「ありのまま」でいいんじゃない -3ページ目

思考から離れることで

1/9(金)28日目。6時過ぎに遍路小屋を出ると目の前には蒼社川。渇水期には川の中を歩いて対岸にいける旧遍路道があると地図にはあるが。川沿いを歩いていくと急にお腹の具合が芳しくない。人影もなくまだ暗い。リュックを下ろして小走りに小道から遠ざかり草むらにしゃがみ込んだ。

 

  

 

第57番礼所栄福寺に着いたのは朝7時。参拝者は誰もいない。ここもまた、明治新政府の神仏分離令により、神社と寺がそれぞれ独立分離した。大師堂は山頂にあった堂舎を移築され、寺院は山の中腹になる今の地に。

 

ここに寛政12年(1800)7月、九州から巡礼に来た人の古い納経帳が残っていることを知らなかった。それには約3ヵ月で四国霊場を一巡していると記されているそうです。

 

 

 

第58番礼所仙遊寺は明治4年、高僧・宥蓮上人が日本最後の即身成仏として入定している。境内には供養した五輪塔があるのだが、このことも知らなかった。

 

 

第59番礼所国分寺は4回もの悲運な災禍の歴史に見舞われ、本格的な復興は江戸時代後期から始まったことも。

 

 

知らないことだらけ、だから知ることは楽しい。

 

どうなるか分からない未来や、知識から生まれ予想される仮想的な思考に惑わされて生きていることが多いから、知っていると自覚してしまう。というより、知っていると錯覚していることが多い。「多分こうなるだろう、多分こうだろう」と。

 

思考がなければ予想も予測もできず、見たこともない未来も描けなくなるのもよくわかるのだが。

 

実際そのものを見たかのように思考だけが先走って現実に当たると、そこそこの歪みもあれば、とんでもない凹みもある。そのものを言葉だけの情報で形づけられた思考が身につき過ぎると、人は「その真髄や本質を知っている」と決めつけて本来気づくべき大切なものから遠ざかっていく。だから、思考から離れる時間は大切だと今は感じている。

 

第58番礼所国分寺での拝礼を終えてから約20km歩いた。宿までが遠く長く感じたことを思い出す。山に向かって歩いていた。その山を遠くから眺めれば少しの雪化粧で綺麗だが、近づけば近づくほど雪色は濃くなる。明日、その方向に足を運ぶ。

 

これこそ、バーチャルな思考が作り出す未知への不安。気が滅入ったのか、足取りは重かった。行って見なければわからないのに無意識に勝手な判断をしていた。純粋に今を歩いていなかったなと今頃思う。宿まで遠く長く感じたのはこの時だけだった。

 

宿では檜の湯船で温まったあと、転職したばかりのマッサージ機器の販売員と話がはずんだ。心も体もほぐれた。

 

どれ一つ欠けてもできない

1/8(木)27日目。まだ暗い6時過ぎに歩き出すと自販機の灯りが見える。コーンポタージュスープを飲み落として腹を温めた。第54番礼所へ向かう。

 

 

 

雲間に青空がちょっと、波も穏やかな日本海を見ながらのんびり歩いた。この日は56番礼所で礼拝を終え、40km近く歩いていた。

 

 

 

 

第54番礼所は明治時代になって「第五十三番札所円明寺」と同じ漢字だったため、間違いが多く「延命寺」と改められた寺院。

 

 

第55番礼所は八十八ケ所のうち「坊」がつくのはこの「南光坊」だけで、明治維新の神仏分離令により境内が神社と区切られている寺院。

 

 

 

第56番礼所は鐘楼が明治14年に今治城内にあった太鼓楼の古材で再建され、山門はなく、石垣に囲まれている寺院。

 

寺院のことは遍路を終えてから知った。

 

ここで観光バスの団体と鉢合わせ。「団体参拝者が来ると待つから先に納経帳を出して」と納経所の方に言われた。先に御朱印をいただいた。拝礼を終え、石段を降りるとツアー参拝者の方から「歩きお遍路ですか、羨ましいね」と言われた。

 

そうなんだよ、やりたくてもできない人がいるんだよ。

 

