「ありのまま」でいいんじゃない -5ページ目

何も言わずとも

12/22(月)10日目、道の駅キラメッセ室戸を午前6時に出発して、海っぱたを歩きながら道の駅大山を目指した。
途中には標高430mにある難所の一つと言われている27番礼所がある。登山道が約4km続き「真っ縦(まったて)」と呼ばれている。
 
 
この礼所に三菱財閥の創始者「岩崎弥太郎」氏の母が子のためにと片道20kmの道のりを素足で21日間通い続けたという逸話があることは知らなかった。
 
 
母親の子供への想いは良くも悪くも子供の心に響いている。自分のことのようになりふり構わず感情が入り込んで突っ走る母親もいれば、他人事のように子育てを放棄する母親もいる。子供の傍でじっと静かに見守る母親もいれば、弥太郎の母親のように人知れずとも身を律して願掛けする母親もいるだろう。
 
 
子育てを放棄する親は別として、子供への時間を優先するのか、自分への時間を優先するのか、期間を含めてその度合いを見失ってはいけない。子供と過ごす時間と自分の時間どちらを優先するのか、葛藤を繰り返しながら子供と親は家族という土台を築いていく。
 
子供が成長していく中で親はいつまでどのぐらい子供への時間を優先して直接的に関わるのか、関われるのか。親自身の人生観や価値観が決めている。独り立ちするまでのその子のすべてがその親に委ねられていることを親自身は自覚するしかない。
 
 
子供が成長していくその心に合わせて鏡のようにぴたり心を重ね合わせることはできない。それは常にお互いの心が変わっていくから。家族が共感できる空間があり、お互いの心が響き合っていれば、何も言わずとも常に尊重し合っているだろう。

気づくためにどうあるべきか

12/21(日)9日目、これは前日のご飯。宿の人が作ってくれたおにぎりを二つ持って朝焼けの中6時半から歩き始める。昨日は何から何までびしょ濡れ。宿につくとすぐ様、少年の時のように靴に新聞紙を入れて乾かし、洗濯場が広くテントを干せたので物干し竿につるさげた。何より乾燥機がある宿でホッとしたのを覚えている。道も平坦で海沿いを歩くことが多いこともあって昨日は約45kmを歩いていた。
 

 
二度と同じ風景は見れないから「ちゃんと見よう、この今しかない」という思いがあったのですが。日々変わる風景に「素晴らしい」という言葉が出るのも、ごく当たり前に心が潤い満たすものがふと現れた時だけ。自然の厳しさを噛み締めて歩いていたとき何を思い感じていたのか、思い出すこともできない。ただ辛いという思いはまったくなかった。その時の思いは深い心の底にあるのでしょう。
 
 
何を感じ、何を思ったのか、と考える前に何かに気づけないと始まらない。同じようなものでも感じるものがぜんぜん違うことがある。そこには心の中にある前後が必ずあるから。その前に感じているそのものとの違いや変わりっぱなに気づけたとき、そのものの持つ魅力が生まれるような気がする。心の中も年とともに変化することがあって、心の底にある何かに気づけたとき過去は変えられないけど意味あいは変わって昇華することがある。
 
 
気づくためにどうあるべきか。
 
 

純粋な内省が価値観になる

12/20(土)8日目、昨日とうってかわって冷たい雨と風。前日は内妻海岸にかかる橋の下に雨を凌ぐためにテントを張ったのですが。平らなところがなく傾斜のある地面のおかげでテントに雨水が流れ込み始める。慌てて雨風に打たれながらテントを畳んで午前5時に歩き始める。街灯もなく真っ暗、携帯する小さなライトが唯一の光。200mぐらい歩くと、無くなっているゴールドのホイッスルに気づく。
 
 
手作りの貴重なホイッスルだった。立ち止まり考えた。探すか、探さないか、探しきれるかどうかも。苦渋の選択とまではいかないが少し心に引っかかった。それでも探しても見つからないと潔く捨てた。その人なりの価値観に揺れ動くってこいうことなのかな。優先しているのは何?素早く決め切って前に進むことが試された。
 
 
人は価値観から生まれる執着に翻弄されやすい。要る要らないを抜きにして抱え込もうとする習性は人の性。人はしがらみに惑わされ抜けきれず、昔取った杵柄的な価値観が今どうなのか、今の自分の価値観は朽ちていないか、そうであればどうする、と考えることから避けていこうとする。
 
