前回のブログ『球磨の少年が発見していた有肩打製石斧・鯨の骨・免田式土器の写真と さらに「丹」の神様』より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12549322334.html

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂いた皆様方に心より感謝申し上げます。

 

ブログを開始して、今回が200投稿目となりました。

当初は、6年前から利用させて頂いているスレッドの資料用として、古文書や風景等の写真が主のブログ内容だったのですが、後に1年半程前からブログからの発信を主体とするように変えました。

私がここまで来れたのは、スレッド時代から応援して下さっている沢山の方々、ブログで私の発信をお知りになられて、応援頂いている沢山の方々のお陰です。

ありがとうございます。

これからも、勉強を重ね、先祖について、古代についてを探求して参ります。

皆様、今後ともよろしくお願い致します <m(__)m>

 

200投稿目のタイトル『千早振る神の残せし姿 極意秘密』の意味ですが

過去ブログ『松野連系図と千早振る神々の時代の球磨と帆船』の中でご紹介した

3.千早振る神の時代と平河氏 で江戸時代の「平河氏」が書かれた極月中旬寒舞から引用致しました。

松野連系図と千早振る神々の時代の球磨と帆船

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12447362204.html

平河氏某が江戸時代『南藤蔓綿録』並びに『嗣誠独集覧』の編纂者 梅山 無一軒宛てに書いた極月中旬寒舞。 その中の無我の本我にあった二首

我ながら我もおかしく千早振る神の残せし姿とおもへば

草も木も国土もさらになかりけり極意秘密も猶なかりけり

 

江戸時代の『平河氏』は自らを千早振る神の残せし姿と知り、尚且つ、この球磨の地に

極意秘密が存在していた事を理解されていたのだと私は考えます。

さらに、その極意秘密を知っていたのは平河氏だけではなく、橘姓「宮原氏」も、もちろん相良氏も知っていたのだと私は、確信致しました。

私の祖母の実家は『平川氏(江戸時代中期までは平河)』そして私の家は橘姓宮原一族の『宮原氏』 つまり、私は極意秘密が隠されたパンドラの箱を内側から開けようとしているのだと思います。

その事に気が付いたきっかけを含めた内容を、記念すべき200投稿目さらに次項の201投稿ブログに書かせて頂きます。

最初に一言・・

縄文時代早期からの日本の古代が理解出来ない限り、弥生時代の極意秘密は決して解けない・・・痛感しています。

 

①水銀鉱床群上にお祀りの神々様

丹生川上神社様の御祭神と黒原山あまひき嶽雨引神社様の御祭神は同じ神々様

 

丹生川上神社 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%9F%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E7%A5%9E%E7%A4%BE

丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)は、奈良県吉野郡東吉野村にある神社。

古くは「雨師明神」と称され、江戸時代からは「蟻通明神」とも称された。

祭神
現在の祭神は以下の通り。本殿と東殿・西殿の3殿を中心として、各殿に神々を祀る。
本殿:罔象女神
相殿に伊邪奈岐命・伊邪奈美命
東殿:大日孁貴命・八意思兼命・誉田別命
西殿:開化天皇・上筒男神・大国主命・事代主命・綿津見神・菅原道真公

 

六国史では、「丹生川(河)上神」と地名を以て記され、具体的な神名を表すものはないが、古来朝野の祈止雨祈願がしばしば行われ、雨を司る水神であったので、これを記紀神話に見える罔象女神(みずはのめのかみ)や龗神(おかみのかみ)に充てるようになった。

また平安時代初め頃から「雨師神」とも称されるようになったが、雨師とは風伯と並ぶ古代中国の雨乞いの神なので、これは唐風文化への傾倒による神名であることは明らかである。

また、祈雨祈願の際には黒馬が、止雨の時には白馬(または青馬)が奉献される例であったが、これは馬を水神乃至はそれと密接な動物と見る観念に基づくものであり、また馬の色は、雨雲と黒、晴天と白という観念連合に基づく類感呪術であろう。
現在の祭神は、大正11年(1922年)にそれまでの「大穴貴神・表筒男命・伊邪奈伎命」を変更したものである。

 

★記紀神話に見える罔象女神(みずはのめのかみ)や龗神(おかみのかみ)に充てるようになった。

 

