んでいないような印象だ。だが、親鸞も晩年は市中の隠者だった、下人を使っていた、もしかしたら民百姓と共にいたとする丹羽文雄の親鸞像はあやまりで、非常に学究的な隠者だったかも知れない、などの疑問が残る。どれほど肉体労働をしたかもわからない。親鸞については、①本願寺などの宗門が伝説化した聖人、観音菩薩の化身、②明治以降の思想家・文学者が傾倒した実存主義的また愛欲を肯定した思想家、③民百姓、民衆と共にあった人、などのイメージが語られているが、丹羽文雄の親鸞像は②と③をミックスしたようなイメージだ。

日野左衛門:北関東の久慈の人。親鸞に入門し入西房道円となる。

弁円:久慈の塔之尾の修験者。親鸞一行を襲おうとしたがかえって親鸞に入門し明法房証信を名乗った、という伝説がある。

道元:曹洞宗の祖。高級貴族の子。大宋国で天童如浄に学び禅を日本に持ち帰る。最初京都近郊の深草で布教しようとしたが弾圧され波多野義重のいる越前(福井)の山中に移動、永平寺を創建。・・JS:丹羽文雄は、親鸞は禅の仏心宗グループをみとめていたが、道元は念仏宗を軽蔑した、親鸞は師という意識が薄かったが、道元はおのれを師とする選良意識が強かった、と書く。(第Ⅱ部326頁)道元・曹洞宗サイドからは反論もありそうだ。この辺も丹羽文雄の本書は護教的な印象がある。禅宗が師匠と弟子の法脈を重視するのは有名だ。だが、仏の前に師だの弟子だの、何ほどのものであろうか? だが、親鸞を継承するグループも、結局法脈、血脈、門閥などを言い始めるとしたら、一体何であろうか? 京都で威張っているのは貴族の子孫と京大と同志社と本願寺だ、というジョーク(皮肉)がある。自分を権威付けして他に対してマウントを取ろうとすること自体を法然や親鸞は嫌ったのではないか? (キリストも。)どうですか?

大日能忍:比叡山を下り摂津国に禅を中心とする教団をつくった。栄西や日蓮から批判される。その弟子筋の仏心宗の者が多く道元に入門した。(第Ⅱ部325頁)

懐奘(えじょう):大日能忍の門下の一人。道元に入門し『正法眼蔵随聞記』を書く。

真仏:親鸞の弟子。高田派の祖。

顕智:親鸞の弟子。真仏の継承者。

専信:同上。

光信:親鸞の弟子。武蔵荒木の人。

教念:親鸞の弟子。布川の人。

性信:親鸞の弟子。横曽根の人。

順信:親鸞の弟子。鹿島の人。

唯円:親鸞の弟子。のち『歎異抄』を書く。コメント参照。

妙好人の才一:1850~1932。岩見の才一。浄土真宗の信者。妙好人は浄土真宗の『歎異抄』から出てくる、と丹羽文雄は語るが・・?

尋有:親鸞の弟。三条富小路の善法院(天台系)にいた。

慈信(善鸞):西大寺の堂僧を務めていた。妻子と共に室町の裏手に住んでいた。

宮城:慈信(善鸞)の妻。

如信:慈信(善鸞)と宮城の子。つまり親鸞の孫。のち善鸞とともに関東へ行く。

万助:五郎七の子。材木商。京都に戻った親鸞一家の世話をする。

五左衛門:万助の子。材木商。

信輔:五左衛門の弟。

 

(第Ⅲ部 京都に戻ってきてから)

筑前(恵信尼):親鸞の二番目の妻。越後、北関東、京都と親鸞と苦楽を共にするが、最後は親鸞と覚信尼を京都に残し越後に移住して娘たちの世話をする。越後から京都の覚信尼に送った書簡が大正10年に発見された。

信蓮・道性・小黒(女子)・高野(女子)・王御前(女子):親鸞と恵信尼の子。そろって京都に帰ってきた。王御前はのちの覚信尼。皆で五条西洞院(現在の京都中心部。西本願寺のやや北)に住む。王御前(覚信尼)以外はやがて越後に移住。

