しかし、その血のために、もう一つの、僕に何の罪もない恐ろ
しい血の責任までとらされるのは、やりきれませんよ・・・・・・

新潮文庫 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(中)』
367ページ


ゾシマ長老

アレクセイの師でありロシア正教にとって、この小説の舞台と
なる血の宗教的重鎮であるゾシマは、この小説においてどのよ
うな役割を与えられたんであろうか。

上巻の「場違いな会合」において、ゾシマは分裂の危機にあっ
たカラマーゾフ一家を救済するため、文字通り「場違いな会合」
を開くのである。しかし、この試みは失敗に終わる。父はドミ
ートリイを罵り、ドミートリイは「なんでこんな男が生きてい
るんだ」と叫ぶ。イワンはこれらを無視し傍観者然とする。ア
レクセイはどうすることもできない。ゾシマはこの会合の後に
体調を崩し昏睡状態に陥る。その直前に、ゾシマはアレクセイ
に「この一家を救うのだ」と言い残して。

ゾシマ長老の失敗はある意味で、宗教は古いロシアを葬り去る
主役になり得ないというドストエフスキーのメッセージを読み
取ることができるだろう。ドストエフスキーは宗教の役割を全
面的に否定した訳ではない。しかし、彼は宗教が果たす役割に
は「限界がある」ということを言いたかったのだと私は思う。

中巻の「第六編 ロシアの修道僧」ではゾシマの僧になる前の
俗世での象徴的な出来事がアレクセイの手記という形で語られ
る。私にとって印象に残ったのは「決闘の話」と「神秘的な客」
である。

ゾシマが士官学校生だった頃に色恋沙汰から決闘することにな
った。決闘とはピストルを持って交互に打ち合うあれである。
映画などで見たことがあるであろうか。この頃の西洋社会では
主として貴族たちの名誉を守るために、このような決闘という
名の殺し合いが合法的に認められていたのである。

弾丸はわずかに頬をかすめ、耳にかすり傷を負わせただけだっ
た。「よかった、あなたが人殺しをせずに住んで!」わたしは
叫んで、自分のピストルをひっつかみ、うしろに向き直るなり、
高く森の中へ投げ棄てた。「お前の行く場所はそこだ!」わた
しは叫んで、敵の方に向き直った。「おねがいです、愚かな青
二才のわたしを赦してください、自分がわるいのにあなたをさ
んざん侮辱したうえ、今は人を射つようにことをさせたりして。
わたし自身はあなたの十倍もわるい人間です、いやおそらくも
っとわるいでしょう。このことを、あなたがこの世でだれより
も大切にしていらっしゃるあの方に伝えてください」
(71ページ)


ゾシマは後悔していたのである。決闘というくだらない行為以
上に、最初の一発を順番に従って相手に撃たせた後に懺悔した
自分に。なぜ、その一発が撃たれる前に懺悔し和解を求めなか
ったのか。

そんな行為はほとんど不可能でした。なぜなら、わたしがこの
方の射撃を堪えぬいたあとでこそ、はじめてわたしの言葉が何
らかの意味を持ちうるのですけれど、もしここについてすぐ、
射撃の前にそうしたりすれば、臆病者、ピストルがこわくなっ
たな、聞く耳持たんわ、とあっさり片づけられたにちがいない
からです。みなさん。
(72ページ)


これは自分の名誉や権威によりどころを求める考え方であり、
ゾシマ自身が、多くの人がこのようなくだらないものに対する
強いこだわりを捨てきれないことで、いかに悲劇的な状況に陥
っているか、ゾシマ自身が痛感しているのである。このような
「自負」とか「矜持」とか「プライド」とか、何かとカッコの
良い響きがあるが、その本質たるや誰もよくわからない、誰に
も説明がつかないものを、ゾシマは見抜き森に棄てたのである。
「それにこだわるなら森の中に拾いに行けばよい」と。

ゾシマが聖職者となって一定の地位に就いたあとに、その「神
秘的な客」はやってきた。そして「私は人を殺しました」と告
白するのである。「私はどうしたらいいでしょうか」とゾシマ
に問うのだ。

「楽園はわたしたち一人ひとりの内に秘められているのです。
今わたしの内にもそれは隠れていて、わたしさえその気になれ
ば、明日にもわたしにとって現実に楽園が訪れ、もはや一生つ
づくんですよ」
(78~79ページ)


