僕はこの宝くじに当たるはずはない——村上春樹『ねじまき鳥クロニクル第3部:鳥刺し男編』
僕はこの宝くじに当たるはずはない。新潮文庫 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル第3部:鳥刺し男編』474ページ岡田亨は「井戸」を通じて何かができると確信した。そこでこの井戸付きの土地を手に入れる必要が生じる。彼は地元不動産屋を訪ねておおよその価格を知る。100坪で8000万円。それがこのいわく付きの土地の値段だった。普通、世田谷区の住宅地の価格なら場所にもよるけれど、100坪もあれば現在は1億円から2億円というところだろう。駅から近かったり広い道路に接していればもっと高いかもしれない。この物語は1984~86年の話である。その時代だったとしても、地価はどんどん上がっていた頃であり、数年後にはバブル経済により地価は急上昇するのである。100坪8000万円は安い。だがそれでも買い手が出ないとするなら、その土地の値段はもっと下がるはずだ。それが市場原理だからだ。岡田はその土地を買うお金がなかった。しかも失業中で銀行から融資を受けられる可能性はゼロだ。彼は宝くじを買うが、僕はこの宝くじに当たるはずはない。やがてその直感は確信にかわった。駅まで散歩をして売店で何枚か宝くじを買って、発表の日を座って待つだけで問題がすんなりと解決したりするようなことは絶対にない。僕は自分の能力を用いて、自分の力でその金を獲得しなくてはならないのだ。(42ページ)これは文句なく重要な場面における重要な言葉である。これは村上春樹自身が「デタッチメント」から「コミットメント」へという言い方をする「消極的な受け身の姿勢」から「積極的な関わり」への変換を表した場面である。それまでの村上作品に見られた運命や結末を受け入れるしかない無力な主人公とは明らかに違う、積極的に「何かを取りに行く」姿勢を、この岡田亨は獲得した。『ねじまき鳥クロニクル』は第3部は第2部から1年以上のインターバルを持って発表された作品であり、第1部、第2部とは異なり、物語の現れ方から時制がなくなるのだ。過去と現在の境目が曖昧になり、話の語り手が変わり、時代も跳んでしまう。つまり『海辺のカフカ』に出てくる言葉の通り、「ここではあまり時間が重要ではない」のである。さらに、この第3部では村上春樹は、興味深い文体を取り入れている。時間の経過はより不明確になる。そこにあるさまざまな時間制のうちのどの時間制を自分が今とっているのか、わからなくなってくる。僕の意識はゆっくりと僕の肉体に戻っていく。それと入れ代わるように女が去っていく気配がある。彼女は部屋に入ってきたときと同じように、静かに部屋から出て行く。衣擦れの音が聞こえ、香水の香りが揺れる。ドアの開く音が聞こえ、閉まる音が聞こえる。僕の意識の一部はまだ一軒の空き家としてそこにある。それと同時に僕は、僕としてこのソファの上にいる。そしてこれからどうすればいいのだろうと考えている。(69~70ページ)ここでは「時間が重要ではない」世界を描いているのだが、村上春樹はこの文章から、時制を消し去っている。すべてが現在形で表現され、あえて時間の流れを意識させないように注意を払って文章を構成している。つまり、ドアが閉まる音は、ドアが開く音よりも必ずしも後にある必要がないと言うことなのだ。時間という概念を消し去ると当然ことの前後関係も意味を失うからだ。私はこの部分の英語訳はどうなっているのだろうかというのがとても気になった。そこで数年前にこの目的のためだけにこのペーパーバック版を購入した。The rustle of clothing. The shimmering smell of perfume. The sound of a door opening, then closing. Part of my consciousness is still there as an empty house. At the same time, I am still here, on this sofa, as me. I think,What should I do now?(Vintage Books版 369ページ)時制はやはり省かれていた。この文体というか、文章から時間の概念を外す手法は、『海辺のカフカ』の中でも用いられている。