旅の思い出「サントリー山崎蒸溜所」工場見学と魅惑のテイスティング(大阪府・島本町) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

サントリー山崎蒸溜所

℡)075-962-1423

 

往訪日:2024年2月12日

所在地:大阪府三島郡島本町山崎5-2-1

見学時間:80分(4回/日)

10:20、12:30、13:30、14:40

参加費:3,000円(税込)

申込方法:完全予約・抽選制/2箇月前に受付

アクセス:JR山崎駅から徒歩10分

駐車場:有

(事務所棟)

■設計:安井建築設計事務所(佐野正一)

■竣工:1959年

■施工:三和建設

※工場内部は一部撮影禁止エリアあり

 

《安井武雄の薫陶をうけた佐野の力作建築》

 

ひつぞうです。大山崎山荘美術館の次に訪れたのはサントリー山崎蒸溜所でした。工場見学は完全予約制。限定品の山崎が買えるとあって当選するのも至難の業。国産ウィスキー人気のすごさを感じました。以下、往訪記です。

 

★ ★ ★

 

ということで再びJR山崎駅まで戻ってきた。

 

 

1930(昭和5)年竣工。幾度も改修を重ねているが、大正モダンの風情が残る好い駅舎だ。時間があるので歴史散歩してみた。JR山崎駅は中世の国府跡にあり、敷地が大阪と京都に跨っている。そのためだろう。通過する列車を狙う鉄道ファンの姿が散見された。

 

「ん?国宝って書いてある」サル

 

 

駅前に千利休ゆかりの国宝待庵があった。残念ながらここも抽選による予約制。一度に観てまわれないのが大山崎観光の難しいところだ。

 

 

南側には訪れる人もない静かな神社がある。貞観元(859)年創建の離宮八幡宮だ。鎌倉時代には大山崎油座が置かれて、信長の楽市楽座導入まで賑わった。今でも油の神様として全国的に有名らしい。

 

 

例祭には全国の食品油脂メーカーの幹部が集まるそうな。

 

神社の前はかつての西国街道。駅裏手の駐輪場あたりが府境になっている。

 

「ほんとだ。これより東、山城國って書いてある」サル

 

 

この関大明神社から西が大阪府だ。そこから線路脇を10分ほど歩いた。

 

 

再び大きな踏切を渡る。そこがサントリー山崎蒸溜所だった。

 

 

構内を真っすぐ道が貫いている。守衛室で来意を告げようとすると、幼い子供を補助席に乗せた若い母親がすました顔で通過していった。どうやらここ、一般道らしい。

 

「え!工場の中じゃないの?」サル

 

一般道の両サイドにサントリーの施設が建っているんだね。

 

 

ということで2003年に完成した山崎ウイスキー館で事前受付。ツアー開始まで館内を自由見学。

 

 

裏手には創業者・鳥井信治郎(1879-1962)とその次男、佐治敬三(1919-1999)の銅像があった。直観タイプの信治郎が切り拓き、学者肌の敬三がサントリーブランドを確立した。

 

「名字が違うにゃ」サル

 

母方の養子に入ったんだよ。もともと水と油ほど性格が違ううえ、そんな経緯も手伝って若い頃はよく衝突した。それでも番頭たちは「ええ親子やで」と口を揃えて見つめたそうな。草創期のサントリーについては開高健・山口瞳著『やってみなはれ みとくんなはれ』が詳しい。

 

 

開高も山口もサントリーの前身である壽屋(ことぶきや)の宣伝部員だった。その関係でこの社史を分担した。活気ある当時の姿を活写して面白い。開高と山口の筆のノリにも微妙な差があって興味深かった。

 

「脱線の予感…」サル

 

(芥川賞受賞の頃。この後恰幅に比例して書けなくなっていく)

 

開高健(1930-1989)。大阪府出身の作家。大阪市立大卒。『パニック』『裸の王様』で芥川賞受賞。受賞後もしばらく壽屋社員として勤務した。ベトナム戦争に取材した『輝ける闇』『夏の闇』を上梓。晩年は釣り紀行など趣味三昧だった。

 

