人生の悲哀は天辺からの転落にある。どん底を極めれば
笑いに還るほかは無い。

新潮文庫 シェイクスピア『リア王』117ページ

残念ながらシェイクスピアの四大悲劇を全部紹介できなく
なった。当初はそのつもりだったのだが、あと9作品しか紹
介できないし、それはすでに決まっていて、もう交代不可
能なものだけだからだ。よって、『オセロー』の紹介はご
容赦お願いしたい。

私の愛情は私の舌より重いのだもの。
(13ページ:コーディーリア)


申し上げる事は何も。
(13ページ:コーディーリア)


老いたブリテン王・リアは三人の娘に領土を主とする財産
分与をするが、どれほど父のことを愛しているのか、口頭
で述べさせてその分の割合を決めようとするのである。三
女のコーディーリアのみがこの愚かさと、巧みな口上で父
への愛と忠誠を誓う姉たちの欺瞞を見抜いている。

激怒したリアはコーディーリアを追放し、持参金を与える
ことなくフランス王に嫁がせてしまう。いわば財産分与な
し。今これが起こったら大変なもめ事になるだろうし、法
律では一定の取り分を主張することは可能である。この場
合でもコーディーリアは6分の1の財産分与を受けることは
可能だろう。もちろん現代の日本ならばだが。

この悲劇の「悲劇性」はリア王自身の愚かさが他の悲劇作
品と比べていっそう際立ち、しかもあらゆる人間の「老い」
という宿命と結びついていることによって、よりリアルで
切実でむごいものになっている。

リア家の悲劇と対比をなす形で、家臣であるグロスター伯
爵家の嫡子エドガーと庶子エドマンドとの確執と裏切り、
悲劇が描かれている。

それこそ、欲情が人目を盗んで造った自然の産物、その成
分、働き、いずれにおいても一際優れ、あの無気力で気の
抜けた飽き飽きするような閨の中で、寝たり醒めたりの間
に続々と生落とされる馬鹿共の到底及ぶところではあるま
いが。よろしい、そうと決まれば、嫡子のエドガー殿、お
前さんの土地は頂戴しておこう。親父の愛情は庶子エドマ
ンドと嫡子のお前さんとで違う訳ではない。
(23~24ページ:エドマンド)


旧来の陋習とも言うべき敬老の美徳は、吾々人生の最盛期
にある者にとっては苦痛の種であり、そのため、吾々はい
たずらに財産より遠ざけられ、やがてそれを譲受ける時が
来ても、老いてそれを楽しむ事が出来なくなっている。
(中略)老人達が支配するのは、みずからに力があるから
ではなく、こちらが自分を押さえているからなのであ。是
非、お出で頂きたい、
(25ページ:グロスター)


この考え方は時と場合によっては正当な意見であると思う。
老害が組織を支配し、すでにその能力を欠いているにもか
かわらず、その「椅子」をけっして譲ろうとはしない。そ
のエゴは他のものは、すべからく自分と心中してかまわぬ
者たちなのだという、とんでもない誤解が生み出した害毒
そのものである。これは一般論である。

やがて長女と次女は夫と謀によってリアを荒野に放擲して
しまう。あまりにも有名な話だから、そのへんの説明はま
ったく不要だと思われる。

お願いです、お父様、力の無い者は無いように振舞って下
さいまし。
(80ページ:リーガン)


次女のリーガンはリアにこう言うのが精一杯であった。つ
まり隠居を進めたのである。日本でも戦国時代に似たよ
うな実話が多くあるではないか。隠居した武将、拒否した
武将、拒否する事によって息子に討たれた武将・・・。王は国
の統治者である以上、リーガンの言葉は正しいのである。

問題はこれが財産のぶんどり合戦になっているからである。
動機が不純なのである。しかし一方で、王は力ある者がな
るべきであるというのも真理である。リアの悲劇は、裏切
りと真理によって板挟みに遭い、どん底まで墜ちてしまう
事で成立する。

人間、どん底まで落ちてしまえば、つまり、運の女神にも
見放され、この世の最低の境涯に身を置けば、常に、在る
のは希望だけ、不安の種は何も無い。人生の悲哀は天辺か
らの転落にある。どん底を極めれば笑いに還るほかは無い。
(117ページ:エドガー)


グロスター伯爵家の嫡子エドガーもまた、エドマンドに謀
られて父から追放された。しかしエドマンドは父の財産を
奪うため、父をも裏切り、裏切り者の汚名を着せ、荒野に
追放するのである。

視力を暴力によって失ったグロスターは、狂人に化け自分
を息子であると名乗ろうとしないエドガーの手に引かれて
荒野をさまよう事になる。

この悲劇は私たちに何を語りかけるのか?

それは読み手(観劇者)によって変わってくるだろう。し
かしリーガンの言葉、

頑な人というものは、みずから招いた禍いを己れの師とせ
ねばなりますまい。
(85ページ)


この言葉がかなりの部分を言い尽くしているように思える。
この悲劇を「高齢化の問題」ではなく、「権力委譲の問題」
として読めば、リアの境遇は「身から出た錆」であり、愚
かな失態が招いた自死である。リアの頑なさは、結局のと
ころ誰も幸福にはしなかったのであり、まわりの者たちを
不幸に陥れた張本人である。

しかしこれを「高齢化の問題」として読んだらいかがだろ
うか。呆けた方が会社を経営できるだろうか。従業員のト
ップとしてその責任をまっとうできるだろうか。

また別の面でも問題がある。退いた高齢者への愛情と敬意
がない。この物語ではそれがまた悲劇の度合いを高めてい
るのだが、高齢者が若手にその道を譲らないのは、引退後
の「自分の立場に対する不安」が根底にあるような気がす
る。自分がトップの座から降りるやいなや、即座に逮捕さ
れる権力者や、銅像が破戒される権力者を私たちはたくさ
ん見てきた。

日本は年長者への尊敬の心を比較的強く持っている国民だ
と思っていたのだが、最近はどうなのだろうか。リア王の
悲劇は現代の大問題について深く考えさせる格好のテキス
トだ。この作品から黒澤明監督の映画『乱』が生まれたわ
けだし、この作品をモチーフにした作品はそれこそ星の数
ほど存在している。

私もいい年になってきたので、多少若いころの印象と違っ
ているのかもしれないが、老人は身の引き際を、若者は年
長者へのリスペクトを、強制されることなく行い、心の中
で感じる事のできる状態が、やはり理想だろう。シェイク
スピアはこれがあまりにも困難であるという点に注意を払
いこの作品を作ったのだろう。まさに永遠のテーマである。

リア王 (新潮文庫)/シェイクスピア

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