それは対馬海峡よ
文春文庫 司馬遼太郎『坂の上の雲(七)』322ページ
東郷は長官室にいた。島村と藤井が入った。席をあたえら
れたため藤井はすわろうとしたが、島村は起立したまま、
口をひらいた。かれはあらゆるいきさつよりもかんじんの
結論だけをきこうとした。
「長官、バルチック艦隊がどの海峡を通ってくるとお思い
ですか」
ということであった。
小柄な東郷はすわったまま島村の顔をふしぎそうにみてい
る。質問の背景を考えていたのかもしれず、それともこの
とびきり寡黙な軍人は、打てばひびくような応答というも
のを個人的習慣としてもっていなかったせいでるかもしれ
ない。やがて口をひらき、
「それは対馬海峡よ」
と、言いきった。東郷が、世界の戦史に不動の位置を占め
るにいたるのはこの一言によってであるかもしれない。
(322ページ)
この小説は大きな欠点を抱えている。日露戦争を秋山兄弟
や正岡子規の視線から描くという当初の目的は達せられた
のだろうか。欠点と書いたのは、達せられなかったと思う
からである。
あまりにも大きな「日露戦争」という歴史の大波の中で、
三人の主人公は徐々に見えなくなっていく。児玉源太郎や
乃木希典や東郷平八郎ばかりが登場するようになってしまう。
しかし、このような欠点を補ってあまりあるから、この作
品は「国民文学」と言われているのである。登場人物たち
が運命的にただ流されていくように、物語が進んでいく。
これは『戦争と平和』が当初の主人公たちの存在が物語の
進行とともに段々と薄くなり、やがてはレフ・トルストイ
の物語となるのと、まったく同じである。
ロシア軍の敗因はただ一人の人間に起因している。クロパ
トキンの個性と能力である。こういう現象は、古今にまれ
といっていい。
(113ページ)
奉天会戦における、ロシア軍謎の敗走は、クロパトキン個
人の資質によるものであると、司馬遼太郎は結論づける。
これは冒頭の東郷平八郎の決断において鮮明な対比をなし
ている。ここに司馬遼太郎の意図を感じるのだが、既に小
説だか戦記なのだかわからない。
結論は12月に採りあげる予定の八巻で書こうと思っている
が、これを小説として読もうという意志でこの本を読むか、
歴史物として読むかによって、読者の感想がまったく異な
ってしまうのではないか。不思議なことに、それがこの小
説の「ぶれ」ではなく「幅」として見える。それがこの作
品の「超越」したところではないだろうか。
私は遠回しに言ったけれど、どちらから読んでもこの作品
は面白く、示唆に富み現代人にとって未来の指針たり得る
「人生の書」なのである。
将軍の決断に関して言えば、ステッセルやクロポトキンは
愚将と言えるだろうか。日露戦争において生じた犠牲者は
日本が死者88000人、負傷者15万人に対して、ロシアは死者
25000人、負傷者11000人である。戦後にロシアは滅んだの
だろうか。1917年にロシアは革命によってソビエト連邦と
なるが、滅びたのはツァー(帝政)であって、国そのもの
ではない。
東郷平八郎も英雄となるが、その後は海軍の長老として厄
介者になっていくのである。日本も日露戦争に勝利した後、
第一次世界大戦に参戦して戦勝国となったものの、やがて
国際的に孤立していくのである。
日本は日露戦争である部分では勝ったが、ある部分では負
けた。
有名な「敵艦見ゆ」の打電秘話がこの七巻で紹介されてい
る。粟国島出身で那覇に住んでいたの奥浜牛という29歳の
青年である。かれは宮古島でロシアバルチック艦隊と遭遇
する。
「おまえのその話は本当か。万一虚言などを申し立てるよ
うではその罪は軽くないぞ。きっと覚悟して真実を申した
てよ」
などといったふうの、せっかくの注進者を罪人あつかいす
るような尋問の仕方をした。奥浜は純朴な性格だったから
怒りもせず、
「首にかけて真実でございます」
と、申し立てた。
これが26日午前10時とすれば、東郷艦隊の哨戒艦信濃丸が
発した有名な「敵艦隊見ゆ」という第一報の発信は翌27日
の午前4時45分である。ほぼ20時間、奥浜報告のほうが早か
ったわけだが、しかしこの当時宮古島には無線設備がなか
った。
(337~338ページ)
司馬遼太郎は歴史家によるとこの発見が22日のことである
と説明している。海軍からすれば「敵艦隊の第一発見者」
が軍ではなく一般市民では都合が悪かったに違いない。
奥浜やその後奮闘する宮古島の5人についても、しばらく
「歴史」から消え去ることになる。
司馬遼太郎は、信濃丸の場面より先にこの一般市民のこと
を書いた。私はこれを重視している。国民はいつもけなげ
で真剣で、どこかのどかである。歴史の表舞台に立つこと
なく、それで満足している。「それでいいのだ、事実は後
世が明らかにする」司馬遼太郎はそう言っているように、
私には思える。
坂の上の雲〈7〉 (文春文庫)/司馬 遼太郎
¥670
Amazon.co.jp