(やはり壽屋時代の頃か。いずれ酒好きなオヤジに変貌)

 

山口瞳(1926-1995)。東京出身の作家。国學院大卒。『江分利満氏の優雅な生活』で直木賞受賞。代表作は自己のルーツを描いた『血脈』。酒をめぐるエッセイや週刊誌連載の『男性自身』シリーズで人気を博した。

 

山口瞳は『江分利満氏』のすかした感じが駄目で学生時代に投げ出したが、これは悪くない。むしろ真摯な文体で素直に入ってくる。書けなくなっていたのだろう、逆に開高は冗漫な感じが目立つ。物語は喫茶店でのふたりの面接シーンで始まる。当時、開高はPR誌『洋酒天国』の編集長だった。ちなみに大江健三郎と開高が芥川賞で競り合っていたとき、社長の信治郎は大江に賭けたそうだ(笑)。

 

「結果は?」サル 仕事しなはれ

 

開高さんが取った。

 

 

当時の若者はこの雑誌が欲しいばかりにトリスバーに通った。年齢制限ギリギリだったが、見事山口はキャリア採用をパス。そして配置されたのが茅場町の東京支店。だがそこは従業員数名のほとんど掘っ立て小屋。そう、壽屋はまだまだ零細な洋酒販売の会社だった。

 

 

鳥井信治郎は20歳で洋酒販売の鳥井商店を創業。(以前書いたように)国内では神谷傳兵衛蜂印葡萄酒で大成功を収めていた。その向こうを張って送り出したのが赤玉ポートワイン。この年、異常発酵でボトルが破裂する事故が相次いだが、滅菌処理を徹底した壽屋の商品は無事だった。運も実力。更に日本初のヌードポスター(実際は真っ裸ではない)の宣伝効果も的中した。

 

「最初はワインだったのきゃ」サル

 

並みの経営者であればここで守りに入るのが普通だ。

 

 

しかし、鳥井信治郎は違う。新たな階段を駆け上がることにした。国産ウイスキー製造である。

 

 

1923年に本場スコットランドに留学していた竹鶴正孝(NHKの朝ドラにもなったマッサンである)を招聘。

 

 

信治郎は山崎に工場建設の白羽の矢を立てる。

 

 

一方の竹鶴は気温や環境が似ている北海道に固執したが、販路のある大阪に近いし、信仰心が強く風水好きな信治郎は直観で山崎を選んだ。そんなことパネルに記載はないが、山口は本書の中でそう記している。理屈じゃない。短気な信治郎は言い出したら聞かない性分だった。

 

 

1923年。山崎蒸溜所の建設に着手。事務所棟(旧製麦場)の形が違うが配置は現在と凡そ同じ。

 

 

これが最初に完成した蒸溜釜二基。昨年100周年を迎えたサントリーのスタートの姿だ。本場スコットランドの蒸溜所に引けを取らないものだった。

 

 

工場完成の五年後に国産ウィスキー「白札」(のちのホワイト)を発売する。ワインと違って熟成が必要。五年間は売りに出せないため経営は大変だった。そのうえ売れない…。仕方なく爆発的ヒット商品の歯磨粉スモカの販売権を譲って食いつないだ。壽屋のウィスキーは“在庫”のまま眠り続けた。

 

 

その結果、生まれたのが12年物の角瓶だった。1937年のことだ。災い転じて福となる。信治郎は云った。“売れなんだことに感謝せんとあかん”。

 

 

初代・信治郎の強みは粘り、アイデア、信心深さ。しかし一番の才能は、ブレンダーに求められる天性の嗅覚だったと言われる。マスターブレンダーは歴代鳥井家が務めてきた。

 

 

それぞれ好みがあるのも面白い。

 

 

その基本となる原酒。まるで実験工房か博物館だ。

 

 

ということでサントリーの歴史を概観。二階の集合場所で待つことに。

 

 

「まだ醸造の解説もあるよ」サル

 

 

の17年ね。まず手に入らない。一昔前に白州工場に行ったときは普通に買えたのに。

 

「外国人が買い占めるもん」サル

 

 

