どれ一つ欠けてもできない | 「ありのまま」でいいんじゃない

どれ一つ欠けてもできない

1/8(木)27日目。まだ暗い6時過ぎに歩き出すと自販機の灯りが見える。コーンポタージュスープを飲み落として腹を温めた。第54番礼所へ向かう。

 

 

 

雲間に青空がちょっと、波も穏やかな日本海を見ながらのんびり歩いた。この日は56番礼所で礼拝を終え、40km近く歩いていた。

 

 

 

 

第54番礼所は明治時代になって「第五十三番札所円明寺」と同じ漢字だったため、間違いが多く「延命寺」と改められた寺院。

 

 

第55番礼所は八十八ケ所のうち「坊」がつくのはこの「南光坊」だけで、明治維新の神仏分離令により境内が神社と区切られている寺院。

 

 

 

第56番礼所は鐘楼が明治14年に今治城内にあった太鼓楼の古材で再建され、山門はなく、石垣に囲まれている寺院。

 

寺院のことは遍路を終えてから知った。

 

ここで観光バスの団体と鉢合わせ。「団体参拝者が来ると待つから先に納経帳を出して」と納経所の方に言われた。先に御朱印をいただいた。拝礼を終え、石段を降りるとツアー参拝者の方から「歩きお遍路ですか、羨ましいね」と言われた。

 

そうなんだよ、やりたくてもできない人がいるんだよ。

 

歩きお遍路の正確な統計はないようですが、「通し打ちで歩きお遍路」の方は推定で年間参拝者の数パーセントにも満たないそうです。参拝者の事情は千差万別十人十色。御朱印をスタンプラリー感覚でいただく方もいれば、ご利益を願う方もいて、慰霊を持って歩いている方を見かけたこともありました。心の趣は当たり前ですが人生いろいろ。

 

私のように節約してコンパクトに周る人もいれば、長い時間と結構なお金をかけて周る人もいるでしょう。どちらにせよ、きたくても来れない人、やりたくてもできない人がいるのは偽りのない事実。

 

歩ける健康な体があること、歩ける時間が作れること、歩ける小金を持っていること、歩く意思が湧き上がったこと、そして身近に理解してくれる人がいたこと、どれ一つ欠けても歩くことはできなかった。

 

ある意味、最高の贅沢なんだよな。世俗から少し離れて自分を見れる。まるで歩きながら瞑想しているような感覚だったような気がしている。感謝という言葉を超えたところにあるものはいまだわからない。

 

 

歩き出して11時間を超えていた。特別養護老人ホームの敷地内にある寄贈された遍路小屋に着く。地図では遍路小屋の記しはあるが「まさか、こんなところに」樹木の香りがするほど真新しかった。