「ありのまま」でいいんじゃない -2ページ目

丁寧に生きることから

3年前のちょうど今頃から準備を始めたことを締めくくれた。中途半端で何かしっくりこなかった。2年も経って言葉にしてみると経験したことだけでは言葉にできなかったんだなと痛感した。

 

経験したことが日常にどう結びついているのか、どう結びつけるのか。時間と心のおきどころがないとしっくりこないこともわかった。

 

時が経って心に残存しているというより、「あるものがある」って感じかな。それを一つ一つ拾い集めながら今と結びつけて考え直してみると結構腑に落ちていく。

 

経験が何を意図として起きたことなのか、どんな意味があったのか。どうして導かれたのか。その時には気づけなかったこともシンプルにすると見えてくる。

 

シンプルなことを丁寧にこなすことって大切なことだと思う。がさつものが毎度箸を丁寧に扱い、背筋を伸ばして食事をいただくことを意識するようになった。日々ゆっくり丁寧に実践することも忙しい日常で容易くないのもよくわかる。日々の当たりをいかに丁寧に行えるか。目先の今そのことを大切にする心を持ち続けられるか。

 

それは自分でも驚くほど時間をかけて冷たく硬いものが少しづつ解凍されて、柔らかく温かいものに変わっていったような感覚がある。

 

安直な思いや場しのぎから生まれた言動には丁寧さはない。丁寧に今を生きることに果てしない未来へとつながる未知がある。荒らしさや厳しさの中にも丁寧さがあると感じるのは自然と対峙したからだと思う。大自然は人と丁寧に接してくれている。気づけるか、気づけないか。人に生きるための大切な気づきを与えてくる。

 

丁寧に生きることから。

 

箱根あじさい寺・阿弥陀寺

 

 

 

 

幾つになっても

女体山山頂で気を入れ直す。女体山から第88番礼所までの下り3kmは今までで最も注意しながら丁寧に降りた。一切気を抜かなかったことを覚えている。着けば、7ヶ月かけたことが終わったなと一気に息をぬいた。

 

山門近くのお土産屋さんで生姜湯のお接待をいただく。ピリ甘で美味しかったことは忘れないだろう。88番目の御朱印で結願となる。頬に当たる風は冷たいが清々しかった。

 

 

第88番礼所から約20km歩いて、宿で一泊する。

 

2017/1/18(日)37日目。宿から4kmほど歩いて第一番礼所に戻り着いた。「来たときの気持ち」と「帰るときの気持ち」を確かめようとしたがわからなかった。

 

終えてみれば、起きて歩いて寝て起きて、毎日をシンプルに過ごしただけだった。

 

今の気持ち、今感じていることを大切に毎日を過ごそうとした。人との関わりから唯一一回だけ鏨が緩んだ。後悔しても元には戻らない。戒めとして心に刻んでいる。

 

成し遂げても悔いが残るからいいのかもしれない。何かが足りない。足りないから。何かを続けようとする。

 

どれだけ素直な気持ちで自分の思いを大切にできるのか。

 

それは自分自身を過保護に扱って、我儘を許すことではない。

 

心身をどれだけ俯瞰できるか。そのままの自分を好きになれるか。

 

自分の愚かさや弱さ、未熟さや甘えが痛いほど見えてくる。目を背けたくなるような自分を知る。辛く悲しくもなる。あらためて人は弱い生き物であることも知る。

 

だからこそ。

 

自分を受け入れれば、他人を受け入れられることも知る。自分が好きでないのに他人を好きにはなれるはずがないことも知る。

 

私は以前より自分が好きになった。自分をさらけ出せるように、今の自分を受け止められるようになってきた。できない自分がいることが好きになった。まだ、まだ、できないことや知らないことがあることが嬉しいと思えるようになってきた。

 

未完成だから。

 

できないことが、できそうもないことが、できる。できる喜びに気づけることこそ、生きる源になることも知った。

 

幾つになっても。

 

 

期間 2014/12/12〜2015/1/19 (バス車中泊2日:宿泊19日:テント泊17日)

費用全額 ¥282,291 

内訳 リュック・寝袋等装備必需品 64,906 

                                     宿泊費 105,868

                                        食費   49,813

                                     交通費   20,130

                   医薬品    5,414

                  通信費    2,960

             自販機飲料代   5,920

                  納経料   26,400

                                      お賽銭       880

 