文春文庫 司馬遼太郎『坂の上の雲(七)』322ページ
東郷は長官室にいた。島村と藤井が入った。席をあたえら
れたため藤井はすわろうとしたが、島村は起立したまま、
口をひらいた。かれはあらゆるいきさつよりもかんじんの
結論だけをきこうとした。
「長官、バルチック艦隊がどの海峡を通ってくるとお思い
ですか」
ということであった。
小柄な東郷はすわったまま島村の顔をふしぎそうにみてい
る。質問の背景を考えていたのかもしれず、それともこの
とびきり寡黙な軍人は、打てばひびくような応答というも
のを個人的習慣としてもっていなかったせいでるかもしれ
ない。やがて口をひらき、
「それは対馬海峡よ」
と、言いきった。東郷が、世界の戦史に不動の位置を占め
るにいたるのはこの一言によってであるかもしれない。
(322ページ)
この小説は大きな欠点を抱えている。日露戦争を秋山兄弟
や正岡子規の視線から描くという当初の目的は達せられた
のだろうか。欠点と書いたのは、達せられなかったと思う
からである。
あまりにも大きな「日露戦争」という歴史の大波の中で、
三人の主人公は徐々に見えなくなっていく。児玉源太郎や
乃木希典や東郷平八郎ばかりが登場するようになってしまう。
しかし、このような欠点を補ってあまりあるから、この作
品は「国民文学」と言われているのである。登場人物たち
が運命的にただ流されていくように、物語が進んでいく。
これは『戦争と平和』が当初の主人公たちの存在が物語の
進行とともに段々と薄くなり、やがてはレフ・トルストイ
の物語となるのと、まったく同じである。
ロシア軍の敗因はただ一人の人間に起因している。クロパ
トキンの個性と能力である。こういう現象は、古今にまれ
といっていい。
(113ページ)
奉天会戦における、ロシア軍謎の敗走は、クロパトキン個
人の資質によるものであると、司馬遼太郎は結論づける。
これは冒頭の東郷平八郎の決断において鮮明な対比をなし
ている。ここに司馬遼太郎の意図を感じるのだが、既に小
説だか戦記なのだかわからない。
結論は12月に採りあげる予定の八巻で書こうと思っている
が、これを小説として読もうという意志でこの本を読むか、
歴史物として読むかによって、読者の感想がまったく異な
ってしまうのではないか。不思議なことに、それがこの小
説の「ぶれ」ではなく「幅」として見える。それがこの作
品の「超越」したところではないだろうか。
私は遠回しに言ったけれど、どちらから読んでもこの作品
は面白く、示唆に富み現代人にとって未来の指針たり得る
「人生の書」なのである。
将軍の決断に関して言えば、ステッセルやクロポトキンは
愚将と言えるだろうか。日露戦争において生じた犠牲者は
日本が死者88000人、負傷者15万人に対して、ロシアは死者
25000人、負傷者11000人である。戦後にロシアは滅んだの
だろうか。1917年にロシアは革命によってソビエト連邦と
なるが、滅びたのはツァー(帝政)であって、国そのもの
ではない。
東郷平八郎も英雄となるが、その後は海軍の長老として厄
介者になっていくのである。日本も日露戦争に勝利した後、
第一次世界大戦に参戦して戦勝国となったものの、やがて
国際的に孤立していくのである。
日本は日露戦争である部分では勝ったが、ある部分では負
けた。
有名な「敵艦見ゆ」の打電秘話がこの七巻で紹介されてい
る。粟国島出身で那覇に住んでいたの奥浜牛という29歳の
青年である。かれは宮古島でロシアバルチック艦隊と遭遇
する。
「おまえのその話は本当か。万一虚言などを申し立てるよ
うではその罪は軽くないぞ。きっと覚悟して真実を申した
てよ」
などといったふうの、せっかくの注進者を罪人あつかいす
るような尋問の仕方をした。奥浜は純朴な性格だったから
怒りもせず、
「首にかけて真実でございます」
と、申し立てた。
これが26日午前10時とすれば、東郷艦隊の哨戒艦信濃丸が
発した有名な「敵艦隊見ゆ」という第一報の発信は翌27日
の午前4時45分である。ほぼ20時間、奥浜報告のほうが早か
ったわけだが、しかしこの当時宮古島には無線設備がなか
った。
(337~338ページ)
司馬遼太郎は歴史家によるとこの発見が22日のことである
と説明している。海軍からすれば「敵艦隊の第一発見者」
が軍ではなく一般市民では都合が悪かったに違いない。
奥浜やその後奮闘する宮古島の5人についても、しばらく
「歴史」から消え去ることになる。
司馬遼太郎は、信濃丸の場面より先にこの一般市民のこと
を書いた。私はこれを重視している。国民はいつもけなげ
で真剣で、どこかのどかである。歴史の表舞台に立つこと
なく、それで満足している。「それでいいのだ、事実は後
世が明らかにする」司馬遼太郎はそう言っているように、
私には思える。
坂の上の雲〈7〉 (文春文庫)/司馬 遼太郎
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