信蓮・道性:親鸞と恵信尼の子。越後に行き布教。他の女子二人も越後に行った。

王御前(女子):親鸞と恵信尼の子。のちの覚信尼。京都に残る。日野広綱の妾となり男子・光寿(覚恵)と女子・宰相をもうける。(覚恵は覚如上人の父。覚如上人は本願寺派の実質的な祖。)広綱没後、小野宮禅念と再婚し一名丸(唯善)を生む。のちに唯善と覚恵・覚如の間で相続争いが勃発する。これについて丹羽文雄は少し触れるだけで詳しくは述べない。

日野広綱:久我通光に仕えていた。壬生に住む。覚信尼を妾にし一男一女をもうけるが早く死んだ。

小野宮禅念:小野宮少将具親の子。覚信尼の二度めの夫。

照阿弥陀仏:女性。覚信尼と小野宮禅念を結びつける。

蓮位:晩年の親鸞のそばにいた弟子。源頼政の孫とも言う。

尋有:親鸞の弟。

即生:尋有の子。蓮位に学び、専修念仏の徒として東国へ行く。鹿島門徒と共にいた。

今御前:尋有の妻、即生の母。関東出身。

 

善鸞親鸞の長子。慈信。母は承子。ずっと京都で過ごしてきた。丹羽文雄の叙述によれば、親鸞一家帰京後善鸞一家も同居するが、家に居場所がなかった。関東の本願誇り対策のため親鸞の命で関東へ。しかし関東のリーダーたちはそれぞれ自分の教団を持って対抗しあっており、善鸞を権威付けのために利用しただけで、ここにも善鸞の居場所はなかった。善鸞はついに、「自分だけが父・親鸞から学んだ秘密の教えがある」と自称し独自の布教を始め、関東の教団を混乱させる。地頭たちや幕府も巻き込み大きな問題に。親鸞は善鸞を義絶。善鸞は真言立川流と修験道を専修念仏にミックスしたような教えで一時信者を集めた。・・JS:但し、善鸞義絶状については、丹羽文雄は言及していないが、偽作説があり、論争がある

 

哀愍(あいみん):北関東の念仏者。善鸞に接近し、独自の教団を作るよう使嗾(しそう)する。

大部(おおぶ)の中太郎:北関東の専修念仏の信者。善鸞を歓待するが信者を多く取られる。

仁寛:真言立川流の邪祖とされる人物。伊豆に流され、武蔵玉川あたりを根拠とし、関東で隆盛。

日蓮:日蓮宗の祖。『立正安国論』『開目抄』を書いた。強い使命感を持ち、他の宗派を攻撃。浄土教については然阿の専修念仏が関東で流行していて、これを攻撃した。晩年は身延山に隠棲、下山して池上で示寂。丹羽文雄によれば、日蓮は親鸞と同じく出自を誇らなかった。だが師としての意識が強烈だった。対して親鸞は同行・同朋の意識で念仏者に接した。二人は対照的だった。(第Ⅲ部227頁)

 

(コメント)私は仏教教学の素人である。素人なりに本作を読んで考えたことを書いてみる。

 

1        法然と親鸞の違いはあるのか?

 そもそも法然は何を考えた人か? 私なりの法然思想の理解を非常にわかりやすく書いてみよう。弥陀から念仏を与えられて往生し正定聚になる。(正定聚になるのは親鸞の理解の通り生きている間でも一向に構わない。)極楽浄土では好きなように修業して次には自分が仏になる。喩えると、弥陀から念仏を与えられたのは、高校生なら東大の合格通知をもらったのと同じだ。これで残りの高校生活を胸をはって夢と希望に満ちて顔を上げて歩いていける。それで東大に入ったら終わり、ではない。東大という最高の環境で勉強し、大学卒業時には完全に学士号を得て何でも自由自在にすることができる。東大合格イコール卒業して学士号を貰うことは100%決まっている。(現実の東大はそうではないが、ここではそういうことにしておく。)弥陀から念仏を賜り(東大から合格通知が届き)、喜びを持って現世を生き(胸をはって高校生活を過ごし)、極楽浄土に往生したら(高校を卒業したら)終わり、ではない。そこで弥陀仏のもとで(東大で)思い切り好きなように勉強・修行し、(そのときは1日も1万年も同じように過ぎる、落ちこぼれることはない、朝飯前にどこの浄土にでも行き来できて学べる、(どこの大学でも自由自在に行って学べる))ついに自分が悟りを開き成仏して(東大を卒業して学士になって)、スーパーパワーを得ているので、何でも自由自在にすることができる(万人を救済する浄土を作ることも出来る)(社会人になって大いに世のため人のために貢献する)。この喩え、どうですか。

