James Setouchi ボルヘス『砂の本』(篠田一士・訳) 集英社文庫 (中南米文学)
1 集英社文庫『砂の本』には、『砂の本』『汚辱の世界史』という二つの短編集が収められている。
(1)短編集『砂の本』には、『他者』『ウルリーケ』など13本の短編が収められ、その最後(第13番目)が『砂の本』という短編だ。これに「後書き」が付いている。
(2)短編集『汚辱の世界史』には、「初版序」「一九五四年版 序」に続き短編集『汚辱の世界史』、短編『ばら色の街角の男』、短編集『エトセトラ』、資料一覧が収められている。
2 短編集『砂の本』El liblo de arena
ボルヘスは1955年に視力を完全に失った。『砂の本』は1975年に出た。「後書き」を参照すれば口述筆記されたものと思われる。もっとも、ボルヘスの言うことだから、どこからが事実でどこからが虚構かはわからない気がする。そう思ってしまうのが、すでにボルヘスの術中にはまっている証しかも知れない。集英社世界文学事典の木村榮一によれば『砂の本』は「平明な語り口」となっていて、難解とされるボルヘスの作品の中でも入り口としてはよいかと思う。いくつか紹介する。
第1の『他者』は、1969年のボルヘスが、ボストン郊外で、自分の分身=若いボルヘス(ジュネーブにいる)に、時空を超えて出会う話。ボルヘスには時空を超える話がある。
第3の『会議』は、世界のすべてを把握しようと有志が集まり「世界会議」を開く話。そこには世界中の本を集める。だが・・ボルヘスには世界のすべてを知ろうとする話がある。
第5の『三十派』は初期キリスト教の異端(架空の存在だろうが)を描いてみせる。いかにもアカデミックに史料に忠実に見えてどうやら虚構らしい。
第8の『ウンドル』はただ一つの「御言葉」を求める話。最後の『砂の本』は、世界に一冊しかない、「はじめもなければ終わりもない」謎の本の話。「わたし」はこの本を結局図書館に隠す。
すべて、確かにボルヘスの世界だ。
3 短編集『汚辱の世界史』Historia universal de la infamia
詐欺師、海賊、ギャング、ガンマン、魔術師などの列伝。話題は古今東西にわたる。連続で読んでいくと、全体として、世界は理不尽な暴力に満ちている、その中で人は単純なプライドに囚われて生き、あっけなく死んでいく(どのような悪辣な海賊やギャングのボスでも)、という印象を得る。主人公たちは理不尽な境遇に生まれ、暴力に巻き込まれ、あるいはプライド故に自ら暴力の担い手となり、暴力によって死んでいく。但し事実と虚構をおりまぜて書いてある。
一例を挙げると、『忠臣蔵』と吉良上野介が出てくる。日本で知られている『忠臣蔵』は、刃傷沙汰は江戸城で起き、大石主税は松山藩預かりとなって切腹するが、ボルヘスの短編では、刃傷沙汰は赤穂城で起き、大石主税は討ち入りの日に死亡したことになっている。この改変が、ボルヘスが意図的にしたものかどうかはわからない。この話が、海賊やギャングの話の中に折り込まれていることで、中南米の読者はどのような印象を持つだろうか?
初版の序によれば、これらの習作は、1933年から1934年にかけて書かれた。ボルヘスは当時三十代で、作家として徐々に有名になってきた頃だ。
4 ホルヘ・ルイス・ボルヘスJorge Luis Borges1899~1986
アルゼンチン生れ。詩人、作家。日本で言えば夏目漱石クラスの、中南米では最も有名な人。1914年からヨーロッパで過ごす。1921年帰国。『論議』『汚辱の世界史』『永遠の歴史』などで有名になっていく。市立図書館に勤務、『伝奇集』を出すも戦後ペロン政権により左遷され退職。のち『アレフ』『続・審問』を出す。ペロンが失脚すると国立国会図書館長に任命される。国民文学賞受賞、ブエノスアイレス大学文学部教授となる。1961年ベケットとともに国際出版社賞受賞。作品が海外でも翻訳され始める。失明したので詩集『他者、自身』から『陰謀者たち』までは口述筆記で創作。『砂の本』は1975年。(集英社世界文学事典ほかを参照した。)
(中南米の文学)
フェンテス『アルテミオ・クルスの死』、ファン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』(メキシコ)、カブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』『族長の秋』(コロンビア、カリブ海)、バルガス=リョサ『緑の家』『密林の語り部』『ラ・カテドラルでの対話』(ペルー)、アレホ・カルペンティエル『失われた足跡』(キューバ、ベネズエラ)、イザベル・アジェンデ『精霊たちの家』(チリ)、コルタサル『追い求める男』(アルゼンチン)、ボルヘス『アレフ』(アルゼンチン)など。