極限が日常になるとき | 「ありのまま」でいいんじゃない

極限が日常になるとき

「極限」を言葉にすることは難しい。そこを話す人も聞く人もいたって少ない。人によって程度の差はあったとしても生きた言葉になることは間違いない。その人なりの「極限」を聞いては心動かされてきた。
 
残された道は限られたという状況でその人の心の中をわかるように示すことは容易くない。追体験したように同化して、その人に入り込んで噛み砕いて、ようやっと言葉が出てくる。それまでには程々の時間がかかる。それを持ってその人の全てではなく、その人の僅かなものに触れたに過ぎないことを忘れがちだ。
 
自らの経験値をも超えた経験に言葉足らずになるのは致し方ない。それでもなんとか感じたことを伝えたいと思うのはなぜなのだろうか。
 
他人に追い込まれるとか、自分で覚悟を決めるとか、それそのものが無いのが「極限」じゃないのかな。やめるとしても、やるとしても決めているのは誰なのか。

人は最後の最期になっても試されていると噛み締められたとき、他人には「極限」に見えるものがその人にとっての日常になっているに違いない。

ペットボトルの中身がシャーベット状になっていくのを目の当たりにする。手袋を外し蝋燭に火を灯すためにライターの金属部分をこすると指が痛い。日常と非日常の境目が薄れていったことに今頃気づく。