違いますよ日本人ですよ
講談社文庫 多和田葉子『犬婿入り』より
『ペルソナ』40ページ
多和田葉子さんは1960年東京生まれ。1993年にこの文庫に
収められているもう一方の作品『犬婿入り』で芥川賞を受
賞した。海外での評価が高く、多くの作品が翻訳されてい
る。とても気になる作家の一人である。
私の勝手な考えだが、村上春樹がノーベル文学賞を受賞し
たら次に取るのは彼女なのではないかと思っている。根拠
はない。ただ、日本での評価や知名度があまり高くないの
は少し不思議ではある。
『ペルソナ』は、セオンリョン・キムというドイツのある
精神科の病院の看護師がある事件の容疑をかけられるとい
う話なのだが、話は主人公の日本人留学生、道子の視点で
描かれている。
セオンリョンは、素人の目にはやさしそうに見えるけれど
も、専門家の目で見ると異常に表情がない。と言い出した。
だから残忍さがその底にひそんでいても見えにくい、と言
い出した。
(16ページ)
あるセラピストの言葉のあとに沈黙がある。そして沈黙の
あとに同意する意見と、異を唱える意見が出る。
セオンリョンはアジア人なのだから、表情がないのは生ま
れつきで、これは仕方ないのではないか、とカタリーナは
勇気を出して言った。私の友人の道子という名前の日本人
も表情はないが、その裏に残忍さを隠しているわけではな
い、とカタリーナはさらに勇気を出して付け加えた。
(17ページ)
外国へ行くといやでも「私は日本人です」と言わなければ
ならない。まず飛行機を降りるとパスポートを使って同様
の主張を行う。渡航の目的は? ホテルは? そして日本
人であることがアメリカやヨーロッパでは一定の信用力が
あると感じる。
どこから来たのかと問われれば「日本からです」と答えざ
るをえない。「中国からです」とか「韓国からです」と答
えることはできるだろう。でも外国に旅行に行ってそのよ
うなことはしない。日本人であることの方が「嘘をつく」
よりもましであると感じるからだ。外国人から見れば中国
人や韓国人と日本人の見分けなど付かないことはわかって
いる。
へえ、東アジア人同士でも顔を見ただけでは、どこの国の
人なのか分からないのね、と言った。当たり前じゃないの、
と言って道子は笑った。顔を見ただけで、ドイツ人とオラ
ンダ人の区別がつくかしら。当たり前じゃないか、と言っ
て、セオンリョンも笑った。東アジア人はみんな同じ顔を
しているんだよ。
(11ページ)
しかし道子と同居している弟の和男はそうではないという。
日本人と韓国人は一目見ただけで大抵区別がつくと言うの
だった。だって、顔が違うじゃないかと、言うのだった。
(12ページ)
道子は和男の言葉に「何か」が混じっているのを知ってい
る。道子は東アジア人の中の日本人という、きわめてあや
ふやな概念の中で生活をしている。ドイツという異国の地で。
レストランで和男と道子が食事をする場面がある。私も同
じ経験をしたが、店員さんがなかなか来ない。メニューを
取りに来ないし、何か頼もうとしてもこない。それは労働
習慣によるところが大きいのだが、和男は怒ってこう言う。
外人だと思って馬鹿にしているんだろう、と和男はつぶや
いた。そんなことないわよ、と道子は今度は笑わずに言っ
た。ベトナムの難民なんかといっしょにしやがって、と和
男がつぶやいた。和男は<ベトナムの難民>という言葉をあ
る感情を込めて発音した。その響きが道子の心を暗くした。
憎しみや軽蔑と呼んでしまっては簡単すぎる何か下の方へ
引きずっていこうとする嫌な響きが和男の声に混ざってい
たのだった。
(23~24ページ)
道子はその何かが、日本人である自分にも向けられている
ことを知っているのである。彼女はそれを自ら確かめるべ
く、普段はあまり近づかないある地区に足を踏み入れる。
そこは難民の収容施設がある地区であった。彼女は自分の