「これは精神的、心理的な問題です。世界を新しい流儀で改造
するには、人々自身が心理的に別の道に方向転換することが必
要なんです。あらゆるに人が本当に兄弟にならぬうち、兄弟愛
の世界は訪れません。人間がどんな学問やどんな利益によって
も、財産や権利を恨みつらみなく分け合うことはできないので
す。各人が自分の分け前を少ないと思い、のべつ不平を言った
り、妬んだり、お互いに殺し合ったりすることでしょう。あな
たは今、いつそれが実現するかと、おたずねでしたね。必ず実
現します、しかし最初にまず人間の孤立の時代が終わらなけれ
ばならないのです」
(79ページ)


「孤立?」私は思った。原卓也さんはこれを「孤立」と訳した。
私は「疎外」ではないのだろうかと思ったのだ。この「神秘的
な客」が「マルクス的な何か」だと思ったからだ。この珍客の
言葉は、そののちにゾシマが直面するカラマーゾフ一家の悲劇
や、この地球上の私有財産にまつわる悲劇の予言のように響く
が、この客はこのように言葉を続けるのである。

なぜなら今はあらゆる人間が自分の個性をもっと際立たせよう
と志し、自分自身の内に人生の充実を味わおうと望んでいるか
らです。ところが実際には、そうしたいっさいの努力から生じ
るのは、人生の充実の代りに、完全な自殺にすぎません。それ
というのも、自己の存在規定を完全なものにする代りに、完全
な孤立におちこんでしまうからなのです。なぜなら、現代にお
いては何もかもが個々の単位に分れてしまい、あらゆる人が自
分の穴に閉じこもり、他の人から遠ざかって隠れ、自分の持っ
ているものを隠そうとする、そして最後には自分から人々に背
を向け、自分から人々を突き放すようになるからです。一人で
こっそり富を貯えて、今や俺はこんなに有力でこんなに安定し
たと考えているのですが、あさはかにも、富を貯えれば貯える
ほど、自殺的な無力に落ち込んでゆくことを知らないのです。
(80ページ)


この男はゾシマに何を求めたのであろうか。ここで財産を無力
を蕩々と述べて、ゾシマから何を引き出そうとしたのだろうか。
ゾシマはこの男に「罪の告白」を勧めるのだが、この男は「裁
き」を求めたのである。ゾシマの「告白なさい」という言葉は
とても事務的に聞こえるではないか。男は自白書を当局に提出
するが、その中で、『私は苦しみを欲する!』と書くのである。
これは『罪と罰』の中でも、看守長に煉瓦を投げつけた囚人の
話と同じである。彼は救いの言葉よりも罰を求めたのである。

この話はロシアの来るべき個人主義的な考え方の終演を予言し
た。結果としてその通りになってしまった。自己実現を人間の
生きる目的とする自由主義的な社会思想は、社会主義国家の中
では抹殺され、私有財産は否定され、宗教そのものも不要であ
ると否定されるのである。

ゾシマ長老が死んだのちに腐臭が立ちこめる。アレクセイはそ
のことに動揺するのである。動揺する裏には、イワンから聞か
された「大審問官」が大きく作用しているのである。さらにそ
こには、アレクセイの中に流れている「カラマーゾフ一族の血」
も影響しているといって良いのかもしれない。

「あんな小柄な、枯れきったお身体で、骨と皮だけだったのに、
どうしてこんなにおいが生ずるんだろう?」
(130ページ)


「お前まで迷ったのか?」突然パイーシイ神父は叫んだ。「お
前まで不信心者どもといっしょになっているのか?」嘆かわし
げに彼は付け加えた。
アリョーシャは立ちどまり、なにか捉えどころのない目でパイ
ーシイ神父を見たが、またその目を急いでそらし、地に落とし
た。横向きのまま立ち、質問した相手に顔を向けようともしな
かった。
(139ページ)


アリョーシャ(=アレクセイ)はこのまま修道院を去るのであ
る。しかし彼は宗教心を棄てることはなかった。彼は「一本の
葱」によって救い出されるのである。崩れかかっていた何かが、
芥川龍之介が『蜘蛛の糸』で描いた「救いの葱(!)」によっ
て救われた。そしてゾシマ長老が生前命じた、この俗世でカラ
マーゾフ一家を守れという使命を全うしようと奔走することに
なる。

しかし残念ながら事件は起きてしまう。

私はカラマーゾフ三兄弟とゾシマ長老について書いたが、もう
一人重要な人物について書いていない。勿体ぶった訳ではない
のだが、これは明日にとって置きたかった。「カラマーゾフの
兄弟」とはドミートリイ、イワン、アレクセイの三兄弟とプラ
ス・ワンが存在するのである。読んだ人なら「何もったいつけ
ているんだ!」と怒られてしまいそうだが、私はあえて明日そ
の人物を書く。それが私のこの小説の読み方だからだ。

カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)/ドストエフスキー

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