龗神(おかみのかみ) 淤加美神 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%A4%E5%8A%A0%E7%BE%8E%E7%A5%9E

淤加美神(おかみのかみ)、または龗神(おかみのかみ、Okami 10.5pt.png神)は、日本神話に登場する神である。

日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとしている。

『古事記』及び『日本書紀』の一書では、剣の柄に溜つた血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ、『日本書紀』の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしている。

系譜
『古事記』においては、淤迦美神の娘に日河比売(ひかはひめ)がおり、須佐之男命の孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売との間に
深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)が生まれ、この神の3世孫が大国主神であるとしている。
原義

龗(おかみ。右のウィクショナリーも参照)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていた。

※ 補足 深淵之水夜礼花神 ブログ『孝霊天皇様の妹君「雨宮媛」と雨宮神社様・・と夏目友人帳https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12489690058.htmlでも書きましたが

深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)
私の曾祖母(平川家の)実家は
深水家なのですが、深水のおじから聞いたのは

『深水とは深い淵の水と言う意味だ』 と言うお話でした・・・

 

丹生川上神社様の御祭神

罔象女神(みずはのめのかみ) 龗神(おかみのかみ)

龗(おかみ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていた。

 

私の地元 九州南部水銀鉱床群内にある黒原山(くろばるやま)の頂上付近

『あまひき嶽』に御鎮座の「雨引明神」

ブログ『旧宮原村古地図と岡原村の神社様』等で何度もご紹介致しております。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12413388345.html

 

★社家傳云 垂跡神三所
御祭神 雨引明神 山王権現 八大龍王
傳云雨引明神ハ罔象女命ミツハメノミコト

 

さらに八大龍王様は空海様と深いご縁のある神様でもいらっしゃいました。

ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%A4%A7%E7%AB%9C%E7%8E%8B

娑伽羅(サーガラ、しゃがら - सागर Sāgara)
訳:大海。龍宮の王。大海龍王。「沙掲羅」、「沙羯羅」などとも漢語に音訳された。法華経・提婆達多品に登場する八歳の龍女はこの龍王の第三王女で「善女(如)龍王」と呼ばれた。

空海が新しく名付けることとなった清瀧権現も唐からついて来たこの娑伽羅龍王の同じ娘の事である。

 

日本にわずか4か所しかない水銀鉱床群のうち

大和水銀鉱床群(伊勢地方を含む)と九州南部水銀鉱床群上の神社様に

罔象女神様 龍王様はお祀りである

と言う事がしっかりと理解出来ました。

 

さらに、忘れてはいけない事を思い出しました(p_-)

丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)は、奈良県吉野郡東吉野村に御鎮座 そして・・・

丹生川上神社の上社は「丹生川上神社上社」(にうかわかみじんじゃかみしゃ)

ご鎮座地は奈良県吉野郡川上村迫

つまり!過去ブログ全国的にも珍しい球磨の植物や蝶ちょさんでご紹介した

ゴイシツバメシジミの生息地です!!

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12347579763.html

1973年に市房山で日本では初めて発見された「ゴイシツバメシジミ」 

日本で一番数の少ない蝶
※生息地は球磨郡(市房山・白髪岳等の山間部で毎年確認される)・宮崎県(小林市※白髪岳の宮崎県側)・奈良県吉野郡川上村のみ。

日本で最初に発見された九州以外では奈良県吉野郡川上村の標高300~450メートルの植林作業が困難なために残されたと思われる渓谷の狭い原生林に限られる。

私は現在の生息状況から、球磨から人と共に「ゴイシツバメシジミ」 の卵が奈良県吉野郡川上村に移動した・・・と、ど素人ながら推測致します。

ブログ『全国的にも珍しい球磨の植物や蝶ちょさん』を書いた時にはこのような形、つまり水銀鉱床群の繋がりで球磨と奈良県吉野郡川上村が線で結ばれるとは夢にも思っていませんでした。 非常に驚いています!

画像 ゴイシツバメシジミ ウィキペディアより

Shijimia moorei ventral view 20150529.jpg

 

 

黒原山と龍神様・・・ひとつ気になる事があります。

黒原山を望む場所に建立されている、家の宮原家や親戚がお世話になっているお寺様の

山号なのですが

 

紫龍山

紫の龍 とは どう言う意味なのだろう・・・??