歩きお遍路の正確な統計はないようですが、「通し打ちで歩きお遍路」の方は推定で年間参拝者の数パーセントにも満たないそうです。参拝者の事情は千差万別十人十色。御朱印をスタンプラリー感覚でいただく方もいれば、ご利益を願う方もいて、慰霊を持って歩いている方を見かけたこともありました。心の趣は当たり前ですが人生いろいろ。

 

私のように節約してコンパクトに周る人もいれば、長い時間と結構なお金をかけて周る人もいるでしょう。どちらにせよ、きたくても来れない人、やりたくてもできない人がいるのは偽りのない事実。

 

歩ける健康な体があること、歩ける時間が作れること、歩ける小金を持っていること、歩く意思が湧き上がったこと、そして身近に理解してくれる人がいたこと、どれ一つ欠けても歩くことはできなかった。

 

ある意味、最高の贅沢なんだよな。世俗から少し離れて自分を見れる。まるで歩きながら瞑想しているような感覚だったような気がしている。感謝という言葉を超えたところにあるものはいまだわからない。

 

 

歩き出して11時間を超えていた。特別養護老人ホームの敷地内にある寄贈された遍路小屋に着く。地図では遍路小屋の記しはあるが「まさか、こんなところに」樹木の香りがするほど真新しかった。

怠ればもとにもどる

1/7(水)26日目。昨日泊まった宿は江戸時代から続いている博物館のような旅館で重厚さがあった。宿から第46番礼所までは5分足らずの目の前。御朱印をいただく衲経所が開くのが7時なので、6時50分に宿を出た。

 

 

 

身支度中の朝のワンショット。削ぎ落とされた右足の土踏まずの曲線は今とは全然違う。鍛えているものは美しいと我ながら思う。選りすぐって持ってきた自分の足にフィットした靴下、2種類を二枚重ねして履いていた。踵ちょい上のテーピングは欠かさなかった。ここまでは靴紐の締め具合が悪くて小さな水疱ができた程度。テーピングの下には穴が空き始めていた。なんせ、6ヶ月以上歩くときは履いていたものなので。

 

 

ここに来る前から左足には不安があった。25年前に医者から壊死するかもしれないと言われるほどの怪我をした左足の親指、35年前にバスケットでリバウンドを取って着地したとき外側部に全体重がかかった左足首。今まで古傷の痛みからくる苦痛を味わうことは一切なかった。

 

 

ついでに言うとこのとき、五十肩で右手が思うように上がらなかった。可動域も狭く、リュックを背負うとき、下ろすとき、少し苦労していた。右手の動かし方に気を配らないと脳天突き刺すような激痛が走ったことはあった。

 

ところどころに不完全さを抱えながら、「どうしたらたどり着けるか」を一心に毎日が次の日のための準備の繰り返し。足と肩には毎日欠かさずをバンデリンを塗っていた。特にテント泊では腰と背中を断熱材で温めることも怠らなかった。

 

その日をやりきって次の日を迎えるのですが、その日をやりきることに次の日の準備をすることも完全に含まれていた。

 

 

 

この日は第53番礼所までのコンクリートの道を約30km歩いた。若い頃に結構、いや随分鍛えていただいた下半身と遍路のための歩く準備が今を支えていた。

 

 

 

堀江港から海が見えた。ここまで約200km、随分離れていた潮の香り。ここから35km近くを海を見ながら歩くことになる。16時過ぎてもテント泊する場所の目星がついていない。県道に隠れるように公園があった。中に入ると遊具とトイレが一体化した施設がある。うまくテントが隙間を埋めた。臭くはなかった。

 

 

心も体も完全にはなれない。常にどちらかの助けを借りて補い合っている。そのことに気づけることってそうはない。削ぎ落とした絶妙な心体のバランスが不完全を完全に近づけてくれる。

 

怠ればもとにもどる。

 

 

それは小さな怒りから

1/6(火)25日目。5時過ぎに起きて7時前には宿を出る。標高700mに聳える山岳霊場第45番礼所岩屋寺へ。遍路道は励起を浴びているような霧と小雨で音もなく神秘的な空間だった。

