吾輩は猫である。名前はまだ無い。
新潮文庫 夏目漱石『吾輩は猫である』5ページ

吾輩は猫である。名前はまだ無い。
(5ページ)

あまりにも有名な冒頭文であるので、私が何か言うつもり
ではないが、やはり気になる。「なぜ猫に名前がないのか」

苦沙弥先生ことご主人は、甚だ怠惰な人であることが猫さ
んの観察からもわかるのだが、それにしたって、居候の形
をとっていても、ご主人はペットとしてこの猫くんを見て
いる。ご主人が突然絵に凝るのがだ、

吾輩は自白する。吾輩は猫としては決して上乗の出来では
ない。背といい毛並みといい顔の造作といい敢て他の猫に
勝るとは決して思っておらん。然しいくら不器量の吾輩で
も、今吾輩の主人に描き出されつつある様な妙な姿とは、
どうしても思われない。第一色が違う。
(12ページ)


とまあ、鼠は捕らないけれど、愛玩はされているのである。
そんなペットといってもよい猫さんに名を与えないとは作
為的としか思えないではないか。ご主人は英国留学の経験
を持つようであるから、ペットが人間とどのように関わっ
ているのかご存じのはずである。

猫さんの方でも、名をもらうことに否定的である。

吾輩は名前はないと屡(しばし)ば断って置くのに、この
下女は野良野良と吾輩を呼ぶ。失敬な奴だ。
(85ページ)


「下女」という呼び方も失敬だと思わないでもないが、最
初「吾輩」を家から追い払おうとしたこの女中さんから、
「のら」という名前をもらっているのであるが、これが気
に入らない。やはり「のら」という見下すような響きが猫
さんには気に入らないのである。

つまり、猫さん、相当なプライドという自意識をお持ちな
のである。人間の方を見下している、というか、達観して
いる。

人間は利己主義から割り出した公平という念は猫より優っ
ているかも知れぬが、智慧は却って猫より劣っている様だ。
(30ページ)


それもそうなのだ。ちょっとふざけて書いてみたが、猫に
名前がないのは「猫=漱石」であるから、名を必要としな
いというか、それぐらいわかれよという意味がある。と同
時に、私はもうひとつ意味があるように思える。

この作品は、当時のインテリではと見られているものの、
一皮むけば荒唐無稽な俗っぽい明治社会を風刺する内容を
もつ。猫の目に映る人間どもは、西洋の知識をそれなりに
蓄えながらも、その使い方において甚だ応用能力が乏しい
ようである。

進化論や近代物理学の知識を持っていながら、縊死の際にど
のように力がかかるか云々と、話がまるで前近代的なので
ある。猫はこんな人たち自体にも、「いったいこいつらは
何なんだ、何と呼べばいいのか?」そう思っているのであ
る。こんな連中から名前など貰う訳にはいかないのである。

村上春樹の『海辺のカフカ』で、猫と会話ができるナカタ
さんは、出会った猫に便宜的に名前を付ける。それは意思
の疎通や意見の交換、魂の交流、互いの役割の尊重がある
から名前が必要であるのだ。お互いが尊重するほどの存在
でなければ代名詞で充分だ。知らぬ間に妻の呼び方が「お
い」になってしまうようなものであろう。

また、宮崎駿監督のアニメ『千と千尋の神隠し』では、
「名前を奪われると帰り道がわからなくなるからね」とい
うセリフがある。本物の名前を奪い、別の名前を与えるこ
とが「精神の支配」を意味することを、この映画は示して
いる。

とすると、『吾輩は猫である』の猫さんはむしろ名前など
いらぬ! という態度であるという理解の仕方が正しいの
ではないかと思われる。(ちょっとこじつけっぽいけど)

名前というのはそれほど重要なものなのだ。それはある意
味で人格そのものを表すのである。日本に広く苗字という
名前が行き渡ったのは、明治時代になってからである。侍
を除けば、苗字を持つことは基本的にはゆるされなかった
のである。その意味で、猫さんの視点は、文明開化未だま
まならない誰かの視点でもある。

とにかくこの作品は面白い。名前云々でも思索が楽しめる
が、この作品に出てくる人間達の狂態が痛快である。ご主
人は、『吾輩は猫である』の連載によって人気を得た猫さ
んの写真を送ってくれるように、との手紙をもらい吉備団
子までいただくだが、

主人が吾輩に一言の挨拶もなく、吉備団子をわが物顔に喰
い尽くしたのは残念の次第である。まだ写真も撮って送ら
ぬ容子(ようす)だ。
(87ページ)


ご主人はずいぶん胃弱に悩んでいるのである。その割には
よく食べるのだ。しかも今で言えば偏食家なのである。

「それでもあなたが御飯を召し上がらんで麺麭を御食べに
なったり、ジャムを御舐めになるものですから」「元来ジ
ャムを幾罐舐めたのかい」「今月は八つ入りましたよ」
「八つ? そんなに舐めた覚えはない」
(88ページ)


とにかく、この夫婦げんかが最高である。「低俗」と言っ
たら英語教師でご留学経験のある先生に対して失礼であろ
うか。しかし、ジャムをなめるという先生に親近感をいだ
くのは私だけだろうか。

ご主人は胃弱に悩んでいることから、このご主人=漱石で
あることは当然なのだが、となると「猫さん=漱石=ご主人」
という不思議な構造を持った作品であることがわかる。そ
うなると、ただの通俗社会風刺作品ではなくなるのである。

明日もこの作品について書く。

吾輩は猫である (新潮文庫)/夏目 漱石

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