頻繁にお伺いするお寺様なのに・・今更ながら 気が付いてしまいました・・・

 

ところで!

丹生川上神社様 ウィキペディアの記述には、非常に気になる「言葉」が含まれていました。

※平安時代初め頃から「雨師神」とも称されるようになったが、雨師とは風伯と並ぶ古代中国の雨乞いの神・・・

 

雨師と風伯 私はすでに過去ブログで書かせて頂いております!

旧岡原村の儀式 嬰子に手箕をかぶせ、弓に麻殻の矢をつがえて、嬰子の男女の性別を聞いてから短い言葉を唱えて(唱え言葉を失念)手箕を射た。

から気が付いた一連の流れは以下のブログでお解り頂けます。

シュメール起源 いて座のアルナスルと古代の麻可胡矢と岡原村

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12438649379.html

スメル語で武具「クメ」とシュメールの風と嵐(雨をもたらす)神、さらに球磨の「アモリ」について

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12440043577.html

「キ」とバビロンと黄道帯・獣帯と「面田」等さらに気が付いた事

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12440839049.html

球磨と「アモリ」と「呉人」と「風神族」

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12442157354.html

 

※後漢の応劭『風俗通義』祀典篇に「風師者箕星也。箕主簸揚、能致風気」とあり、周代に風伯(箕宿)と雨師(畢宿)を祭る祭典があったとされる。

周・・つまり「姫(き)姓」の「国王」国家

※伝承より
原初の天空神(=アヌ)から農耕に不可欠な雨をもたらす「嵐」と「風」の神(=エンリル)

※姫(き)姓と風伯(箕宿)風の神と雨師(畢宿)雨の神エンリル

 

ただし・・私はすでに気が付いています。

熊本県球磨郡あさぎり町深田(旧深田村)字灰塚の灰塚遺跡から出土した耳栓は
鹿児島県国分市上野原遺跡(現霧島市)と福山町城ケ尾遺跡(現霧島市)と並ぶ
日本最古のベンガラ彩色を用いた耳栓であった!

時代は縄文時代早期(約1万2,000 - 7,000年前) 

シュメール文明 シュメール都市文明の成立

ウバイド期に続く次の時期をウルク期(紀元前3500年-紀元前3100年)と呼び、この時期は都市文明の開始期である。都市文明の担い手はシュメール人だった。

球磨・霧島市周辺の超古代遺跡、日本最古のベンガラを使用する人達が住んでいた時代の方がシュメール文明より、より遥かに古い・・と言う事です。

 

②日本最古のベンガラを使用する球磨や霧島周辺の縄文人とは?

 

ブログ『古代からの井処(いどころ)球磨と繋がる方々』で書いたように

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12543056818.html

ベンガラ 世界最古と言えば
フランス南西部のラスコー洞窟やスペイン北部のアルタミラ洞窟での赤色壁画は、
約 17000 年前(後期旧石器時代)に作られたもの

この事から考えてみても、
『灰塚遺跡』・『上野原遺跡』・『城ケ尾遺跡』 球磨・霧島市周辺 南九州の超古代遺跡 時代は縄文時代 早期(約1万2,000 - 7,000年前) から発見された日本最古のベンガラ彩色 耳栓がいかに重要な出土品であるのか! 

 

ラスコー洞窟 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BC%E6%B4%9E%E7%AA%9F

ラスコー洞窟(ラスコーどうくつ、仏: Grotte de Lascaux)は、フランスの西南部ドルドーニュ県、ヴェゼール渓谷のモンティニャック村の南東の丘の上に位置する洞窟である。先史時代(オーリニャック文化)の洞窟壁画で有名である。

洞窟の側面と天井面(つまり洞窟の上半部一帯)には、数百の馬・山羊・羊・野牛・鹿・かもしか・人間・幾何学模様の彩画、刻線画、顔料を吹き付けて刻印した人間の手形が500点もあった。これらは20,000年前の後期旧石器時代のクロマニョン人によって描かれていた。

画像 ウィキペディアより

 

かなり遠い時代の話ですが、ここが理解出来ていないと、日本の弥生時代の謎は解けないと考えて(p_-) さらに勉強致しました。

 