仮面を、自分が図らずも被らされているのと同時に、無意
識に被っている仮面を確かめに行ったのではなかったか。
韓国人かい、とその男が尋ねた。気がつくと、いくつもの
顔が道子を取り囲んで答えを待っているのだった。タイ人
かも知れない、という声がした。いや、フィリピンだろう、
という声がした。
違いますよ日本人ですよ、と道子は仕方なく答えた。ああ
トヨタか、と言って最初の男が艶めかしく笑った。道子は
からだの向きをもとにもどして歩き始めた。私はトヨタな
んかじゃない、と思ったとたん自分のからだが小さな自動
車になってしまったような気がした。
(39~40ページ)
道子がトヨタなんかじゃないと否定した瞬間、道子は別の
仮面が必要であった。この地では仮面が必要なのだ。
この作品の「何か」は差別意識とは別のものである。しか
しそれは明らかに邪悪なものである。そして道子は息苦し
さを感じる。それが何なのか分からないが故に。
私も何か分からない。それは道子が感じたように下に引き
ずり込もうとする力である。言い換えれば自分が上に立つ
ための力ではないだろうか。それはすべての人間に宿って
いる力であると道子は知っているのである。
多和田さんは独特の文体を持っている。主語が必ずはっき
りと描いてあり、日本人作家の多くの作品で見られるよう
な、主語を省略するようなところがない。だから読んでい
ると翻訳された外国人の作品のようにも感じる。また、同
じ述語を繰り返して表現するところも独特である。
私は詳しくないのだが、略することが多い典型的な日本語
よりも、多和田さんの文体の方が翻訳には適しているのか
も知れない。主語と述語がとてもはっきりしているのである。
新潮の最新号にも彼女の作品が掲載されている。これから
読むところだが、とても楽しみにしている。
犬婿入り (講談社文庫)/多和田 葉子
¥410
Amazon.co.jp
講談社文庫 多和田葉子『犬婿入り』より
『ペルソナ』40ページ
多和田葉子さんは1960年東京生まれ。1993年にこの文庫に
収められているもう一方の作品『犬婿入り』で芥川賞を受
賞した。海外での評価が高く、多くの作品が翻訳されてい
る。とても気になる作家の一人である。
私の勝手な考えだが、村上春樹がノーベル文学賞を受賞し
たら次に取るのは彼女なのではないかと思っている。根拠
はない。ただ、日本での評価や知名度があまり高くないの
は少し不思議ではある。
『ペルソナ』は、セオンリョン・キムというドイツのある
精神科の病院の看護師がある事件の容疑をかけられるとい
う話なのだが、話は主人公の日本人留学生、道子の視点で
描かれている。
セオンリョンは、素人の目にはやさしそうに見えるけれど
も、専門家の目で見ると異常に表情がない。と言い出した。
だから残忍さがその底にひそんでいても見えにくい、と言
い出した。
(16ページ)
あるセラピストの言葉のあとに沈黙がある。そして沈黙の
あとに同意する意見と、異を唱える意見が出る。
セオンリョンはアジア人なのだから、表情がないのは生ま
れつきで、これは仕方ないのではないか、とカタリーナは
勇気を出して言った。私の友人の道子という名前の日本人
も表情はないが、その裏に残忍さを隠しているわけではな
い、とカタリーナはさらに勇気を出して付け加えた。
(17ページ)
外国へ行くといやでも「私は日本人です」と言わなければ
ならない。まず飛行機を降りるとパスポートを使って同様
の主張を行う。渡航の目的は? ホテルは? そして日本
人であることがアメリカやヨーロッパでは一定の信用力が
あると感じる。
どこから来たのかと問われれば「日本からです」と答えざ
るをえない。「中国からです」とか「韓国からです」と答
えることはできるだろう。でも外国に旅行に行ってそのよ