 

 

 

2015/3/8 高野山奥之院にて御朱印をいただく。

 

満願。

 

支えてくれたのは妻であることは言うまでもない。

覚悟を決めてますか

2015/1/17(土)36日目。八十八ヶ所結願、第88番礼所大窪寺までは約12kmと距離はさほどあるわけではないのですが、約8kmは遍路道、標高は770mを超えるところもある。お寺は徳島県の県境に近い矢筈山(標高782m)の東側中腹にある。

 

 

手持ちの地図を見ても道はなく、お遍路さんの道しるべも見つけられず、迷いに迷う。人もいない、藪のような歩けるかどうかもわからない道を方位磁石だけが頼りで歩く。生い茂る草木をかき分けて山を這い上がり、やっと道に出れば来た道に戻っていた。一回りしてようやく頂への道がわかって歩き始める。

 

最後の難所標高774mの女体山へと向かう。雪も残り、人の足跡もなく、少し凍った地面を踏みしめ山頂を目指す。青空が曇り始め、粉雪が舞い、風も強くなる。吹雪いてきた。歩く地面が土から岩盤に変わる。這い上がらずには登り切ることができなくなっていく。金剛杖を持ちながら、必死で四つん這いになって足場を固めながら手の置く位置を確認しながら登った。

 

迷った。

 

頂が見えない。「こんなところ、本当に登るのかよ」「登りきったら本当にその先に道はあるのかよ」と心の中でつぶやいた。それでももう今いるとことらから戻ることもだきなかった。振り返ると、引き返せば必ず落ちるなと感じたから。その瞬間、「滑り落ちればただではすまないな」と身が震えた。

 

信じてもらえないかもしれないが、一瞬吹雪がおさまり、雲間から閃光のように陽がさした。写真など撮る余裕はなかった。「生きなさい」と言われているように思えた。意を決して這い上がった。登りきれば人一人通れる細い道が続いていた。

 

女体山と名がつけられるだけの山だった。産道を通り抜け、生まれるときってきっとこんな感じなのだろうな。何かに導かれて、人は意を決して生まれてくるのかな。戻るに戻れない道を。そうであれば人は誰もが一度は意を決していることになる。

 

迷いに迷い、悩みに悩んでも、結局のところ、どこかで意を決しなければ何も生まれない。「意を決す」という覚悟は必ず誰もが持っているものなのだろう。

 

「覚悟を決めてますか」と問いかける。

 

小さな喜びに心を大きく動かす

2015/1/16(金)35日目。6時過ぎに宿を出る。15km先にある第84番礼所屋島寺に向かう途中で年配の女性に声をかけられた。「旦那さんはお遍路に行きたいけど奥さんがゆるしてくれない、そんな夫婦にいいアドバイスはありませんかね」と尋ねられた。 「毎日、電話を入れる約束をすることではどうですか、僕、毎日電話してるんですよ」と応えると、和かに「それいいね、その夫婦に伝えてみるわ」と返ってきた。

 

 

 

第84番礼所は高松市の東にあり、標高290m火山台地の半島で南嶺にある。第85番礼所へ向かう遍路道は屋島ドライブウェイをショートカットして下っている。ドライブウェイは歩行禁止のため歩いていくには遍路道しかない。イノシシには出くわすことはなかった。

 

 

 

第85番礼所八栗寺は標高375mの五剣山の8合目にあり神秘的な山。ケーブルカーはあるが歩いて登る。お寺に着き、香炉に献香をしていると参拝者の方に「ご利益あるからと」手を握られたことを思い出す。

 

 

第86番礼所志度寺の開創は625年、四国霊場屈指の古い由緒あるお寺。

 

 

第87番礼所長尾寺は明治維新以後、本坊は学校や警察、郡役所などの公共施設に提供されたお寺だそうです。

 

 

いよいよ、第88番礼所へ向かう前の最後の宿泊。1件目の宿に電話をすると「冬の時期は休業中なので」と断られる。もしかしたら、この辺り全部休業中かもしれないなとそんな思いが頭をよぎる。次の宿に電話を入れるとあっさり「素泊まりなら平気だよ」と快く受け入れてもらった。その宿は親子で宿を営んでいて小さな子供もいた。おかみさんからの温かいお接待があって宿代まで引いてくれた。

 