クロマニョン人 ウィキペディアより 抜粋

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A7%E3%83%B3%E4%BA%BA

 

現在ではクロマニョン人を、現世人類と合わせて解剖学的現代人と呼ぶことがある。またネアンデルタール人を、従来の日本語では旧人と呼ぶのに対しクロマニョン人に代表される現代型ホモ・サピエンスを、従来の日本語では新人と呼ぶこともある。

後期旧石器時代に属し、約4万 - 1万年前のものと考えられる。

身体的特徴
骨格が頑丈で多くの点で現代人と似ている。コーカソイドの直接の祖先である可能性が高い。

参照 コーカソイド ウィキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%BD%E3%82%A4%E3%83%89

コーカソイド (Caucasoid)とは、身体的特徴に基づく歴史的人種分類概念の一つである。これに分類される人々の主要な居住地はヨーロッパ、西アジア、北アフリカ、西北インドである。


180センチメートル前後の長身、頭が大きく、直顎で、頤がみられる。歯は小さい。旧人のような眼窩上隆起や額の後退はみられず、乳様突起が発達している。きわめて現代人に似ていたが、筋骨は強壮であったと思われる。

※180センチメートル前後の長身

余談ですが・・・

叔父(私の父の弟)180㎝ 子供達(私の従弟)は長男196㎝ 次男191㎝ 三男186㎝

叔父の一家だけでなく、家の親戚には身長180㎝以上の人が数え切れない程います(*_*)
父は高身長の親戚を指して『親戚の巨人』達 と呼んでいます<m(__)m>
(進撃の巨人 ⇔ 親戚の巨人  トホホ<m(__)m> )
余談でした <m(__)m>

 

クロマニョン人 遺伝子
2003年のクロマニョン人の遺伝子調査ではハプログループ
N (mtDNA)(ともに子系統を含む)が確認された。

2015年の遺伝子調査では、13,000年前のスイスのクロマニョン人がハプログループI2a (Y染色体)、ハプログループU5b1h (mtDNA) に属すことがわかった。
また、旧石器時代のチェコ(30,000年前)、ベルギー(35,000年前)、 ロシア西部ヴラジーミル州スンギール遺跡(約34,000年前)の人骨は
ハプログループC1a2 (Y染色体)に属していた。
これによりクロマニョン人は現在のヨーロッパ人の祖先の一部であることが明らかになった。
ヨーロッパ進出の第一波はハプログループC1a2、第二波はハプログループIと考えられる。

 

ハプログループC1a2 (Y染色体) 勉強致しました(p_-) ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97C1a2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)

 

ウィキペディアの記述で最も興味を持ったのは

ハプログループC1a2 日本固有のハプログループC-M8 (Y染色体)とは姉妹群に当たる。

ヨーロッパ等にごく低頻度に分布する。

この部分です(p_-)

 

日本固有のハプログループC-M8 (Y染色体)とは ウィキペディアで勉強致しました(p_-)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97C1a1_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)

ハプログループC-M8 (Y染色体) 名称ハプログループC1a1

※日本列島ではおおむね5%の頻度で発見

※他には韓国の済州島で1人、中国遼寧省と韓国ソウル出身者にそれぞれ1人ずつ確認

最も近縁なハプログループであるC1a2との最も近い共通祖先はおおよそ四、五万年前にさかのぼると推定されているが、(現段階の研究で把握されている限りでは)現存するものの拡散は約12,000年前と推定される。現存する下位系統の最も近い共通祖先は日本列島で誕生したとも考えられるが、詳細は今後の研究が待たれる。

※ハプログループC1a1(M8)は日本列島固有であり、最も近縁なC1a2(V20)は、旧石器時代のチェコ、約7000年前の中石器時代のスペイン北西部および同じ頃の新石器時代のハンガリー、そして少数の現代ヨーロッパ人、カビル人、アルメニア人、ネパール人から検出

※もう少し遡ると、インドやアラビアなどに散見されるC1b1(M356)、インドネシア東部からメラネシアおよびポリネシア、オーストラリアの先住民アボリジニに多く見られるC1b3(B477)との共通祖先C1にたどり着く。