地道な基礎研究者達の価値観は人が生きる鏡になる。日の目を見ることすら分からずも日々前に前に進もうとする。自分の価値観と他人の評価を付き合わせない。他人からの評価に期待感ある執着がない。自らが優先する価値観以外はきっぱり削ぎ落とす。私にはそう見える。今の自分自身への純粋な内省がそのまま自分の価値観になっているのだろう。
 
自分の中にある価値観同士がぶつかり合いながら、好天だろうが、荒天だろうが前に進まなければならなかった。
 
 

和やかな言葉

2014/12/19(金)7日目、和やかな1日がゆっくり始まる。こんなに海の近くで波の音を聞きながら眠り起きたことはない。言葉で表すことのできない絡み合った「音いろ」があった。
 
 
人の手が加わらないものにどんどん惹きこまれていく。荷物の重さや流した汗と引き換えに自然そのものが心に飛び込んでくる。じっくり歩いてみないとわからない感覚が感性を刺激してくれるのかな。車で通り過ぎただけでは気づけないものがたくさんある。それを知るとやっぱり歩きたくなる。
 
 
感じたことを一つ一つを言葉にはできないけど、その感覚とはいったい何になるんだろう。匂いだとか、音だとか、景色だとか、顔に当たる風だとか。一つ一つはバラバラでもパズルのように心に刻まれていて、いつしか「和やかな言葉」という図柄になっていくんだろうな。もしかしたら何度でも同じような感覚を味わおうと心が欲していくんだろうか。
 
 
「和やかな言葉」の図柄ができあると何に気づけるのかな。時間をかけて感性とともに言葉を磨くしかない。感性で培われた「和やかな言葉」が人の生きる道を気づかせてくれると信じて。
 

穏やかな動きは心を整えてくれる

二十二番札所で参拝を終えて海に向かう。
陽も落ち始め夕方5時を過ぎてテントを張れる場所を探しながら歩いていると、田井の浜駅近くにある海岸がいきなり現れて微笑んだこと思い出す。地図には海水浴場は載っていなかったから。公衆トイレの横にこの薄明かりのおかげでテントが張れた。写真で思い返しても「穏やか」な気分にさせてくれた海だった。
10年前に「穏やか」という字をほぼ毎日のようにTHREE YEAR DIARYに書き込んだことがある。「まあ、いいか」ではいられない。「これくらい、いいだろう」ができない。「ゆるすということ」という本を読んでから10年が経つが何度も何度も読み返してきた。ずいぶん時間をかけてここまできた。
 
「穏やか」でなければそこにあるものは「不安」や「怒り」の元がある。向き合いきれず、誤魔化したり、正当化したり、後悔したこともある。去年暮れにアンガマネジメントファシリテーター養成講座を受けた。「怒り」と向き合うことで、「怒り」の連鎖を断ち切ることで「穏やかさ」が育まれることを理論的に知った。
 
自分に対しての不満や不安は分かりづらく隠れている。日々日常のちょっとした仕草、「ドアを静かに開け閉めをする、ものを丁寧に置く」などに常に意識して所作を身につけていくとマイナスの感情は離れていくことに気づいた。丁寧な身のこなし、穏やかな言動は心を整えてくれる。合掌もそのひとつ。
 

極限が日常になるとき

「極限」を言葉にすることは難しい。そこを話す人も聞く人もいたって少ない。人によって程度の差はあったとしても生きた言葉になることは間違いない。その人なりの「極限」を聞いては心動かされてきた。
 
残された道は限られたという状況でその人の心の中をわかるように示すことは容易くない。追体験したように同化して、その人に入り込んで噛み砕いて、ようやっと言葉が出てくる。それまでには程々の時間がかかる。それを持ってその人の全てではなく、その人の僅かなものに触れたに過ぎないことを忘れがちだ。
 
自らの経験値をも超えた経験に言葉足らずになるのは致し方ない。それでもなんとか感じたことを伝えたいと思うのはなぜなのだろうか。
 
他人に追い込まれるとか、自分で覚悟を決めるとか、それそのものが無いのが「極限」じゃないのかな。やめるとしても、やるとしても決めているのは誰なのか。

人は最後の最期になっても試されていると噛み締められたとき、他人には「極限」に見えるものがその人にとっての日常になっているに違いない。

ペットボトルの中身がシャーベット状になっていくのを目の当たりにする。手袋を外し蝋燭に火を灯すためにライターの金属部分をこすると指が痛い。日常と非日常の境目が薄れていったことに今頃気づく。
 

いったい自分自身とはなんだろう?

