出来事の意味は変えられる | 「ありのまま」でいいんじゃない

出来事の意味は変えられる

と言うわけで迷い道から戻ってきたらお腹がグーと鳴っていた。道の駅にあるレストランで一息いれる。店員さんに道の駅の中にある遍路小屋でテント泊できるのかを尋ねると、「マナーが悪い人が多くなって今はできない」と。

 

「近くに宿はありますか?」と尋ねると親切な方で知り合いの宿にすぐ電話を入れてくれた。その宿は自宅を少し改良してお遍路さんが2人だけ泊まれる遍路宿、外見は一般宅だ。目と鼻の先には元総理菅直人さんも宿泊した宿があった。

 

黒光りしている石風呂はご主人手作りのものだった。石職人ではないご主人は趣味で洞窟に彫刻している人。奥さんは話好き。3人でテーブルを囲み話が弾んだ。奥さんからお孫さんがサッカーをしている話題が出てきた。

 

四国お遍路で唯一、私は自分の家族のことを話した。「僕には3人子供がいて皆んなプロサッカー選手になったんですよ」等々アットホームな雰囲気に口は滑らかになった。「どうしたら3人もが」と聞かれたので「彼らが自分で挑んだからですよ」と伝えた。四国から帰ると直ぐに私が執筆した本を送った。

 

道に迷わなければお会いすることのなかったご縁なのかもしれない。迷わなくてもお会いできたご縁なのかもしれない。それはわからない。もう一度お会いするための縁もあれば、二度とお会いできない縁もある。出会った意味さえもわからない縁もあれば、何も気づけないご縁もある。

 

縁の意味を深く感じとれたとき、そのご縁はその人の心の中を生き続けていくんだろうな。出来事の意味はいつでも変えられる。