 

 丹羽文雄は、親鸞は法然を尊敬しており批判しなかったが、法然と親鸞は実は異なる、と言う。(自分の宗派だけが他と違って正しい、と言い立てているとすれば、私は好きではないのだが。)丹羽文雄の言うところによれば(正確に読み取れていないことを恐れるが)、法然では死後に極楽浄土に往生するが親鸞では念仏をしたその瞬間に定聚衆になっている、法然が何万回も念仏をしたのは旧仏教の念仏の影響を引きずっているが親鸞のは基本的に1回でよい(一念義に近い)、法然は念仏を根本とし親鸞は信心を根本とする、法然は仏よたすけたまえと称えるが親鸞は仏よりたまわりたる念仏だ、法然の念仏の思想は他力の中に自力が残るが親鸞の念仏は自力も含めて全て他力の中に収めとられているが親鸞の思想では一度の念仏で救われている、法然は理論の人だが親鸞は実践の人だ、法然は独身の清僧だが親鸞は妻帯した、法然が高級貴族に病気平癒の祈祷をしたのは旧仏教を引きずっているが親鸞は民衆のための浄土三部経読誦もやめてしまった、法然が臨終行儀を行ったのは旧仏教を引きずっているが親鸞はそうではない、法然は臨終の間際に仏・菩薩を幻視したが親鸞は超常現象を信じなかった、法然の弟子の中に一念義や多念義また旧仏教との混交などが出てきたのは法然自身の持っている矛盾の表れだが親鸞はそうではない、という方向で丹羽文雄は書いている(と私は理解した)。

 

 だが、私は、以上にやや違和感を持つ。無量寿経の法蔵菩薩の誓願を深く信じるならば、念仏は(その信心も)如来からきたもの(第Ⅱ部379頁には法然が「信心は仏の方からたまわるものである」と言っている)で、誰でも救われるのは当たり前だ。法然の『選択本願念仏集』の「選択」も、人間が選択するのではなく、如来が選択したのだろう? 如来の圧倒的な救済力の前では、他の大小の違いは、大したことではない。無駄に論争することもない。何回念仏しようと祈祷や儀式をしようと臨終行儀をしようと独身だろうと妻帯だろうと、如来の目から見れば大した違いではないはずではないか。人間は愚かだからあらゆる間違いをする、仏道修行や経典解釈においても間違いをするのである。病気になれば祈祷したくなるしその祈祷を意味がないと思って途中でやめることもある。そんなことは全部分かった上で、「わが名を唱える者はすべてこちらに呼ぶ」と如来は言っておられるのだから、法然『一枚起請文』にある通り、これ以上の詮議は無用(詮議しても構わないがやはり無用)、と私は思う。

 

 お経の読誦自体を100%排除すべきだ、という純粋主義(原理主義、と言うべきか)的な立場を貫くと、かえって愚かな人間が救われないのでは? 浄土真宗もお寺を建てて葬儀をしていますよね? 全部否定すべきですか? (丹羽文雄『一路』では、寺を建てるのも方便、という考え方が示されています。)人間の愚かしくも懸命な営みを、如来は微笑んで納受し給うのでは? どうですか?

 

 死の直前法然に仏菩薩が見えたことについては、丹羽文雄は批判的な書き方をしているが、①現代の無神論的な心理学から見ても、仏菩薩が見えることはあるはず。②信仰の立場から言えば、見えることはあるはず。「ある」「ない」は科学的には実証も反証もできない。丹羽文雄は当時の科学・唯物主義的無神論に引きずられているような印象があるのだが・・?

 

 なお、「無上仏」「自然法爾(じねんほうに)」については、よくわかっていない。これらも、法然思想の展開のバリエーションのひとつであって、法然から逸脱しているわけではない、と見ることもできるのではないか? と言ってみたい気がする。法然はそこまで振り切った言い方をしてはいないが、根を詰めて考えていったときそうも考えられる、つまり法然から逸脱したとも言えないのではないか? 与えられた人生を、弥陀の力に包まれて念仏を唱えながら懸命に生きて、最後は極楽往生して弥陀のもとに行くのだから、それでいいのだ。

 