宿からの約20kmが「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と言われる難所の二つだとは知らなかった。焼山はすでに歩いてきた。標高500mにある二つのお寺は那賀川を挟み、登山道で訪れることができる。静かな支流に沿って足跡一つない新雪を踏み締めて歩く。朽ちた小学校跡もあった。匂いもなく雑音もなく透き通った空間はちょっと言い過ぎかもしれないが、まるで真空状態のようだ。「ドクっ、ドクっ、ドクっ」という心臓の鼓動が耳に残る。
 
 
人は生まれながらにして自然を欲する気持ちを抱いているんじゃないかな。心えぐられ、洗われ、ふきとられた「昨日と今日」。陽があれば暖かさを、なければ寒さを超えた痛さを感じた。自然は時として厳しい牙を剥くのが世の常。人間に何を問いかけているのだろうかと事あるごとに考えさせられる。繰り返される自然の猛威を垣間見て他人事でいられる人間はどこに向かうのだろうのか。
 
未来を覗く空間には自然の中での孤独がもってこいのような気がしている。
 
急な坂がアイスバーンで普通に歩いては上がれない。重い荷物を背負ったまま、杖を脇に挟みながら四つん這いになり、恐る恐る這いつくばって上がっていった。体の芯を緩めれば間違いなく滑り落ちる。滑り落ちれば必ず大怪我をする。結構高いところにある丸太の一本橋を渡るような緊張感があった。「どうしてもたどり着きたい」と言う強い意志が支えてくれた。
 
 
厳しい自然に身を委ねることができたのですが、今思い起こせることが「今の自分自身」。さらに時が経ち新たに思い起こせることがあったなら、それもまた「今の自分自身」。今の私は「孤独」と「意志」が少しわかるようになったところかな。
 
 
 

出来事の意味は変えられる

と言うわけで迷い道から戻ってきたらお腹がグーと鳴っていた。道の駅にあるレストランで一息いれる。店員さんに道の駅の中にある遍路小屋でテント泊できるのかを尋ねると、「マナーが悪い人が多くなって今はできない」と。

 

「近くに宿はありますか?」と尋ねると親切な方で知り合いの宿にすぐ電話を入れてくれた。その宿は自宅を少し改良してお遍路さんが2人だけ泊まれる遍路宿、外見は一般宅だ。目と鼻の先には元総理菅直人さんも宿泊した宿があった。

 

黒光りしている石風呂はご主人手作りのものだった。石職人ではないご主人は趣味で洞窟に彫刻している人。奥さんは話好き。3人でテーブルを囲み話が弾んだ。奥さんからお孫さんがサッカーをしている話題が出てきた。

 

四国お遍路で唯一、私は自分の家族のことを話した。「僕には3人子供がいて皆んなプロサッカー選手になったんですよ」等々アットホームな雰囲気に口は滑らかになった。「どうしたら3人もが」と聞かれたので「彼らが自分で挑んだからですよ」と伝えた。四国から帰ると直ぐに私が執筆した本を送った。

 

道に迷わなければお会いすることのなかったご縁なのかもしれない。迷わなくてもお会いできたご縁なのかもしれない。それはわからない。もう一度お会いするための縁もあれば、二度とお会いできない縁もある。出会った意味さえもわからない縁もあれば、何も気づけないご縁もある。

 

縁の意味を深く感じとれたとき、そのご縁はその人の心の中を生き続けていくんだろうな。出来事の意味はいつでも変えられる。

 

 

自らの地図を作り、生かすために

札所近くにある宿に夕方4時ごろ着く。宿のご主人が玄関入るなり「今なら間に合いますよ」と声をかけてくれたおかげで重たい荷物を降ろして明日朝一で行く予定の18番礼所に行ってこれた。

 

朝起きると雪がちらついていた。気温は毎日10度以下それでも500mlのペットボトルが2本から3本はなくなる。歩いていれば湿ったグローブも湯気が出て温かくなるほどどっぷり汗をかく。雪の中、地図を出すのも億劫になり見ずに「遍路しるし」を見つけながら川沿いを歩いていた。顔にあたる雪が痛かったのを覚えている。吹雪いてきた。

