名建築を歩く「大山崎山荘美術館」(京都府・大山崎町) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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名建築シリーズ61

アサヒグループ大山崎山荘美術館(旧加賀正太郎別荘)

℡)075-957-3123

 

往訪日:2024年2月12日

所在地:京都府乙訓郡大山崎町銭原5-3

開館:10時~17時(月曜定休)

拝観料:一般1,300円 高大生500円

アクセス:JR山崎駅から徒歩10分

駐車場:無し

■設計:加賀正太郎

■竣工:1932年

■施工:不明

※作品と建物内部は撮影禁止

 

《企業メセナの好例ここにあり!》

 

二月中旬に京都の大山崎山荘美術館を訪ねました。大阪北浜の実業家・加賀正太郎(1888-1954)が自ら設計した元別荘です。主の歿後は所有者が変転。バブル期に高層マンション建替えの危機に瀕しますが、地元の保存運動が府知事・荒巻禎一氏を動かし(加賀が創立に関わったニッカウヰスキーの縁も手伝い)知事の友人でアサヒビール社長・樋口廣太郎氏の英断で1996年に美術館として再生しました。以下、往訪記です。

 

★ ★ ★

 

小春日和の週末。大山崎にやってきた。ここは明智光秀羽柴秀吉が戦火を交えた山崎の戦いで知られる。また木津川、淀川、桂川が合流し、京都と大阪が接する府境でもあり、古くから眺望豊かで肥沃な交通の要衝として開けてきた。そのためだろう。鳥井信治郎山崎蒸留所(1923年)を、建築家・藤井厚二はモダニズム住宅・聴竹居(1928年)を、そして加賀正太郎大山崎山荘(1932年)を建てた。ほぼ同時期であることに注目したい。

 

 

まずはJR山崎駅を出て東に進路をとる。大きな一本桜が枝を広げる踏切を渡った。

 

「でっかい踏切だのー」サル

 

 

渡り切るとジジババ殺しの急坂が待っていた。皆、観念したように肩で息をして登る。

 

 

因みに天王山の登山口でもある坂の起点は、連歌師でのちに(『守武千句』の荒木田守武とともに)俳諧の始祖となる山崎宗鑑の旧居跡だった。

 

 

50㍍ほど登ると分岐する。美術館は右だ。

 

「立派なおうちばかりだのー」サル うらまやしい

 

高級住宅に指を喰わえるおサルを急いて登っていくと…

 

 

再び分岐。先を急ぐあまり思わず直進してしまった。(その先はスタッフ専用の入り口だった)

 

 

左に進むのが正しい。開園の午前10時になるまでトンネル“琅玕洞”の門扉は開かない。前で待つことに。

 

 

開錠されてもまだ先は長い。ここでも老人組が再び脱落。

 

「サルはまだ健脚かも」サル

 

走っている成果が出ているね。

 

 

ようやく大山崎山荘美術館に到着だ。ちなみに流水門という。車のタイヤの泥を落とすための水路があったそうだ。

 

 

撮影できるのはここまで。

 

 

建物内部の配置はご覧の通り。山荘本館の他に安藤忠雄設計の夢の箱(山手館)と地中の宝石箱(地中館)を附設。前者は企画展、後者はモネを主体とした印象派の展示会場になっている。更に二階には喫茶室があり、アサヒスーパードライが飲めるのも売りのひとつだ。


ちなみにこの日の企画展は《藤田嗣治 心の旅路をたどる》

 

 

(客が取れるのは判るが)レオナール・フジタの企画展はこれで四回目。幾ら好きでも食傷気味。それでも直筆の絵手紙には見るべきものがあった。

 

《猪熊弦一郎宛の書簡(部分)》(1944年4月11日)

猪熊弦一郎現代美術館 蔵

 

基礎があるだけにアメリカの生活を伝えるポンチ画は特徴を捉えて本当に旨い。当時の画家仲間の絵手紙のスケッチ…役者絵で鳴らした春陽会の長谷川昇(りんご)、穏やかなタッチの風景画を得意とした富田温一郎(鵜)などの画風をこえた素描も、旧友フジタへの素直な思いとともに魅せられるものがあった。

 

ここで旧オーナーの加賀正太郎について記しておこう。

 

 

加賀正太郎(1888-1954)。大阪船場の富豪・加賀商店の長男に生まれる。東京高等商学校(現一橋大)卒。加賀證券(現三菱UFJ証券)、ゴルフ場(茨木CC)、不動産、醸造業など手広く経営に参画した。しかし、ヤマヤとして記憶すべきは1910(明治43)年に日本人で初めてヨーロッパアルプス(ユングフラウ)に登頂したことだ。あの槇有恒のアイガー登頂に先立つこと11年。意外に知られていない。

 

「そうなんだ」サル

 