靴を履き終え、小さな声で「ありがとうございました」に「気をつけてね」と言葉が返ってくる。まだ暗い中、玄関の戸をそっと開けた。

 

ここに来るまでには何人も人のありがたさを感じた。灯のないトンネルを船頭さんのように前を歩いてくれてた方、そしてその方が来た道を戻る後ろ姿に頭を下げずにはいられなかったこともあった。一人がやっと通れる工事中の歩道の先で手を合わせて、私が通り過ぎるのを待っている方もいらっしゃった。雪の残る寒い朝一番、拝礼してご朱印をいただき納経料を収めようとすると「お接待です」と差し戻されたこともあった。

 

辛く嫌になるときもあるだろう。それでも、小さくても人のありがたさに気づける人でありたいと、常に思える人であり続けたい。小さな喜びに心を大きく動かせる人でありたい。

 

日常に潜む些細なことに如何に気づけるか。

 

 

 

お互いが支え合ってこそ

2015/1/15(木)34日目。昨日泊まった民宿はアパートを改造したような感じだった。軒先の脇にある、細い路地の奥の玄関から表通りに出るのですが、トタンを流れる雨の雫が雨粒より大きくなって身に当たる。7時だというのにどんより暗かった。歩きたくなくなるような雨の中、自衛隊演習場の脇を通り、3時間かけて6.5km先にある、標高400mの第81番礼所白峯寺にやっと着いた。

 

 

第82番礼所根香寺は山の中5km先にあるのだが2時間もかかった。

 

 

第83番礼所一宮寺は山下りから市街地を抜けて街中にある。約12kmを3時間半かけて雨も上がり気持ちよく歩るけた。

 

 

第83番礼所の近くにある「天延温泉きらら」に16時チェックイン。温泉に浸かる。敷地外の別棟に宿泊部屋があり、マンションのような佇まいだった。部屋には収納ベッドがあり、フローリング12畳でだだっ広い。ずぶ濡れの荷物をエアコンで乾かすためにロープを張ったが、ロープが短くて部屋が広すぎて苦労した。

 

 

ご覧とおり靴はボロボロになっていた。歩きお遍路は全行程の8割がコンクリートを歩き、残りの2割が土の上、山を歩く。2種類の靴を持っていくことも考えたが、防水加工されたミズノ製のローカットトッレキングシューズだけでここまできた。この靴はお遍路を終えたとき、準備段階で歩いた分を含めて約2400kmの道のりに耐え、私を支えてくれた。靴の重さは片方約470g。

 

どれだけの負荷がかかり、すり減ったのか。靴の底も相当すり減っている。アキレス腱付近には靴下の上から常にテーピングを施していたから、靴擦れは避けられた。靴紐の締めすぎで歩き出しは苦労した。ちょうど良い結び加減が見つかると足と一体化した。足をひきづることもなく、靴の片減りもなく、足の大きな痛みも一切なかった。

 

支える方もすり減るが、支えられる方もすり減る。だから、ただ支えられているだけではなく、支えられ易いように支える方を支えることでその効果も跳ね上がる。

 

支えられて、支えて。

 

支えて、支えられて。

 

お互いが支え合ってこそ、ことは成り立っていくのではないでしょうか。

 

 

「いただく」ということそのものが生きていることそのもの

2015/1/14(水)33日目。いよいよ終盤にさしかかる。この日もゆったり25kmを越えるほどで歩き終える。

 

前日泊まったホテルは22時以降になると玄関がオートロックとなり、フロントが無人になる。一度玄関を出たら入ることはできなくなる。何度か忘れ物がないかを確かめて、誰もいないフロントを通り、6時過ぎに3km先にある第76番礼所金倉寺に向かった。

 

 

丸亀城を右に見ながら歩いていた。通勤途中のサラリーマンと話が弾む。地元の方でもお遍路のことをあまり知らない人がいることがわかった。

 

 

第77番礼所道隆寺に向かい住宅街を歩いていると、後ろから追っかけられるように「ちょっと、待ってください」大きな声。振り返ると白髪混ざりの男性が一生懸命に走ってくる。息子さんも遅れて後から来た。知的障害がある息子さんが作ったこの絵のお地蔵さんを受け取ってほしいと言われ、ありがたくエネルギーを頂いた。今も我が家で温かさを感じてさせてくれる大切な私のお宝になっている。