※崎谷満はC1a1の祖型はイラン付近からアルタイ山脈付近を経由し朝鮮半島経由で日本に到達したとしている。その渡来年代は定かでないが、現存系統の拡散開始は約12,000年前であり、縄文時代の開始とほぼ一致している。すなわちハプログループC1a1は日本に縄文文化をもたらした集団かもしれない。  以上ウィキペディアより抜粋

 

画像 ウィキペディアより

★ハプログループC1a1は日本に縄文文化をもたらした集団かもしれない。

C1a1の祖型はイラン付近からアルタイ山脈付近を経由

やはりアルタイ山脈か・・・・

 

アルタイ山脈を使用経由したと推測されている日本固有のDNAと言えば

ハプログループD1a2 (Y染色体)

ウィキペディアより抜粋

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D1a2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93) 

※3万年ほど前に日本列島で誕生したと考えられ、現在日本人の3割ないし4割がこのハプログループに属している。

※ハプログループD1は、ハプログループCFとともに、ホモ・サピエンスとしては初めて紅海を渡ってアフリカ大陸を脱出した。アラビア半島の南端から海岸沿いに東北に進みイラン付近に至った。さらにイラン付近からアルタイ山脈付近に北上したと推定される。

※ハプログループD1のうち、東進して日本列島に至り誕生したのがハプログループD1a2であり、アルタイ-チベット付近にとどまったグループから誕生した系統がチベット人に高頻度のハプログループD1a1である。

★二つの説

※約3万年前に北方オホーツクルートで北海道に到着し、日本列島でD1a2が誕生した

※崎谷満はハプログループD1が華北を経由し九州北部に到達し、日本列島でD1a2が誕生したとしている

 

中国大陸から弥生人が日本列島にやってくるまでの約3万5,000年間に、日本列島においてハプログループD1aの中からハプログループD1a2が誕生したと考えられる。彼らは縄文人として、彫りの深い顔、濃い髭、二重まぶたの特徴を持ち、主に浅瀬で漁をして生活をし、のちにはO系統などの弥生人と融合し、陸稲を栽培していたと考えられる。

 

O系統などの弥生人と融合

ブログ『③球磨のモン・クメール系倭人と久米をDNA解析に至るまで検証 祖父母の行動を探る その2』で書いた長江文明呉系遺伝子と考えられるY-DNA「O2b」の方々ですね!!!

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12510435037.html

 

クロマニョン人(現在のヨーロッパ人の祖先の一部)を祖とする日本固有のハプログループC-M8 (Y染色体) 系統名称ハプログループC1a1

さらに日本固有のハプログループD1a2 (Y染色体)

共に移動経路は

イラン付近からアルタイ山脈付近に北上

 

アルタイ山脈 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%A4%E5%B1%B1%E8%84%88

アルタイ山脈(アルタイさんみゃく)は西シベリアとモンゴルにまたがる山脈。漢字で阿爾泰山脈とも モンゴル語で「金の山」を意味する 

周辺の住民
シベリア側はロシア人・カザフ人などが農牧を営み、モンゴル側には遊牧のキルギス人が住む。
産出鉱物
かつては金・銀・銅などを産した。

 

キルギス人 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%82%B9%E4%BA%BA

キルギス人(Кыргыз、Kyrgyz)は、主にキルギス共和国を中心として中央アジアに分布するテュルク系民族

 

日本固有のハプログループC-M8 (Y染色体) 系統名称ハプログループC1a1
さらに日本固有のハプログループD1a2 (Y染色体)

経由地のアルタイ山脈モンゴル側にはテュルク系民族の方々

ようやく・・・弥生時代の極意秘密の原型が見えて参りました!

 

※C1a1の祖型はイラン付近からアルタイ山脈付近を経由

イランの歴史 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

イラン高原には極めて古い時代から人類の活動があったことがわかっている。考古学的には約10万年前の旧石器時代中期以降の遺跡が確認されている。
この地域における定住は約1万8千年前から約1万4千年前頃に始まったと考えられている。

イラン高原の気候の変化に伴って、こうした人々の居住地は移動し、やがて大規模な集落も形成されるようになった。この地域は麦を中心とした農耕が最も早く始まった地域の1つであるといわれている。紀元前6000年ころには、かなり高度な農耕社会を形成しており、都市の原型となる集住地も確認される。ザーグロス山中で発掘された紀元前5000年頃のワインの瓶(現在はペンシルベニア大学博物館で展示)が知られている。

 

日本に到達した縄文人の方々はかなり高度な文明を持った地域を経由して来られたのだ・・

非常に驚きました・・!!