 

  

 

一本橋のような小道は木の根が道を絞り込んで、まるで蛇が絡まっているような印象が残る。道の両サイドは木が生い茂る谷だった。

 

 

お堂は違和感もなく岩に溶け込んでいた。この靄で一層自然と調和しているように感じられた。参拝に訪れている人はいなかった。納経帳を差し出し、納経所にあるストーブで悴んだ手を温めたことを思い出す。

 

 

  

 

拝礼を終えるとすぐに山を下った。宿に着くと預かりロッカーからリュックを取り出し、背負って再出発。強い雨に打たれながらきた道を戻り、国道33号線に出る。

 

不要なものを送るために郵便局に入った。接客する局員さんはひとりだけ。お客さんとのやり取りが終わるのを待った。最初に小さなテイッシュを差し出され、お決まり通りの応対に心がイラッと反応し、心の中に「それより先に、荷物を」という思いが先走る。 それは小さな怒りだった。

 

「360円のレターパックで大丈夫ですか」と言われたが、「大丈夫です」と答えた。たぶん入るだろうという強い思いがあった。

 

膨らんだがレターパックを無理やり閉じた。手渡すと素っ気なく「これでは無理です」と、大きさを計測する四角い枠の中を通らないことを見せつけられた。

 

そこでつい「向こうなら閉じられていればOKだよ」と反応してしまった。

 

いつのまにか話の収集がつかなくなり、「500円のレターパックに買い直しますから」と、さらに油を注いでしまった。平行線のまま「いいです、これで送りますから」と受け入れてはくれなかった。

 

私が最初にイラッとした怒りが伝わっていたんだなと。怒りは伝染するといいますから。

 

一つの反応がことを台無しにしてしまうことはよくある。国道33号線沿いを歩き出すと私の横を大きなトラックが通り過ぎる。トラックから舞い上がった水しぶきを全身に浴びた。さらに遍路道を歩くと下り坂でバランスを崩し、転けて泥まみれになった。

 

心身にしみたありがたき戒め、着替えることなく黙々と5時間近く歩き続ける。寒くはなく、身体から湯気が出ていた。

 

先入観を捨て、決めつけず、そのとき自分がどう感じているかだけに最初に心が向けられれば。自分の心を通り越し、相手の心に無理やり入り込まなければ。悔いる。

 

何でも、まず自分の心が今どう動いたか、どう動いているかを知ろうとすことからなんだよな。2年も経ってからようやくに。

 

宿に着く頃には雨はあがって晴れ間が覗く。そのときの心はlこんな感じだったのかなって絵が物語っている。宿に着くと直ぐに泥だらけの靴を水洗いしていた。

 


 

百聞は一見に如かずから

1/5(月)24日目。5時前に起きだす。荷造りしたリュックを駐車場に残して、歩いてきた道を戻るとコンビニがある。昨日から「ここで朝食を」と考えていた。店の前でがっつり朝からトンカツ弁当をいただいた。用を足し駐車場に戻り、リュックを背負う。まだ6時前だった。

 

 

 

幾重にも飛行機雲が快晴の空に乱舞する。高原ならではの爽快さが漂っていた。久万高原町は、平均標高が800m、標高1000mを超える四国山地に囲まれた町。四国では比較的冷涼な気候「四国の軽井沢」と呼ばれることもあるそうだ。一月の平均気温は6℃前後、平均最低気温はマイナス3℃。

 

 

絵はありませんが、紫色した蛇のような生き物が数え切れないほどあちらこちらの岩の隙間から顔というか、身を出していて異様な光景だった。帰ってきて調べてみると「シーボルトミミズ」日本一の巨大ミミズで、体長が40cmを超えるものもあるそうだ。

 

 

両サイドに大きな草鞋が飾られている第44番礼所の拝礼を終える。今日は35km程度歩いたが何度も峠越えがあり、朝早くから16時過ぎまで歩ききった。宿では部屋はまさかの、なでしこの間。宿にはバレーボールの益子直美さんのサイン色紙が飾られていた。この宿は泊まって朝一で重い荷物を置いて第45番礼所に向かい、宿に戻ってきて次に向かえる打ってつけの位置にあった。宿には荷物預かり用のロッカーもあった。