 

 

 

商店街を歩くとシャッターが閉ざされた店が並ぶなか、私自身の幼少期を思い起こさせる品々が店頭や店内から目に飛び込んで来た。心が昭和にタイムスリップしながら歩いたのを思い出す。

 

第78番礼所郷照寺は境内からは瀬戸内海にかかる瀬戸大橋が見える。港町としての「四国の正面玄関」といえる場所だそうです。

 

 

地元の讃岐うどん、「食べたいな」と思って歩いていたらこの看板。迷わず暖簾をくぐる。「肉うどん」をいただく、450円。本当に旨かった。このうどん屋さんには遍路を終えて妻と一緒に再び訪れたのですが、残念ながらお休みでした。

 

 

 

第79番礼所高照院もまた明治新政府の神仏分離令により、一度は廃寺とされ、明治20年に地が移り復活している。

 

 

第80番礼所国分寺には四国最古の梵鐘がある。鐘にはこんな伝説が。高松城の鐘にしようとするも、思ったより重く苦労する。城につくも音がならず、結局、鐘は国分寺へ返すことになる。今度は軽々と運べて、鐘が国分寺では美しい音を響かせたそうです。

 

 

ここまで来ると「終わりは近いな」と。あと約70kmを歩けば第88番礼所にたどり着く。人との関わりから色々なものを頂いてきた。頂くという言葉には「頭の上にのせてもつ」という意味があるそうだが、普段は謙譲語で使われる。

 

「いただく」ということそのもが生きていることそのもの。命も頂いているわけで今でも生きていられ、何から何まで頂いていると思えば。

 

今というそのときを「頂いた」と感じ取れたとき、「頭の上にのせてもつ」という意味がはっきりするような気がする。奥は深い。人それぞれにいく通りもの解釈が生まれるから、苦も楽になったり、楽も苦になったりするのではないでしょうか。

身のこなし方一つが、やがて

1/13(火)32日目。この日はゆったりと25kmほどで歩き終わる。

 

朝7時に旅館を出て第68番礼所と第69番礼所が隣り合わせの寺院からのスタート。二つの寺院は琴弾公園内の琴弾山の中腹にあり、珍しく同じ境内にある。ここもまた、明治の始めに神仏分離令で琴弾神社と神恵院が分離され、神恵院は麓の観音寺境内に移転したことから絵のようになった。

 

 

第70番礼所本山寺には五重塔があった。四国八十八ヶ所で五重塔があるのはここと第31番礼所竹林寺・第75番礼所善通寺・第86番礼所志度寺と4ヶ所だけ。

 

 

第71番礼所弥谷寺には540段の石段がある。さすがに10kgを超える荷物を背負って上がることは避けた。この絵の山門の裏に荷物を置くことにした。

 

 

 

第72番礼所〜第75番礼所は5km以内にある。

 

  

   第72番礼所曼陀羅寺      第73番礼所出釈迦寺               第74番礼所甲山寺

 

第75番礼所善通寺は弘法大師生誕の地で真言宗発祥の場。鎌倉時代に「誕生院」が建てられ、江戸時代までは善通寺と誕生院は別々の寺院だったが、明治時代に善通寺として一つに。総面積約45,000㎡の境内には、金堂(本堂)がある東院、御影堂(大師堂)がある西院に分かれている。

 

 

 

寺院での一連の所作ですが。山門で合掌一礼して門内に入り、まずは身を清める。そして本堂へ。納め札を納め、蝋燭(1本)を灯し、線香(3本)を供える。お賽銭をあげ、合掌して読経する。終えて大師堂へ。本堂と同じことを繰り返す。終わってから、納経所で御朱印をいただく。山門をくぐって合掌礼で次へ向かう。

 

この所作を怠ることはしなかった。

 

 

風が強くてライターでうまく蝋燭に火が灯らないこともあった。何度も蝋燭の火が消えることもあった。お賽銭や経典を出すのにも手が悴んで苦労したこともあった。金剛杖を境内に忘れて戻ったこもあった。

 

お賽銭は五円玉を88枚×2堂で176枚、蝋燭やお線香も用意しておいた。納め札も前もって住所と氏名は書いておいた。あらかじめ準備していったことで「めんどくさいな」とは思わなかった。

 