 

 

先を見通すと人がひとり渡れる一本橋が見えてきた。渡りたい心境にかられた。橋には「遍路しるし」らしきものがあったような、なかったような。あとで知る「星の岩屋」「佛陀石」がある標高300mの山中へ吸い込まれていった。

 

 

雪山の中で3時間近く歩き迷ったあげく、ぐるっと回って振り出しに戻った。giveup寸前119番通報することも脳裏をかすめた。辛うじて舗装された道に出れた。それでも今いる場所が分からないから地図も読めない。GPS機能があるものは持っていない。分かれ道では立ち止まっては歩き出し、また引き返すことを何度か繰り返す。それでも理由もなく直感で意を決して歩き出した。しばらく歩いていると軽トラが止まっていた。いきなり「冷汗」と「暖汗」が混ざり合った。地元の方に道を聞いて難を逃れた。

 

始まりは地図を出さなかったことから。地図を見ていれば起きなかった出来事かもしれない。地図はあっても読めなければただの紙くず。地図はあっても読まなければこうなる。

 

おぼろげながら人生の地図を描いては消してと何度も書き直してきた。地図にないところを歩いたり、地図通りに歩いたりと。生きるには自らの地図を作ることから始まる。善心の地図も。

 

どこに終わりをおくのか。何を持ってよしとするのか。何を残したいのか。そういうと何か大きな地図のように思えるが小さくてもいい。大きさではない、中身だと今は思える。

 

外に関わりながら、外に向けていたエネルギーを内に向けると外は少しづつ変わり始めることに気づいた。内で描いた地図は何度でも書き直せる。その地図を生かすために善エネルギーを惜しみなく注ぐことだ。

心動いて、心止めて、さらに心動かせるように

訪れるお寺にある納経所はすべて朝7時に開かれ夕方5時には閉まる。歩き始まりは最初に訪れるお寺までの道のりを考えてその日のスタート時間を決め、歩き終わりは宿泊の場所か次に向かうお寺の場所で決める。基本は夕方4時以降、夜は歩かない。遅くても朝6時半までには出発すると決めていた。

 

8番札所では早く着きすぎて暗い寒い中お寺の駐車場で納経所が開くまで1時間以上も待った。止まっていることが辛かった。歩いていれば暖かいこともあるのだがそれ以外にも理由はあった。

 

山から抜け出して街中へと足を運ぶ。お母様を亡くされて区切り打ちで遍路をしている女性と宿で会話を交わしていた。泊り客はその人と私のふたりだけ。彼女はJR徳島線の駅近くにあるお寺で今回は終わる。他に何を話したかも名前も顔も覚えていない。歩く速さは私とそんなに変わらず途中まで気遣いながら歩いていたので歩き姿だけは覚えている。

 

彼女以外その日はお遍路さんを見かけることはなかった。人の行き来や車の往来という日常を目にしながら日常とは離れた自分を地図を見ながら思い出そうしているのだが。何度かJR徳島線をまたぐように西から東、東から西と踏切を渡ったその風景しか目に浮かばない。ただ時間だけが過ぎていったということなのか。それとも気づけていないのか。些細な出来事を心に印象づけるのは難しい。

 

私は「待つこと」が苦手な性分だった、というより「せっかち」と言ってもいいだろう。それでも「子を育むこと」と遍路を終えたことで「待つ身」を養えた気がする。

 

妻は「おしん」のように気長に待てる人だ。彼女は動画のようにストーリーを展開しながら途中で止めてまた動かせるように出来事を心に刻める。彼女には記憶が失せ難いからそのぶんよい気づきが隠されていると思う。

 

私は瞬間を捉えた写真のようなインパクトは持ち合わせているが、前後が繋がり難いぶん記憶が失せて気づき難いことがわかった。

 

それではどうするのか。

 

見聞きしたものを五感で心に語りかけ物語を作っていく。その都度印象深いものはしっかり心に焼き付けていく。写真のように瞬間止めたものは丁寧につなぎ合わせていく。

 

おぼろげなものは安らかに待つしかない。心動いて、心止めて、さらに心動かせるようにすれば、いずれよい気づきがあると信じている