心動いて、心止めて、さらに心動かせるように | 「ありのまま」でいいんじゃない

心動いて、心止めて、さらに心動かせるように

訪れるお寺にある納経所はすべて朝7時に開かれ夕方5時には閉まる。歩き始まりは最初に訪れるお寺までの道のりを考えてその日のスタート時間を決め、歩き終わりは宿泊の場所か次に向かうお寺の場所で決める。基本は夕方4時以降、夜は歩かない。遅くても朝6時半までには出発すると決めていた。

 

8番札所では早く着きすぎて暗い寒い中お寺の駐車場で納経所が開くまで1時間以上も待った。止まっていることが辛かった。歩いていれば暖かいこともあるのだがそれ以外にも理由はあった。

 

山から抜け出して街中へと足を運ぶ。お母様を亡くされて区切り打ちで遍路をしている女性と宿で会話を交わしていた。泊り客はその人と私のふたりだけ。彼女はJR徳島線の駅近くにあるお寺で今回は終わる。他に何を話したかも名前も顔も覚えていない。歩く速さは私とそんなに変わらず途中まで気遣いながら歩いていたので歩き姿だけは覚えている。

 

彼女以外その日はお遍路さんを見かけることはなかった。人の行き来や車の往来という日常を目にしながら日常とは離れた自分を地図を見ながら思い出そうしているのだが。何度かJR徳島線をまたぐように西から東、東から西と踏切を渡ったその風景しか目に浮かばない。ただ時間だけが過ぎていったということなのか。それとも気づけていないのか。些細な出来事を心に印象づけるのは難しい。

 

私は「待つこと」が苦手な性分だった、というより「せっかち」と言ってもいいだろう。それでも「子を育むこと」と遍路を終えたことで「待つ身」を養えた気がする。

 

妻は「おしん」のように気長に待てる人だ。彼女は動画のようにストーリーを展開しながら途中で止めてまた動かせるように出来事を心に刻める。彼女には記憶が失せ難いからそのぶんよい気づきが隠されていると思う。

 

私は瞬間を捉えた写真のようなインパクトは持ち合わせているが、前後が繋がり難いぶん記憶が失せて気づき難いことがわかった。

 

それではどうするのか。

 

見聞きしたものを五感で心に語りかけ物語を作っていく。その都度印象深いものはしっかり心に焼き付けていく。写真のように瞬間止めたものは丁寧につなぎ合わせていく。

 

おぼろげなものは安らかに待つしかない。心動いて、心止めて、さらに心動かせるようにすれば、いずれよい気づきがあると信じている