結果は同じであっても、私の信条としては出来ません。
新潮文庫 山崎豊子『沈まぬ太陽』第二巻132ページ

昨年映画化された企業小説である。まさしく“ナショナル・
フラッグ・キャリア”の現状を予言したような作品である。
この作品は現在も係争中であるようだから、多くの人が知っ
ているとはいえ、企業の実名を出すのは控えたい。

全五巻の大作だ。そして読み応えはずしりと重く、読後に得
る「重さ」もまた格別だ。「重苦しい作品は好きじゃない」
という人には敬遠されるのかもしれないが、この世の文学作
品は、とりわけ重要な作品のほとんどは「重苦しい」ものだ。
そのような敬遠策を自分のクセにしていると、真の読書は出
来ないだろう。

恩地元は国民航空のエリート・サラリーマンであったが、組
合活動が原因で「報復人事」を受けてカラチ支店の左遷され
る。カラチからテヘランへ。僻地のたらい回しである。支店
と行ってもテヘランには国民航空の飛行機など飛んでいない。
「開設準備員」という名目上の飛ばしである。

多くの元組合員が経営陣に頭を下げ、魂を売り、出世してい
くのを横目で見ながら、恩地は彼を影ながら支援してくれる
組合員たちを裏切ることが出来ない。そこには彼が「仕事は
十分評価されるだけのことをしてるのだ」という自信が支え
になっている。そうすることで彼は彼の弱さを何とか克服し
ているのである。

「・・・海外でいつまでも総務主任とは名ばかりの、万承りのよ
うな仕事をしているより、能力に相応しい仕事をすべきだ、
そのためには今後、組合活動に関わらないと約束しさえすれ
ば、済むこのなのだよ」
長い僻地勤務で疲労が澱のようにたまり、黯ずんでいる恩地
の顔を、まじまじと見た。
「私は今さら日本へ帰って、組合活動をしようとは考えてい
ません。しかし、ここで組合と関わりませんと約束して帰国
することは、結果として同じであっても、私の信条として出
来ません」
(132ページ)


恩地元はここで「うん」といえば日本に帰ることが出来たは
ずだ。しかし彼はそういわなかった。頑なに。普通の男なら
みんな「うん」と言うのではないだろうか。妻や子供を日本
に残し、母の死に目にも会うことが出来なかったのである。

彼は自らテヘランに残る道を選んでしまった。彼は桧山会長
が「二年で戻す」と約束した言葉を信じていた。しかしそう
ならなかった。恩地はテヘランからナイロビに異動になる。

「お父さん、あのハイエナを何とかして追っ払って」
子供もりつ子も云った。恩地は黙って、首を振った。
「人間が、手出しをすることは出来ないんだよ」
「だって、せっかく生まれてきたのに、喰われてしまうじゃ
ないか」
「生きるか、喰われるか、どっちかなんだよ、この自然界で
は、強いものしか生きられないのだ」
恩地は、そういい聞かせながらも、子馬が、母親に守られて
生き抜くことを願った。
(298ページ)


妻と子供がナイロビにやってきた時に、恩地はサバンナの自
然を見せた。生々しい野生の世界だ。それは恩地が言うよう
に弱肉強食が徹底した残酷な世界だ。人間のつくった社会と
どちらが残酷なのだろうか。私はそう思う。

呟くように云い、恩地は、床に並んでいるライオン、豹、レ
ッサークドゥーなどの剥製に眼を向けた。鮮やかな黒い斑点
のあるしなやかな体型の豹が眼に止まった。豹の心臓を狙い、
行天四郎を思い浮かべながら、一発で仕留めるように撃った。
飛ぶように宙に浮き、豹は不様に横倒しになった。
「堂本、お前は即死させないぞ」
と云うなり、ライオンの腸のあたりを狙った。腸を撃たれた
人間は即死せず、長時間、苦しみぬいて死ぬのであった。
(405ページ)


夜、飲めない酒に酔い、自宅の剥製に銃を向ける恩地の姿は、
さすがにもう限界を思わせた。人格まで変わってしまうよう
な凄まじい報復人事。しかし彼はこのあと、組合員たちに救
われて東京に戻ってくることになる。

それ以降の物語は、明日続ける。

この第一巻、第二巻は「アフリカ編」となっている。山崎豊
子はギリギリの生活と彼の信条の熾烈な葛藤を描いた。明日
に詳しく書くつもりだが、この物語では、いったい誰が勝利
者なのか。「現実社会に勝利者などいない」私の感じ取った
著者のメッセージだ。

問題はこの小説を読んで、「私も恩地元のように生きたい」
と、どれぐらいの人が思うかである。それは、「恩地元のよ
うに生きることが出来るか」以上に重要な問題である。特に
今日の世の中では。

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