当たり前だが、日々の所作を改めることで心身も改められていく。準備を怠らず、丁寧なものの取り扱い方や身のこなし方一つが、やがて日々の快心へとつながっていく。

 

毎朝の父親の所作を見て真似していることが25年も続いているが、おかげで今があるようにさえ思える。

 

 

 

営むとはなんだろう

1/12(月)31日目。暗闇の中、リュックに取り付けたLEDライトを頼りに標高500mにある第65番礼所三角寺に向かう。着く頃には夜は開け、空は薄曇り。急な階段を上がると鐘楼を兼ねた山門がある。

 

  

 

拝礼を終えて標高900mの第66番礼所雲辺寺へとさらに山深く足を運ぶ。愛媛県から徳島県三好市(旧池田町)に入り、香川県讃岐ノ国へ。ちょうど3県が接しているほぼ中央に寺院がある。

 

  

 

山深い自然の中に入れば、地図はもうほとんど見ていない。頼りになるのはこの絵の「へんろ道」という案内板、先への道しるべに身を委ねる。

 

  

 

第66番礼所は四国霊場のうち最も高い標高911メートル、四国山脈の山頂近くにあり、麓からロープウエーで山頂駅までいくことができる。私は歩いて山を登り、山を下った。第66番礼所には雪が残っていた。

 

 

 

雪も多く、「山越えするには苦労して、時間もかかるだろうな」と思っていた。宿は第67番礼所大興寺近くの民宿を考えていたのですが。にもかかわらず、スムーズに通り抜けることができた。それでも木々が雪の重みで何本も折れて積み重なり、道を塞いでいて難儀したところもあった。

 

 

直ぐ目に止まった。夫婦杉があるくらいなのでご夫婦で参拝する方々が多いことだろう。さすがに誰もいなかった。寒さに凛と立つ木姿に妻を想った

 

 

第67番礼所大興寺は田園地帯にあり、真言宗と天台宗の修行場として栄えた寺院。本堂の左右にそれぞれの宗の大師堂があり、とてもめずらしいお寺だそうだ。ちなみに弘法大師は真言宗。

 

予定より2日早くここまで辿り着いている。

 

第67番礼所を過ぎると道中に宿がなく、結局約11時間、18時近くまで40kmほど歩いた。遅めの電話予約にもかかわらず、第68番礼所と第69番礼所の目と鼻の先にある宿をとることができた。

 

その宿は割烹料亭が先、宿は後から営み初めたので、料理がほんとうに美味しかった。夕食は一般客の人も数人いた。部屋と料理からすると安過ぎる料金だった。海に近いこともあり、刺身が旨かった。泊まった旅館の中ではピカイチ。

 

営むとはなんだろう。決してひとりでは営むことはできない。夫婦杉もこの宿も「営む」ことの深さを問いかけてくれる。

 

営むには「怠らず行う」「造る」という意味があるみたいだ。異なる二つが会い寄り添い、お互いが怠らず、造り続けてきたならばその営まれているものには磁石のような人を惹きつける力があるだろう。

 

何を造り続けてきたかはお互いが時にぶつかり合い、時に融け合い、その都度を積み重ねてきた年輪で決まっていくもの。「営む」とは終わりのない年輪みたいなものだろう。

 

 

 

 

 

老婆のような声に

1/11(日)30日目。次の寺院まで40km以上あり、今日は平坦な道を40km近く歩いた。今日はこの絵ともう一枚だけ。ご来光に思わず反応していた。

 

 

約10時間歩いて16時前に戸川公園に着いた。公園内に休憩所があり、テントが張れるスペースがあった。トイレは綺麗で夜間照明も。ここから次の第65番礼所三角寺までは3km程度の道のり。まさに歩きお遍路さんなら誰でもテント泊を計画する処だろう。だからなのか、屋根もあり、仕切りもあった。テーブルにリュックの中身を広げて整理していた。

 

 

しばらくすると、隣のスペースにお遍路さんがやってくる。「隣、いいですか」と礼儀正しく声をかけてきた若者。彼はまだ20代。話を交わすと「会社でいろいろあって」時間の縛りもなく八十八ケ所を歩いているようだった。私はただただ、聞くだけだった。最初で最後、お遍路さんと隣り合わせでのテント泊。

 