 すると、法然以前善導などにもあり、法然門下で多様に展開した他力本願・念仏宗の、しかし多様な展開例のひとつとして親鸞を位置づけるなら、その子・善鸞もまた、その多様な展開例のひとつとなりうる。善鸞を義絶する必要はなかった、という可能性も出てくる。その後の門徒たちの派閥争いの中で誰が正統か、という論議はあっただろうが、法然はもちろん親鸞もその姿を悲しい思いで見ていたかもしれないなと思うのは、あくまで私想像でしかないが・・

 

 丹羽文雄の親鸞解釈の恐らくキモの部分を、私はここでまだ避けて通っている。愛欲をはじめ罪を背負ったまま救われている、仏と親鸞のあいだに間然するところがなかった、親鸞は仏に持たれていた(第Ⅱ部379頁)、人間はおのれの自力そのもののなかに仏の本願力を感じるのだ(第Ⅲ部31頁)、「火宅無常の世界のそらごと、たわごとそのものの上にしか、われわれのもとめる真実はあらわれないのだ。しかし、念仏だけは唯一の真実である」(第Ⅲ部40頁)、などの言い方を丹羽文雄は親鸞にさせている。が、そこがよくわからない。それは「煩悩即菩提」や「娑婆即浄土」や如来蔵思想天台本覚思想とどう同じでどう違うのか? 無学な百姓にはすぐわかることだ、と丹羽文雄は言うが、勉強不足の私にはすぐにはわからない。浄土宗辞典によれば法然の思想は本覚思想と最も遠いところにある。丹羽文雄の親鸞は法然を否定したとすると、本覚思想に回帰した、と解釈すべきなのか? これを考えるには今の私はまだ勉強不足だ。

 

2 親鸞と唯円の違いはあるのか?

 親鸞と唯円『歎異抄』はズレがある、と丹羽文雄は考察している丹羽文雄は、『歎異抄』13章の「善悪の宿業」「宿善」「悪業」への言及について、「いかにも仏教的な宿業論」とし、これは唯円であって親鸞ではない、とする。親鸞の宿業論は、従来の宿業の定義をはみ出すものであって、「命がけの求道の末に見出したもの」だ、親鸞は「善因善果、悪因悪果」を認めることができなくなった、とする。(第Ⅱ部356~357頁)どうであろうか。親鸞と唯円はどう違うか。ここは難しい。弥陀の誓願により悪人も救われる、は私もよくわかる。そこに因果説や業の理論がどう入るのか? 因果も業も一挙に飛び越えて弥陀の圧倒的な力は私たちを救済する、(すると、念仏者は弥陀の圧倒的な力によって因果や業から解放され自由になる、)と私は思うのだが・・?

 

3 補足 悪人正機について

 

 『無量寿経』によれば阿弥陀如来は法蔵菩薩第18願で、「極楽浄土に生まれようと欲してわが名を称える者は必ず呼ぶ」と言っておられる。「唯、五逆と正法を誹謗する者は、除かん。」の記述は、岩波文庫『浄土三部経』(上)(1963年)の311頁の注では、呉訳・漢訳・宋訳にはなく、梵本・チベット訳・唐訳にある。古来論争がなされてきた。(将来このような罪を犯すなよと誰かが付記したのかもしれず、)心眼で読めば、たとえ罪を犯したとしても、当然、救う、と解釈できる。『観無量寿経』によれば下品下生の者で五逆・十悪を作りもろもろの不善を具している者も、阿弥陀仏の名を呼べば、極楽世界に往生する、と書いてある(『浄土三部経』(下)岩波文庫1964年版78頁)。

 

 唯円の『歎異抄』には「悪人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という有名な言葉がある。これは唯円が書き込んだのか、親鸞の言葉なのか、あるいはもしかしたら法然がこうおっしゃった、と親鸞が言ったのか? 知らない。

 

 丹羽文雄は親鸞と『歎異抄』は少し違う、と本作で書く(上記)。

 

 参考までに、尾西康充氏(三重大学人文学部教授)は「丹羽文雄『菩提樹』論―親鸞思想への回帰」(広島大学近代文学研究会『近代文学試論』53号、2015年12月)の中でおおむね次のように述べる。

 

