いったい自分自身とはなんだろう?
宿からの約20kmが「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と言われる難所の二つだとは知らなかった。焼山はすでに歩いてきた。標高500mにある二つのお寺は那賀川を挟み、登山道で訪れることができる。静かな支流に沿って足跡一つない新雪を踏み締めて歩く。朽ちた小学校跡もあった。匂いもなく雑音もなく透き通った空間はちょっと言い過ぎかもしれないが、まるで真空状態のようだ。「ドクっ、ドクっ、ドクっ」という心臓の鼓動が耳に残る。
人は生まれながらにして自然を欲する気持ちを抱いているんじゃないかな。心えぐられ、洗われ、ふきとられた「昨日と今日」。陽があれば暖かさを、なければ寒さを超えた痛さを感じた。自然は時として厳しい牙を剥くのが世の常。人間に何を問いかけているのだろうかと事あるごとに考えさせられる。繰り返される自然の猛威を垣間見て他人事でいられる人間はどこに向かうのだろうのか。
未来を覗く空間には自然の中での孤独がもってこいのような気がしている。
急な坂がアイスバーンで普通に歩いては上がれない。重い荷物を背負ったまま、杖を脇に挟みながら四つん這いになり、恐る恐る這いつくばって上がっていった。体の芯を緩めれば間違いなく滑り落ちる。滑り落ちれば必ず大怪我をする。結構高いところにある丸太の一本橋を渡るような緊張感があった。「どうしてもたどり着きたい」と言う強い意志が支えてくれた。
厳しい自然に身を委ねることができたのですが、今思い起こせることが「今の自分自身」。さらに時が経ち新たに思い起こせることがあったなら、それもまた「今の自分自身」。今の私は「孤独」と「意志」が少しわかるようになったところかな。