陽が落ち始めてきて話を終え、テントに潜り込む。彼のテントには小さな明かりが灯った。私はすぐさま寝袋に入り込み、休む体制になった。身も心もくつろぎ始めてクールダウンしていると何やら隣から聞こえてきた。

 

老婆ような声と若者の声が飛び交い始めていた。クールダウンからいきなり、無意識に聞く耳を立ててしまう。若者の心を刳るような老婆声での質問ぜめに返す言葉がない若者。それでも答え切ろうとする若者に容赦なく鋭く迫る勢いは衰えない。老婆のような声は自身の息子のことを発し始め、やがて若者と対比しながら攻め込むような勢いを増していった。

 

「あなたは何のために歩いているのか」

 

「あなたは何のために生きているのか」

 

顔を見るのが、怖くてテントの外には出られなかった。鬼婆でもいるんじゃないかとさえ思えた。すでに公園には薄明かりが灯り、姿かたちを見ようとすれば見えた。それでも目を向けず、最後には耳栓をして眠りについた。

 

その先どうなったかはわからない。5時に起きて静かにテントをたたんだ。休憩所を出るとき、彼のテントに声をかけることはなかった。6時過ぎに公園を出て歩き始める。その後、彼と再会することはなかった。

 

鬼婆のような声に自分の中にもあるものがそのまま現れ、怯えたかもしれない。「たぶん俺もあ〜だったんだろうな」と今は思える。

 

鬼婆のような声に母親への違和と重なり合い、嫌気がさしたのかもしれない。「この違和感と向き合うしかないな」と今は思える。

 

人の心を刳った自分自身と親に心を刳られた自分自身とが表裏一体なんだろうな。

自分と向き合うことには見たくないものが容赦なく迫ってくる。それでも逃げずに真正面から向き合えば間違いなく感情に押し潰されることはなくなる。

 

 

 

 

受け継がれていくもの

1/10(土)29日目。7時に宿を出て、きた道を戻って標高750mにある第60番礼所横峰寺を目指した。八十八ケ所のうちでは3番目の高地にあり、車では境内から500m離れた駐車場まで行きけるのだが、12月下旬から2月いっぱい車道は不通となるそうだが。冬期は歩かなければ、いけないことになる。

 

 

林道ができる前は相当の難所だったそうだ。芸術的な空間を歩いているようだった。五感から入るものすべてが鮮やかだった。

 

 

 

少し手を加えられただけで、ほとんど人に荒らされることなく森は生きていた。

 

   

 

当然のように誰もいない。拝礼を終え、下っていくと駐車場があった。寺院へ向かう二人連れを見かける。「足元悪い中、ここから登って行くんだよな」と心の中でつぶやいていた。下りはスリル満点ひと息に駆け下りた。

 

 

第61番礼所香園寺には本堂と大師堂を兼ねた近代的な大聖堂が聳え立っていた。納経所はまるで会社事務所のような感じがした。

 

 

 

 

第62番礼所宝寿寺は異質な寺院と言われていることを知らなかった。拝礼も御朱印も何事もなくスムーズに運んだ。隣の寺院とは対照的に外目は朽ちていたことは覚えている。

絵にある1200年記念の赤いお御影は第61番礼所の納経所の方から「宝寿寺の分です」といただいたもの。それには梵字はあるが寺院名はない。2017年3月に四国八十八ケ所霊場会から脱会ということになった。

 

 

 

第63番礼所吉祥寺は1585年豊臣秀吉による四国攻めの争乱で焼失して、1659年に檜木寺と合併して現在の地に移り再建されたと伝えられている。

 

寺宝には高さ30cmの「マリア観音像」があるそうだが、観音像として代々伝えられたため、徳川幕府のキリスト教禁令から逃れている。今は非公開。

 

 

第64番礼所前神寺、ここも明治新政府の神仏分離令により寺領を没収され、廃寺となる。明治22年に霊場として復興したそうです。

  

 

姿かたち、大きさを変えても受け継がれていくもの。逆に何も変わらずに受け継がれていくもの。人から分からず隠れるように受け継がれるものもある。そして、まったく何も受け継がれないものもある。

 

素朴で多くの人の心の支えになるものは変わることなく、生きる道しるべとなって受け継がれていくのだろう。

 

受け継がれるものは淘汰されるなかで生かされ、その時代、時代を生き抜いていくのだろう。

 

武丈公園でテント泊。16時半について翌朝6時には歩き出していた。