・・・真宗高田派勝鬘寺の住職の子であった長井真琴・元東大教授は『歎異抄の現世批判』(『大法輪』第29巻8号、1962年8月)等の論文で、「廃悪修善の倫理的立場に立っての悪人正機思想批判」を行った、長井氏によれば、『歎異抄』における「悪人礼賛」は決して看過できない、仏教本来の思想を忘れ歪曲したものだ、と主張した。栗原広海氏は、「高田派は「悪人正機」を説かないのかー長井真琴氏の真宗理解と『岩波仏教辞典』批判」(『高田学報』第86号、1998年3月)で、長井氏の考えは「実は親鸞思想そのものを否定することにもつながるもの」とした上で、「善人なをもて、云々」の言葉を、「自己こそが弥陀の救済の第一の対象、すなわち正機であることを信知した人が往生の正因の人、換言すれば、信心が往生の正因である」「平等的悪人正機思想の上に語られる「悪人正因」の思想」なのだ、と説明した。・・・これは平雅行氏の「信心正因説」と重なる、また、親鸞思想の革新性とされてきた悪人正機説が近年再検討されてきて、親鸞以前の顕密仏教の中にすでにあった、親鸞の往生説は空海の即身成仏説に類似している、などの解釈が提出されるようになった。・・

 

 以上、尾西康充氏の論文から。ここでは宿業論ではなく悪人正機について議論されている。丹羽文雄が『親鸞』を書いたのは昭和40年代であるから、上記の長井氏の論文を読んでいる可能性があるが、本作において明確にそれと名指しして論及してはいない。

 

 手元の『岩波仏教辞典』(1989年)には「悪人正機」の項に「悪人正機の説は、東西本願寺および『歎異抄』などでの説であり、真宗高田派は必ずしもそれに同調しない」とある。栗原広海氏(私は未読)は長井真琴氏および『岩波仏教辞典』の説明に対して(本当か?)と疑問を述べ(悪人正機・悪人正因が親鸞・唯円の思想だ)と述べた、ということだろう。尾西康充氏は栗原氏の考え方を紹介しつつ(栗原氏の理解は平氏の理解に近い)と述べた。

 

 ここは分かりにくいので説明し直す。上記によれば、おそらくこのようになる。

・長井真琴氏以前に、『歎異抄』を通して悪人を礼讃する思潮が流行した。

・長井真琴氏が、倫理的立場からそれは容認できない、とした。

・長井真琴氏が高田派だったため、高田派は「悪人正機」を説かない、といった言説が盛んになった。『岩波仏教辞典』もそう説明している。

・栗原広海氏はそれに対して異議申し立てをし、「悪人正機」・「悪人正因」が親鸞・唯円の思想だ、と述べた。

・それは林雅行氏の「信心正因」説に近い。尾西康充氏はこのように述べる。

・丹羽文雄は高田派出身であり、長井氏論文を読んでいる可能性はあるが、わからない。

・・・なるほど。どう考えればよろしいか。

 

 自販機に100円入れたら缶ジュースが出てくる。それと同じで、念仏をすれば必ず悪は帳消しになり極楽浄土に行ける、だからどんどん悪いことをしてしまおう、となるとしたらおかしいのではないか? 承服できない、と言った友人がいた。たしかにそうだ。だが、そういうありかたは「本願誇り」である。念仏をするときには、苦しく、自分は何も善ができない悪人だ、との自覚があって、阿弥陀如来様、お助けください! と切実な思いで如来の名を呼んでいるはず。念仏は100円玉を自販機に入れるのとは違う。こう考えてみた。どうでしょうか?

 

 別件だが、丹羽文雄は、親鸞こそ全く新しい独創的な思想を述べた、と本作で述べているが、どうだろうか。上記のように尾西氏に言われてみれば、親鸞の、現世において直ちに不退転の位に住す、という説は、空海の即身成仏説に類似しているようでもある。禅宗の悟りで生身のまま印可を貰うのはどうだろうか。「煩悩即菩提」の類いのよくある言い方はどうだろうか。 

 

 とりあえず今回はここまでにする。もっと勉強すべきか、あまり議論の隘路(あいろ)に入らずただ如来の救済力をあてにしておればよいのか、どうだろうか。

 

 私は専門の研究者でもないし浄土真宗の学僧でもなく、周辺をうろうろしているだけの者でしかないが、二冊だけ本を紹介しておく。割合に最近出た本だ。

・島田裕巳『新解釈 親鸞と歎異抄』宝島社新書2023年

・小山聡子『浄土真宗とは何か 親鸞の教えとその系譜』中公新書2017年

 

 ありがとうございました。