 

 

絵に収まるとうまく伝わらない。絵がないとうまく表せない。言葉とは難しい道具だから心の中を「はい、こんな感じ」と見せられればとも思う。

 

見たものをどこで感じてどう思うのか。思ったことをどう噛み砕いてどう表すのか。普段はあまり深くは考えてはいない。だからこそ、ゆっくり考える時間を短くてもいいから作るべきだ。聞いて見たことはやがて自分の言葉へと生まれかわる。

 

百聞は一見に如かず

百見は一考に如かず

百考は一行に如かず

百行は一果に如かず

 

 

 

厳しいがゆえに有り難さを知る

1/4(日)23日目。前日は駅前の駐輪場にテントを張った。その日最後に立ち寄ったコンビニで「この辺でテント張れるところはありますか」と店員さんに尋ねると、首を斜めにしながら「上宇和駅の近くだったら、もしかしたら」とかえってきた。

 

16時過ぎ夕日を見ながら無人駅の構内にテントを張った。「気分は最高」と思いけや通過列車の爆風にテントが飛ばされそうになる。身の危険を感じて即刻駐輪場へ退散した。ディーゼル車が1時間に上下線1本づつ通り過ぎる。終電は23時前、始電は6過ぎ。短い静寂なひとときは覚えていない。始電が来る前には歩き始めていた。

 

 

 

標高が400mを超えると歩道には雪が残り凍りついていた。転ばぬように歩きやすい柔らかいところを探してザクザクと音を楽しみながら歩いていた。第46番札所までの約100kmの道のりはアップダウンを繰り返しながらいくつか峠超えがある。まるで冷蔵庫の中を歩いているようだった。鳥坂峠は遍路道は通らず、鳥坂隧道1.2kmのトンネルを歩いた。歩道の幅は狭く人一人通れる程度だった。

 

 

 

歩き始めから15kmほどに臥龍の湯があった。足湯につかりながらしばし心身緩めて息を抜く。少しづつ休む余裕が心に生まれ始めている。がむしゃらに歩き、前に先へと進もうとしていた心が洗いながされていく。再び靴の紐を締め直し歩き始める。

 

14時過ぎにはテント泊を予定していた道の駅「内子フレッシュパークからり」に着いた。散策してテントを張れる場所を探す。いいところが見つからず、道の駅が閉まる17時まで待つことにした。お遍路姿は他には見当たらない。雪が残り解けないぶん、ここもそれなりに凍れる。

 

道の駅と隣り合わせ小高いところにある「うどんあぐり亭」で夕食をとる。と言ってもまだ4時前。「ここしかないな」と直感した。早くテントを張り、中に入りたかったが店が閉まるまで待った。駐車場脇のウッドデッキの上にテントが張れた。駐車場には雪が残る。木々の匂い、川と風の音いろ、木のぬくもりも直にゆったり感じた寒い夜だった。 

 

凍りつくような空間に身を置くと耐える力もつくが、ささやかな温まりにも鋭敏にもなる。こんなとき、環境の二面性に気づかされるもの。今まで身を置いた環境の二面性は何だったのか、振り返って考えてみる。

 

厳しいがゆえに有り難さを知る。

 

有り難いことに厳しさがあった。

 

 

 

 

自分と向き合い始めた証

2015/1/3(土)22日目。久しぶりに札所間が短い。松山自動車道とほぼ平行して第41番、42番、43番札所と並ぶ。前日休息した天赦公園はちょっと遍路道からは外れていた。できるだけ遍路道を歩きたかったから分かりやすい道は選ばなかった。

 

確かめたくて、戻りたくてもまだ薄暗い街中は誰も歩いていない。聞くに聞けず迷いながら、遍路道があるだろう方向を歩いていると、タクシー会社の看板の灯りが見えた。事務所の人に声をかけてこと無きを得る。

 

 

JR予讃線宇和島駅近くを通りながら、何度か踏切を東へ西へと渡る。JR宇和島駅は末端駅。絵はないがゆったりしている街並みの感覚だけが残っている。次の北宇和島駅でJR予土線と分岐すると風景は一変する。畑に雪が残り、山は冬化粧だった。

