「あれはその、あなたがあんまりこっちをじっと見ている
もんだから」

新潮文庫 筒井康隆『メタモルフォセス群島』より
『走る取的』92ページ


私はけっこう筒井康隆さんが好きなのだが、なぜかこの作
品の印象が強烈に残っており、筒井康隆さんの作品中で一
つ選べといわれると、もちろん相当悩むだろうが、この作
品を選んでしまうだろう。

取的という言葉はあまり使われないが、いわば褌かつぎと
呼ばれる、「最下級の力士の俗称」(新明解国語辞典)で
ある。俗称というよりは多分に蔑称的な意味合いを含む。

この作品で私はお相撲さんは半端じゃなく強い、どんな格
闘家も本気になった力士を前には赤子と化すということを
知った。本当かわからないが、私はそれを固く信じた。

「だけどおれの先輩が、いちど褌かつぎと喧嘩しているん
だ。半殺しに目に会わされたそうだ。今でも左腕が不自由
なままだ」
「先輩って、どこの先輩だい」おれは亀井の顔をのぞきこ
んだ。「まさか、空手部の先輩じゃないだろうな」
「空手部の先輩だ」と、亀井はいった。「空手四段だった」
「本当か」おれはびっくりした。「相撲とりって、そんな
に強いのか」
「からだの鍛えかたが違うんだそうだ」亀井は息をはずま
せていた。「奴らにとっちゃ、だいたい空手なんてものは、
ほんのちょいとした小手先の技術にしか過ぎないんだそうだ」
(74~75ページ)


「おれ」と亀井は二人でバーでお酒を飲んでいたときに、
相撲とりを軽視するような発言をしてしまう。本当は別に
相撲とりを馬鹿にしたわけではない。そもそもの発端とな
った発言は、

最近肥りはじめているよ。相撲とりみたいになっている

という、席にいない友人を揶揄する言葉だった。しかしそ
のバーの止まり木の隅に、幕下力士が一人座っていたのだ
った。

ここからいこうこの作品はアメリカン・カーチェイスさな
がらの展開となる。言葉のブログであるのに申し訳ないの
だが、言葉云々の問題でなくなってしまう。その取的が、
ものすごい勢いと執念で二人を追いつめるのである。

二人は走って夜の街を逃げるのだが、いくら逃げても取的
から逃れることが出来ないのである。二人は高級会員制の
クラブ(昭和の香りがする呼び名である)に逃げ込む。力
士はそこには入って来られない。二時間ほどして、もうい
ないだろうと思うと、取的は外で二人が出てくるところを
待っているのである。

あの取的は、恐怖で常識を失うほど取り乱した今のおれに
とって、もはや人間ではなかった。化けものだった。どん
なに遠くからでもおれたちの居場所を知ることができるけ
ものじみた嗅覚か、あるいは非人間的な超感覚、異常知覚
を持っているえたいの知れない変な生きものであった。し
かも彼は時間を超越してまでおれたちを追ってくるのだ。
(83ページ)


二人の恐怖は頂点に達する。もはや絶望感にも近い。ここ
で、取的とは何を表しているのか考える。私はそう読んで
しまうものだから、筒井先生が象徴文学を志向していない
と思っていても、この力士は私にとってどんな存在なのか
考えるのである。

私は頻繁に「蜂」に追われる夢を見る。私は「アブ」に刺
されたことはあるが、蜂に刺されたことはない。小学生の
頃、ミツバチに刺された友人が痛がるところを見たことが
あり、そのせいか蜂が怖いのである。夢の中で私はいつも
逃げている。「クマバチ」とか「スズメバチ」の類のやた
ら大きい蜂が私の頭上に押し寄せる、それはそれは怖い夢
である。たいてい絶叫して夢が終わる。夜中に目が覚める。

私にとって、蜂は追うものであり、私は追われる立場にな
る。現実の日常がどうなっているのかはわからないが、私
は追いかけてくる何かに対抗するため、戦うことをせず、
逃げるのである。そして、夢の中では逃げ切れた試しがない。

「取的」とは決して許されることのない私に向けられた怒
りであり、決して逃げ切ることのできない恐怖である。

「おれたちはあいつに、一度もあやまろうとしなかったじ
ゃないか」おれはそういった。「あやまろう。あいつのと
ころへ行って許しを乞うんだ」
(90ページ)


このあと二人がどうなったかは、ご自分の目でお確かめい
ただきたい。

最近私を追ってくるのは「蜂」だけではなくなった。もっ
と現実的なものに追われている。もちろん夢の中の話であ
る。何かに追われる夢というのは、数ある夢のパターンの
中でも非常にポピュラーなものであるらしい。

この作品の魅力は、鈍重なイメージの力士が猛スピードで
追ってくるコミカルさにある。と同時にホラー並みの恐怖
を感じさせる舞台装置のおもしろさにある。話の展開が進
むにつれて徐々にスピード感を増してくるように意図され
た表現がなされていて、文章表現のテクニックも堪能できる。

この『メタモルフォセス群島』の作品はすべて、筒井ワー
ルドが炸裂した最高におもしろい作品集である。表現が拙
くて申し訳ないが、筒井先生のコミカルさは常に「マジで
笑えないコミカル」さであり、それが先生の作品の特徴と
いえないだろうかと思う。

メタモルフォセス群島 (新潮文庫 つ 4-12)/筒井 康隆

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