カフカ少年が旧軍の兵士に導かれて謎の街に入る場面である。そこには時間がない。だから彼のデジタル時計の表示が消えるのである。岡田が井戸を手に入れようとし、実際にそれの深くコミットし、手に入れるのが時間の問題となると、綿谷ノボルは窮地に追い込まれる。なぜか、それはその「井戸」は岡田と綿谷ノボルの心をつなぐ「暗渠」への入口だからだ。岡田は既にその井戸を使って何度か綿谷ノボルの心の世界へ乗り込むことに成功した。そんな中でも綿谷ノボルは伯父の地盤を継ぎ、衆議院選挙に出馬する準備を進めていた。「そしてそのようにして樽のたがが一度外れてしまえば、世界は巨大な<ごたまぜ状態>とかして、かつてそこに存在した自明もととしての世界共通精神言語(とりあえずここでは<共通プリンシプル>と呼びたい)はその機能を停止するか、あるいはほとんど停止に近い状態まで追い込まれてしまうことだろう。(279ページ)世の権力者が民衆をコントロールする際に有効な手段は、民衆に「恐怖心」を植えつけることだと言われている。「日本は滅ぼされる」「日本は破産してしまう」「日本はとんでもない国になってしまう」これらが恐怖心となって、民衆の心の中に巣喰ってしまう。そうしてしまえばあとは、「私が救い主です」と言えばいいのである。そこにきちんとした正統性と説得力が与えられれば、民衆はそれを信じ、「彼こそがリーダーだ」と叫び、羊の群れと化すのだ。羊が出てくる。281ページ以降に綿谷ノボル自身が、対ソビエト戦に備えた防寒対策として大量の羊毛が必要で、そのためには満州での緬羊事業の成功が不可欠であると。そして綿谷ノボルの伯父は満州で石原完爾と会うのだ。これは『羊をめぐる冒険』で描かれた世界である。背中に星の印のついた羊が入り込んだ羊博士が報告書をまとめたことになっている。この場面は綿谷が自分の「正統性」を主張した部分ある。自分はリーダーにふさわしい出自を持っていると。しかしそれが事実だかはわからないのだ。誰にもわからない。<プリンシプル>という言葉から白洲次郎を連想させる。白洲にはさまざまなエピソードがあり、最も有名なのは「クリスマスプレゼント事件」だが、これは事実なのだろうか? 私にはわからないし、この事件が事実なのか否かにはあまり興味がない。私が興味を感じるのは、「なぜこのような白洲像が必要だったのか」という点に尽きる。マッカーサーを怒鳴り散らす男の存在が、いささかでも敗戦国となった日本人の劣等感を和らげてくれるというのだろうか。私は白洲次郎が良い悪いと言うつもりは毛頭ない。私が「邪悪」だと感じるのは、民衆をコントロールしようとする意思であり、反対にイメージを鵜呑みに仮面の下に別の顔があることを「想像だにぜず」、鵜呑みにして信じ込んでしまう心理である。綿谷ノボルの世界に移動した岡田はそこで暴力的な民衆の姿を見る。彼らはテレビの言うことをそのまま信じているのだ。(442ページ)だから綿谷の擁護者であり信者である。そして綿谷の敵である岡田は「その場所」にいる民衆の敵でもある。この作品は巨大な現代の暴力システムを描いている。このシステムの特徴は暴力の担い手が権力の側ではなく、コントロールされた民衆側(つまり私たち自身)にあると言うことである。この物語ではその中心に綿谷ノボルがいる。ナチス党の中心にヒットラーがいて、彼らの信奉者である一般市民がむしろ積極的にユダヤ人や同性愛者に進んで暴力をふるい、社会から排除していったように。僕はこのあざによって、シナモンの祖父(ナツメグの父)と結びついている。シナモンの祖父と間宮中尉は、新京という街で結びついている。間宮中尉と占い師の本田さんは満州ともうこの国境における特殊任務で結びついていて、僕とクミコは本田さんを綿谷ノボルの家から紹介された。そして僕と間宮中尉は井戸の底によって結びついている。間宮中尉の井戸はモンゴルにあり、僕の井戸はこの屋敷の庭にある。ここにはかつて中国派遣軍の指揮官が住んでいた。すべては輪のように繋がり、そして輪の中心にあるのは戦前の満州であり、中国大陸であり、昭和十四年のノモンハンでの戦争だった。でもどうして僕とクミコがそのような歴史の因縁の中に引き込まれていくことになったのか、僕には理解できない。それらはみんな僕やクミコが生まれるずっと前に起こったことなのだ。(285~286ページ)まさしくその通りだ。なぜ時空を超えて人が結びつくのか。