 

 

 

第41番札所と第42番札所。この近辺で22日目の宿泊予定を地図に書き込んでいたが、予定より少し早いペースでここまで来ていた。

 

 

 

標高470m歯長峠を超えた。まさかの、まさか。少しづつ登っていくと人一人が歩ける幅程度しかない。下を覗くと瓦礫がいっぱい。自然を歩く醍醐味を感じながらアドベンチャー感覚ですり抜ける。

 

 

 

峠を越え、反対側の登り口を見てびっくり。「この先土砂崩れのため通行止め」の看板。もし、これがかかっていたら、峠を越えず迂回していただろう。

 

 

 

知っていれば、知っていなければ、することしないこと、それぞれ。決めているのは誰、いつも問いかけられている。

 

最後に決めているのは自分のはず、目的地へ行き着くまでは思い悩むんだよ。あてずっぽで何も考えずにやってしまうこともあるだろう。どちらに、どう転ぶか、もわからないときもあるだろう。わからないけど生きるってそういうことなんだな。分からない道だけど、どう歩いていくか考え続けるのが楽しい。

 

その人の今にあった導かれ方があるような気がする。思い悩み、苦しみ、問い続けて来た成果みたいなものが、生きているって実感したとき次へのエネルギーに変わる。

 

偶然でもことを決めているのは自分なんだよなぁと思えてきたら、自分と向き合い始めた証かな。

 

覚悟と時間が整ったなら

1/2(金)21日目。前日はビジネスホテルに素泊まり。ホテルに着いたのは14時半頃だが、このところ、この時刻が歩き終わる定時だった。ホテルの前にはコンビニがあった。必要なものを最小限買いだめる。コンビニがなかった時代のお遍路だったらおそらくこのペースでは歩ききれていないと思う。

 

早く着いたぶん、出る時間は早い。6時過ぎにはチェックアウト。暗いなか国道を歩き始める。夜が明けると、とうぶん見ることのできない海が現れる。

 

 

この日は40km近く歩いた。程よい距離でテントを張れるところは見当たらなかった。暗くなるまでにはと思いながら地図を見るとトイレマークがあるのに気づいた。「どうにかなるだろう」という思いで天赦公園を目指した。

 

 

 

綺麗なトイレがあった。ここでのテント泊で2つの出会いがあった。

 

一つはソフトボールのピッチング練習をしていた親子。二人の娘さんは高校生と中学生。ピッチャーとキャッチャーを姉妹で交互に変わりながら投げ合っていた。後ろで見守るお父さんは彼女らが中学生まで専属のピッチングコーチを続けてきたそうだ。彼はソフトボール経験者ではない。彼の足元にはスピードガンがあった。

 

私から近づいていって姉の投げたボールの速さを体感させてもらった。お父さんは中学生の娘さんとあと数ヶ月でコーチという立場から離れるみたいだ。帰省しても練習は休まない親子がなんとなく昔を思い起こさせてくれた。

 

 

もう一つの出会いはトイレの床でいびきを響かせてそのまま寝入っていた若者。トイレを使うために入ってびっくり。まさか、まだいるとは思わなかった。通路に張ったテントを静かに畳んで暗いなか歩き始める。

 

飲んでついついうとうと、乗り過ごして起きたら終着駅。タクシーで帰るには高すぎる距離。たいしたお金もなく、始発を待ちながら駅近くの公園のベンチで横になったことを思い出す。初めての野宿、携帯電話のない時代の出来事だった。

 

昔を思い起こさせてくれることで、「人がやることってなんて、昔も今もそんな変わらない」ってことを時々感じさせてくれる。「無駄かなぁ」と思えたことも実は身になっていることは多い。便利さにかまけていると効率ばかりを考えるようになる。

 

生半可ではなく、時間をかけたいものにはしっかり時間を費やす覚悟があるかどうか。そして、その時間をつくるかどうか。覚悟と時間が整ったならやり始めることで何かが変わり始める。

