名建築を歩く「妙喜庵待庵」 国宝茶席三茗席(京都府・大山崎) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

名建築シリーズ76

妙喜庵待庵

 

往訪日:2024年4月10日

所在地:京都府乙訓郡大山崎町竜光56

見学:(現在日曜のみ)

9:30~/10:30~(約1時間)

料金:1000円(中学生以下不可)

予約方法:

・一箇月以上前に往復はがきに第三希望まで

 記載して申し込む(時間指定不可)

・電話での問い合わせ不可

アクセス:JR京都線・山崎駅前

■設計:千利休

■完成:1582年(天正10年)

■国宝

※内部撮影NG

 

《妙喜庵の玄関前》

 

ひつぞうです。JR山崎駅周辺は近世から現代に至る名建築が集まるエリアです。大山崎山荘美術館サントリー山崎蒸溜所に続いて、四月の初めに国宝・妙喜庵待庵を見学しました。その往訪記です。

 

★ ★ ★

 

ということで三たびJR山崎駅にやってきた。今回も事前予約制。コロナ禍を経て日曜一択になったが予約は比較的容易に取れた。10時30分開始の班だったので、先に大山崎町歴史資料館に向かうことにした。

 

 

大山崎町歴史資料館

 

所在地:京都府乙訓郡大山崎町竜光3

開館:9:30~10:30(月曜休館)

料金:200円(中学生以下無料)

アクセス:阪急京都線・大山崎駅前

 

ほぼ実寸大の待庵のレプリカがあるらしい。予習することにした。

 

 

ところが撮影可能なのは入り口前のここまで。復元された待庵含めて撮影NG。厳しい…。ちなみにこの甲冑は秀吉所用の《馬藺後立一ノ谷形兜》。もちろん複製。天正15年の九州攻めの際に蒲生氏郷の家臣に下賜したとされる。馬藺(ばらん)菖蒲の別称。その形からきている。実物は東京国立博物館所蔵。

 

「でも勉強になったよ」サル

 

山崎は交通の要衝として繁栄してきた。その栄華を時代で区切り解説。山城国国府(JR山崎駅周辺)が置かれた平安初期、そして、大山崎油座で栄えた中世、更には羽柴秀吉明智光秀が覇権を争った山崎の戦い山崎宗鑑の連歌、千利休の茶の湯などが紹介されている。資料の説明や模型も秀逸だった。

 

「そろそろ時間だの」サル

 

 

案内開始前に行っても前の組が出るまでは入れない。所在なげに徘徊する客の姿がパラパラ。

 

 

妙喜庵の創建は室町時代(1492-1500)。春嶽禅師の開山。現世の妙学禅師で17代目になる。連歌師の山崎宗鑑(1466-1554)の隠棲の庵が起源。その庵を春嶽が譲り受けて今に至った。

 

 

《宗鑑隠棲地、豊太閤陣営、千利休茗席》の文字が読める。

 

三世功叔禅師の時代に天王山合戦(山崎の戦い)が起きた。夏は受験の天王山。それと同じく1582年(現在の7月初旬頃)山崎に陣を張った秀吉は近傍に屋敷を構えていた利休に茶の湯を設けさせた。その二畳隅炉の茶室が待庵の原型。一度解体されたのち1623年頃に妙喜庵に再建された。

 

同じく国宝の茶室として如庵(犬山市・織田有楽斎作)や大徳寺の密庵があげられるが、茶室遺構では待庵が最古。また利休作は唯一。いかに貴重かが判る。

 

「そろそろ入ってよさそうよ」サル

 

仏間を備えた書院(対月庵)で一同集合。総勢20名ほど。禅師から来歴の説明があり、数名ずつ(下の写真の)石畳に沿って進み、内部を見学した。もちろんあがることはできない。

 

(参考画像 ネットから拝借しました)

(書院の縁側から見た待庵の外壁)

 

茶室は転載厳禁。なのでせいぜいここまで。興味ある方はネットで。とにかく素晴らしいの一言。

 

「解説の女性も横についてくれるし」サル

 

むしろ監視役でしょ(笑)。粗相しないかと。

 

建築における利休の功績。それは書院で行われる《書院の茶》から《草庵の茶》に在り方を変えたこと。草庵の形に即した二三畳の小間、連子窓、下地窓、躙り口など、茶人が対峙する独創的な閉空間が生み出された。

 

限定販売の『土壁と杮』を買い求めた。51頁で2970円と廉くはないが、洗練された和綴じの装幀は建築好きの心を捉えて離さない。写真も素晴らしい。平成30年の大阪府北部地震で被災した修復の記録も纏めてある。

 

一番印象に残るのは長苆(ながすさ)を無造作に散らした錆壁。中学生の頃、歴史の副読本で初めて観たとき「なんて襤褸っちい小屋だ」と逆に感心した。これが国宝?今見ればその大胆な作為と灰黒色の壁に侘び数寄の心を感じる。

 

そして、部屋の隅角に土を塗りまわしてアールをつけた室床の造り。僅か二畳の間が広く感じられる工夫だ。この技法は藤森照信氏設計の神長官守矢史料館(茅野市)にも取り入られていた。

 

(参考資料・再掲)

(神長官守矢史料館の天井隅角。藁苆は控え目)

 

話を待庵の構造に戻そう。掛けこみ天井の立体的構成もいい。下地窓の位置と丸く塗り回された隅炉の縁は後世の改変だそうだ。

 

ひとつ気になることがあった。腰貼りと呼ばれる腰丈まで貼られた半紙。やや青白く見える。これは半紙のマンガン成分が酸化したもの。もとは鮮やかな紺色だったらしい。

 

最大の特筆ポイント。それは壁の薄さ。厚みなんと5㌢。

 

「大風吹いたら倒れない?」サル

 

ところが阪神大震災では殆ど影響がなかった(大阪府北部地震で遂にクラック発生)。壁材は淀川の河岸に自生するが使われた。また貴重で軽い椹材の杮葺きを採用。こうした軽量な柔構造が地震の影響を最小減に抑えたのだろう。工学的にもよくできた建築だったんだね。

 

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他にも隣室の名月堂からみえる(秀吉ゆかりの)袖摺松(実は三代目)、手水鉢の《芝山》、杉戸に描かれた狩野山雪の松鶴図と雪中尾長鶏など見所はつきない。案内してくださった妙学禅師も素敵な聲だった。

 

「ほとんど論文だね」サル 誰が読むん?

 

いいの。備忘録だし。写真撮れないから書かんと忘れる。

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。