純粋な内省が価値観になる | 「ありのまま」でいいんじゃない

純粋な内省が価値観になる

12/20(土)8日目、昨日とうってかわって冷たい雨と風。前日は内妻海岸にかかる橋の下に雨を凌ぐためにテントを張ったのですが。平らなところがなく傾斜のある地面のおかげでテントに雨水が流れ込み始める。慌てて雨風に打たれながらテントを畳んで午前5時に歩き始める。街灯もなく真っ暗、携帯する小さなライトが唯一の光。200mぐらい歩くと、無くなっているゴールドのホイッスルに気づく。
 
 
手作りの貴重なホイッスルだった。立ち止まり考えた。探すか、探さないか、探しきれるかどうかも。苦渋の選択とまではいかないが少し心に引っかかった。それでも探しても見つからないと潔く捨てた。その人なりの価値観に揺れ動くってこいうことなのかな。優先しているのは何?素早く決め切って前に進むことが試された。
 
 
人は価値観から生まれる執着に翻弄されやすい。要る要らないを抜きにして抱え込もうとする習性は人の性。人はしがらみに惑わされ抜けきれず、昔取った杵柄的な価値観が今どうなのか、今の自分の価値観は朽ちていないか、そうであればどうする、と考えることから避けていこうとする。
 
地道な基礎研究者達の価値観は人が生きる鏡になる。日の目を見ることすら分からずも日々前に前に進もうとする。自分の価値観と他人の評価を付き合わせない。他人からの評価に期待感ある執着がない。自らが優先する価値観以外はきっぱり削ぎ落とす。私にはそう見える。今の自分自身への純粋な内省がそのまま自分の価値観になっているのだろう。
 
自分の中にある価値観同士がぶつかり合いながら、好天だろうが、荒天だろうが前に進まなければならなかった。