それは人は時間軸を超えてもなお横穴によって結びつくことが可能であるということなのだ。それを「歴史の共有」と言わずして何と言おう。歴史的な経験は、それがDNAによって記憶されるのか否かは別にして、人間の無意識の層の中にあるのである。だからそれにアクセスさえできれば(方法はわからないが)その歴史の痛みや哀しみや辛さを共有できる。いや、既に共有しているのだ。私たちはそれに気がつかないだけだ。ライアル・ワトソンという科学者がいる。その著書に『生命潮流』というものがある。(かなり難解な本である)疑似科学という扱いを受けており正当に評価されているようには思えないが、ここに「百匹目のサル現象」という興味深い仮説が掲載されている。詳しくはサイトなどを参照していただきたいのだが、ここにはあくまで仮説として、サルという生命体が空間の隔たりを超えて結びつく「暗渠」を持っていて、サルという種が芋を洗って食べるようになるという進化を、別々の場所で同時に達成するという、不思議な現象を紹介している。さて、まだまだ語りたいことがたくさんあるが、結論的なことを書かなければならない。それはやはり「誰が綿谷ノボルを殺し得たのか」である。岡田亨は綿谷を殺しきることはできなかったが、それでも彼の目的は達成できた。彼はある意味で綿谷に最も苦しい罰を与えることに成功した。間宮中尉の言うように「死ぬべきところで死ぬことができなかった」のである。さらに生命維持装置で生きている綿谷ノボルは既に、自死を選ぶことさえできない。岡田はバットで何物かを撲殺した(と思った)後その男の顔を確かめようとするが、クミコによって「待った」がかかる。岡田はそれをしないで自分の世界に戻る。この男は本当に綿谷ノボルであったのだろうか? それとも、ぜんぜん別の人物だったのではないのか? それは綿谷の本性としての牛河かもしれないし、それは岡田亨の一部分なのかもしれない。その可能性だってある。だから、クミコは顔を見せたくなかったのかもしれない。最後に生命維持装置を止めたのはクミコだった。だから綿谷を殺したのはクミコだったということになる。クミコは一族の人間として、自らの血を自らの手によって浄化したかったのかもしれない。だから、岡田にとどめを刺すことをとどまらせたのだろう。穢す存在としての「綿谷ノボル」と、浄化することにコミットした「岡田亨」と「クミコ」。その結果として、涸れた井戸に水が戻り、澱んで途絶えた水の道に再び水流が復活したのだ。この物語は1984年から1986年までを描いているから、この物語に登場する牛河は『1Q84』の牛河とは別人物である。この作品で語られる彼の境遇も、『1Q84』のそれとは違う。牛河は「醜いもの」「下賤なもの」「穢れたもの」という最悪な配役を任された重要な役者である。しかし、牛河の姿は実は仮面の下の綿谷ノボルの姿そのものであることが示唆されている。そして牛河が家から一歩でると変装を脱ぎ捨てて、綿谷ノボルに戻るところを想像した。でもそれは馬鹿げた想像だった。(212ページ)最後には牛河は岡田の味方につく。牛河もまた綿谷ノボルの本性を知っており、いずれ破綻するのを知っていたのである。牛河自身もまた、「浄化」に力を貸したのだ。総合的に見ると、この物語は失われ損なわれた水の流れが復活するという話に見える。心理学的な解釈で表現するとなると(私には難しいのだが)、それはため込まれ塞がれ、行き場を失った正しい欲求が、本来の力を呼び覚ます覚醒の話とも読める。「井戸」の水の復活は、病んでいた「イド」の再生を連想させる。何よりもこの作品は、それまで救うことのできなかった登場人物を、たとえば『ノルウェイの森』の直子を、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「私」を力ずくで救出したロマン劇でもある。私は12月28日の記事で書いた通り、この作品が現時点で村上春樹の最高傑作だと思っている。それはいまだにこの作品が私にとっての多くの謎を含んでいるからだ。暗闇の208号室で岡田亨が倒し、滅ぼしたものは何であるのか? 私はまだこの本を何度も再読するだろう。このような本を読める自分は本当に幸せであると思う。ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)/村上 春樹¥820Amazon.co.jp