心身が安らぐために

2015/1/1(木)20日目。高知県から標高300mの松尾峠を越えへて愛媛県に入る。伊予ノ国には26の札所があり約360kmを歩く。ここまで歩いた距離は総距離の半分は超えていたが、あんまり気にかけてはいなかった。

 

目の前にある道を歩いて、拝礼、そして心身を休める、呼吸と同じようにその単純な繰り返しを続けてきてた。おかげでその時の時刻と感覚で自分のペースに合わせて地図を読み取れるようになっている。テントを持参しているぶん、天気や場所に応じてその日の終わりを描いて歩けるようになっていた。

 

  

 

緑豊かな山は貸切だった。気持ちよく大きな声で歌を歌ってみても、大声で叫んでみても、誰にも何も言われることはない。自然の豊かさを全身で浴びながら歩いた。言葉や絵では伝わらないがほんとに心身が洗われた。「なんでもやってみないとわからなし、味わえないよな」っていうことを知らしめられる。

 

 

 

般若心経の一節に「観自在・・・」とある。唯一、88の札所で般若心経の文字がつき、愛媛県の最初の札所がこの第40番札所観自在寺。第1番札所からもっとも遠くにあり、お寺が位置する愛南町は、美しいリアス式海岸の宇和海に面した最南端にある。

 

些細なことに少しずつでも気づけるようになれば感覚は磨かれている。感覚が磨かれていけば心身は自然に洗われていくような気がする。

 

何かをはっと気づくことで、必ずと言っていいほど苦しみが現れた。「そうだよなぁ」と見つめ直すと積み重ねてきた心身に媚ついた垢が落ち始める。時間はかかるが、乗り越えられる心の痛みであることは間違いない。

 

気づいたら心身が安らぐためにすべてを受け入れてみる。

 

 

 

 

ながら歩き

12/31(水)19日目。暖房がない部屋だったので持参の寝袋に入り布団をかけて寝た。まだ暗いなか目を覚ます。すぐさま寝袋から出ると身支度を整え、部屋で食事をとり、早々に1階に降りる。廊下を通ると女将さんの部屋の灯りはついていた。玄関で靴の紐を結び直して、何度か「ありがとうございました」と声をかけても返答はなかった。

 

宿の前にある自販機で温かい飲み物を買い飲みほして歩き始める。時計を見ると6時。しばらく歩くと海と朝焼けが心を癒してくれた。

 

 

2日前にくぐった新伊豆田トンネルの少し手前まで戻り、土佐清水市から三原村に向かう県道に入る。そこに一般住宅を改装した遍路宿があった。手持ちの地図には載っていない宿。宿泊していたお遍路さんが宿の方と玄関から笑顔で出てきた。彼は登山仕様で身をかためていた。軽く挨拶を交わし、その流れで宿の人に声をかけて気持ちよくトイレを使わせていただいた。

 

 

 

県道は川伝いで手つかずの自然が沢山あった。歩くスピードも勢いを増していく。気がつけば宿であった彼に追いついていた。「お先に」と声をかけると「どうぞ」と返ってきた。自分のペースであることをお互いが崩さなかった。さもすると、話をしながらとか、相手に合わせてとか、なりがちだが。遍路は「ひとり歩き」が基本。

 

 

約20km澄んだ空気と木々の匂いを浴びながら歩いた。2014年も大晦日。人影もない第39番札所で拝礼をすませる。時刻は14時半、どこにテントが張れるか、歩きながら探していた。国道に出る。地図を見るとこのまま歩いてもテントを張れるところは多分ないなぁと直感した。目の前を見るとバス停があった。自販機も近くにある。ここで年越しをっと決めた。

 

バス停から見える駐車場で高校生らしき青年がドリブルの練習をしている。少しすると足を手に変え、リングに向かってシュートを打ち始めた。彼は足も手も板についていた。

 

 

次の日歩くと直感は当たっていた。テントを張れる場所は20km近く歩いても見当たらなかった。もし歩いていたらと考えたらゾッとした。

 

考えてから感じて、感じてから考えにもどる。何度も何度も繰り返しながら歩き続ける。いつの間にか、何かに気づくもの。