和紙職人・堀木エリ子氏が楮と三椏で漉いた越前和紙に書道家・荻野丹雪氏が揮毫してラベルは完成する。もはや芸術品。

 

 

山崎の文字にも注目。「崎」ではなくて「山寿」。壽屋へのリスペクト。

 

 

香りは数十年物の貴重なミズナラの樽から生まれる。

 

 

ということで時間になった。参加者は25名程度。まずは仕込み・発酵室へ。

 

 

=仕込み・発酵=

 

 

高さ4.5㍍の巨大ステンレスタンクが並ぶ。その容量4000㍑。

 

この中に砕かれた二条大麦、仕込み水、酵母(ディスティラーズ酵母+ビール酵母)を投入。

 

 

発酵によって7%から70%にアルコール度数が上昇。

 

 

ここで発酵の状態を確認する。

 

 

伝統的な木桶の発酵槽も利用されている。保温性に優れているそうだ。

 

 

=蒸溜=

 

まずはを二度蒸溜。無色な液体(ニューポット)を作る。

 

 

沸点の違いを利用してアルコール度数をあげ、特有の香り成分だけを取り込んでいく。左のストレート型は重厚な酒質に、くびれのあるバルジ型は軽快な酒質になるそうだ。

 

 

=貯蔵=

 

 

ニューポットはミズナラの木樽で5年、10年、20年と長期熟成する。

 

 

熟成の深化が判るね。木樽の成分が抽出されて一部水分が蒸発。無色から琥珀色に変貌する。

 

 

狙う酒質に応じて積み重ねる場所や高さも替える。根気と集中力の要る作業だ。

 

こうして完成したシングルモルトをブレンドマスターの嗅覚とセンスで目指す風味にブレンドしていく。多い日には200種以上もテイスティングする。もちろん飲み込まない。事実、鳥井信治郎は殆ど飲めない体質だったそうだ。

 

「勉強になった」サル 早く飲もうぜ!

 

 

貯蔵庫を出ると仕込み水の湧水庭園になっていた。

 

 

では本日の最終イベント会場へ!

 

 

ここがテイスティング会場。

 

 

樽材を変えた山崎5種をテイスティングした。

 

 

美味しい山崎ハイボールの作り方も教わった。造り方は簡単。

 

①氷を隙間なくグラスに詰める。

②ウイスキーを適量注いでしっかり混ぜる。

③ソーダをそそぐ。比率は山崎:ソーダ=1:3~4。

④立てたマドラーを一回廻せば完成!

 

当たり前といえば当たり前かも(笑)。

 

 

「旨そう!」サル

 

テイスティングは20分ほどで終了。専用グラスは記念に貰える。

 

「飲み足らんにゃ」サル

 

そういうひとのためにテイスティングラウンジがあるのだ(有料)。

 

 

最終組だったので16時45分の営業終了まで残り25分。

 

「豪華だのー♪」サル

 

一番右のスパニッシュオーク樽が限定品。(ちなみにボトルに触れてはいけない)

 

 

1人三種類コース。全部で6種。どう?スペイン樽は?

 

「香りがスパイシーでドライだにゃ!」サル

 

サル好みなテイストで良かったね。

 

 

ということで見学会終了。

 

頭の中では蛍の光ではなく、この曲が流れていた。

 

 

スキャットが郷愁を誘うサントリーオールドCMの名曲「夜が来る」。その未収録曲も含めたCDの名盤だ。小林亜星さん作曲。音大卒ではない(慶応大経済学部)のにこのセンス。脱帽するしかない。チーコが謡うレナウンの「ワンサカ娘」も良かった。

 

(若い頃は痩せていたそうだが…)

 

大ピ連(大日本肥満者連盟)会長だったのに激痩せして肥満仲間から顰蹙を買ったのも今思えば亜星さんらしい。うちの爺さんは飲めもしないのに中洲に繰り出してはオールドを入れていた。タヌキの呼称が懐かしい。そして長塚京三さんのCMも。

 

「愉しかったばい」サル💕

 

山崎限定版(5000円)を一本ずつ買ったのは言うまでもない。今でもチビチビやっている。

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。