うなことはしない。日本人であることの方が「嘘をつく」
よりもましであると感じるからだ。外国人から見れば中国
人や韓国人と日本人の見分けなど付かないことはわかって
いる。
へえ、東アジア人同士でも顔を見ただけでは、どこの国の
人なのか分からないのね、と言った。当たり前じゃないの、
と言って道子は笑った。顔を見ただけで、ドイツ人とオラ
ンダ人の区別がつくかしら。当たり前じゃないか、と言っ
て、セオンリョンも笑った。東アジア人はみんな同じ顔を
しているんだよ。
(11ページ)
しかし道子と同居している弟の和男はそうではないという。
日本人と韓国人は一目見ただけで大抵区別がつくと言うの
だった。だって、顔が違うじゃないかと、言うのだった。
(12ページ)
道子は和男の言葉に「何か」が混じっているのを知ってい
る。道子は東アジア人の中の日本人という、きわめてあや
ふやな概念の中で生活をしている。ドイツという異国の地で。
レストランで和男と道子が食事をする場面がある。私も同
じ経験をしたが、店員さんがなかなか来ない。メニューを
取りに来ないし、何か頼もうとしてもこない。それは労働
習慣によるところが大きいのだが、和男は怒ってこう言う。
外人だと思って馬鹿にしているんだろう、と和男はつぶや
いた。そんなことないわよ、と道子は今度は笑わずに言っ
た。ベトナムの難民なんかといっしょにしやがって、と和
男がつぶやいた。和男は<ベトナムの難民>という言葉をあ
る感情を込めて発音した。その響きが道子の心を暗くした。
憎しみや軽蔑と呼んでしまっては簡単すぎる何か下の方へ
引きずっていこうとする嫌な響きが和男の声に混ざってい
たのだった。
(23~24ページ)
道子はその何かが、日本人である自分にも向けられている
ことを知っているのである。彼女はそれを自ら確かめるべ
く、普段はあまり近づかないある地区に足を踏み入れる。
そこは難民の収容施設がある地区であった。彼女は自分の
仮面を、自分が図らずも被らされているのと同時に、無意
識に被っている仮面を確かめに行ったのではなかったか。
韓国人かい、とその男が尋ねた。気がつくと、いくつもの
顔が道子を取り囲んで答えを待っているのだった。タイ人
かも知れない、という声がした。いや、フィリピンだろう、
という声がした。
違いますよ日本人ですよ、と道子は仕方なく答えた。ああ
トヨタか、と言って最初の男が艶めかしく笑った。道子は
からだの向きをもとにもどして歩き始めた。私はトヨタな
んかじゃない、と思ったとたん自分のからだが小さな自動
車になってしまったような気がした。
(39~40ページ)
道子がトヨタなんかじゃないと否定した瞬間、道子は別の
仮面が必要であった。この地では仮面が必要なのだ。
この作品の「何か」は差別意識とは別のものである。しか
しそれは明らかに邪悪なものである。そして道子は息苦し
さを感じる。それが何なのか分からないが故に。
私も何か分からない。それは道子が感じたように下に引き
ずり込もうとする力である。言い換えれば自分が上に立つ
ための力ではないだろうか。それはすべての人間に宿って
いる力であると道子は知っているのである。
多和田さんは独特の文体を持っている。主語が必ずはっき
りと描いてあり、日本人作家の多くの作品で見られるよう
な、主語を省略するようなところがない。だから読んでい
ると翻訳された外国人の作品のようにも感じる。また、同
じ述語を繰り返して表現するところも独特である。
私は詳しくないのだが、略することが多い典型的な日本語
よりも、多和田さんの文体の方が翻訳には適しているのか
も知れない。主語と述語がとてもはっきりしているのである。
新潮の最新号にも彼女の作品が掲載されている。これから
読むところだが、とても楽しみにしている。
犬婿入り (講談社文庫)/多和田 葉子
¥410
Amazon.co.jp