当時珍しかったアイゼンやピッケルなどの装備を持ち帰ったのも加賀正太郎だ。他にもラン栽培でも玄人はだし。洋風建築や調度のデザインまでこなしてしまう。とにかく凝り性で器用な人物だった。ゴルフも親のクラブを振り回して自己流でシングルになったというから。

 

「おサルむりかも」サル クラブ棄てたし

 

ティーショットOB四連発の記録を持っているのはここだけの秘密(笑)。

 

次は建築散歩。肝心の内部は撮影できない。豪壮で重厚な英国チューダー様式ということで理解いただければ。とりわけ欧州から輸入したというマリア像のステンドグラスが美しい。まずは往訪して観て頂きたい。竣工は1915年。正太郎27歳だった。

 

死の前年に京都を旅した漱石。当時話題だったのだろう。やはり足を運んでいる。物怖じしない性格だったのだろうか。正太郎は命名を依頼する。生真面目な漱石のこと。杜甫、王維、荘子など得意の漢籍から“水明荘”など14候補を捻出。「気に入らなければ遠慮は入りませんから落第になさい」と手紙を送っている。なにかが駄目だったのだろう、あっさり反故にしている。

 

「肝が据わっているにゃ」サル

 

 

二階のテラスから栖霞楼(非公開)が正面に見える。垂直な塔楼を模した窓のフレームが斬新な建築。別荘建設の指揮を執るための櫓だったらしい。天井がガラス張りになった通路はかつてラン栽培の温室に繋がっていた。

 

 

アールヌーボー風の柔らかい隅角の採光窓がオシャレだ。

 

 

アラカシが植えられた前庭方向を観てみる。

 

 

壁面はスクラッチタイル。扉は釿目鮮やかな樫材。いずれも改修されたものだろう。アサヒビールが買い取った時は激しく痛んでいたそうだ。

 

 

喫茶室前のテラスにもいってみた。

 

 

木材と石材のコントラストが見事。抜けも良くて気持ちいい。

 

とここで気になるものを発見。

 

 

この彫刻どこかでみたような。

 

(参考再掲)

 

先日アップした西宮の旧甲子園ホテルの意匠(水滴)や石材とどこか似ている。ホテルの竣工は1930年。大山崎山荘の完成はそのニ年後。何らかの接点があったのかもしれない。

 

 

ベランダにはバーナード・リーチの陶板。

 

二階は朝日麦酒(現アサヒビール)初代社長・山本為三郎(1893-1966)のコレクションルームになっている。山本は柳宗悦民藝運動を支援。リーチ以外にも陶芸の河井寛次郎濱田庄司、染織の青田五良芹沢銈介、そして家具工芸の黒田辰秋らの作品が展示されていた。

 

 

喫茶室とテラスを隔てる壁面の意匠がみごと。窓のデザインは英国調というよりユングフラウの基地インターラーケン周辺で見られる民家のそれに通じると思うのは僕だけだろうか。

 

「おサルはいったことある」サル スイスええよー♪

 

残念ながら僕は写真だけ…。

 

 

テラスから石清水八幡宮が鎮座する森と桜の名所の背割堤がみえる。春がお薦めだ。

 

 

一段下に庭園がある。

 

 

次は安藤忠雄の地中館に向かった。

 

 

お馴染みのコンクリートの回廊。

 

 

その脇にドーム状の構造物。安藤作品の特徴だ。

 

 

茜色の欧州瓦が映える。こうしてみると様々な様式を贅沢に組み合わせていることが判る。

 

「扉の前に何かあるにゃ」サル

 

彫刻みたいね。

 

流政之《サムライの涙》(1973年)黒御影石

 

流政之(1923-2018)は長崎出身の彫刻家・作庭家。立命館大学法学部卒業後に単身渡米。独学で彫刻を学んだ。この作家は箱根の森彫刻美術館《風の刻印》を観ているが、国内のパブリックアートは地域が偏っている。関西では貴重な展示といえるね。

 

 

コンクリートの大階段を下って地中の宝石箱へ。

 

(参考資料)

(※ネットより写真を拝借いたしました)

 

モネの《睡蓮》を中心にモディリアーニなどが半月型のスペースに展示されている。

 

 

外から眺めるとこんな感じだ。他の安藤作品同様に太陽光線の採り入れ方が素晴らしい。

 

バリー・フラナガン《ボールをつかむ鉤爪の上の野兎》(1989-1990)

 

フラナガンといえばウサギ。

 

 

絵になる。

 

二箇月後に再訪した。ちょうどソメイヨシノが満開で花見客で溢れていた。

 

 

この日はスイセンが見頃。花は一番の癒し。

 

 

ということで期待以上の名建築に満足して次なる目的地に移動した。

 

「たのすみ~♪」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。