 

③縄文時代の日本国内外への脱出

日本最古のベンガラを使用する球磨や霧島周辺の縄文人

最近のブログで書いているように、この方々の一部は火山の影響を免れる為に事前に脱出されている・・と私は考えています。

その火山とは・・海底火山 鬼界カルデラ です。

ウィキペディアの 破局噴火の記述を読むと解ります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%B4%E5%B1%80%E5%99%B4%E7%81%AB

7300年前に鹿児島県南方沖の海底火山(鬼界カルデラ)で起きた巨大噴火が、当時の南九州で栄えていた縄文文化を壊滅させたことは、考古学上よく知られている。

東北地方や朝鮮半島でも赤橙色を帯びた“アカホヤ”と呼ばれる火山砕屑物が見つかっており、極めて規模の大きな破局噴火であったとされる。火砕流は半径100kmの範囲に広がり、大分県でも50cmもの厚みのある火山灰層が観察される。

現在の喜界島周辺域で起こった巨大噴火が古代の南九州で栄えていた縄文文化を壊滅させた。 ウィキペディアより

 

この巨大噴火が起きる前に、必ず前兆はあったはずです。その前兆に日本最古のベンガラを使用する高度な知識を持った方々が気付かないはずはない・・!

日本最古のベンガラを使用する高度な知識を持った方々 私はこの方々を

クロマニョン人(現在のヨーロッパ人の祖先の一部)を祖とする日本固有のハプログループC-M8 (Y染色体) 系統名称ハプログループC1a1 の系統の方々ではないのか!?

(現存系統の拡散開始は約12,000年前)と考えました。

もちろん、球磨には3万年前の遺跡も見つかっていますので、日本固有のハプログループD1a2 (Y染色体)の方々もいらっしゃったはずです!

ハプログループC-M8 (Y染色体) 系統名称ハプログループC1a1 の系統とD1a2 (Y染色体)の方々はすでに当時融合されていらっしゃったのでは・・? もちろんお互いのミトコンドリアXつまり女性を介して・・・

 

鬼界カルデラの巨大噴火は、古代の南九州で栄えていた縄文文化を壊滅させた、しかし脱出していた人達がいたのであれば、その人達は海を渡って縁故の「地」を頼りに先祖の記憶を頼りに「西」に戻って行った可能性もありうるのではないか・・・

その地で新たな文明を起こし、その後「約束の地」 遠い海を越えた「日本」に後の時代に戻って来られた可能性もありうるのではないか・・・

 

シュメール ウィキペディアより 気になる箇所を抜粋致します。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB

 

シュメール人は自らを「ウンサンギガ」「黒頭の民」の意)と呼び、その土地を「キエンギ」(「君主たちの地」の意)と呼んでいた。

「シュメール」という用語はアッカド人により用いられた異称で、このことはアッカドやその北東のスバル人(英語版)へと知覚された関係を示す。

シュメールの言語、文化、また、おそらくは外見も周囲のセム系の民族とは異なっていた。

しかしシュメールの男子像を見る限り、大きく彫りの深い目、高い鼻、巻き毛で髭が多いなどセム系と変わりないような容貌をした像もあり、民族系統は未だ謎である。

アッカド王朝以前の遺跡に見られるシュメール人の容貌は剃髪した彫りの浅い髭のない傾向が多く見られ、アッカド人とは書き分けられているようである。

創世記では洪水後シナル(シュメール地方)に住み着いたのは「東からやってきた人々」とされており、言語的また容貌的観点からモンゴロイドである可能性もある。シュメール人は広範に征服民か移住民であると信じられている。しかしそのような移住がいつ行われたのか、またシュメール人の地理的な起源がどこなのかを正確に決定することは難しい。

 

★「東からやってきた人々」

★「約束の地 に戻った人々・・・」

 

ブログ『③球磨のモン・クメール系倭人と久米をDNA解析に至るまで検証 祖父母の行動を探る その2』 より

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12510435037.html

縄文時代晩期 球磨に来られた方々・・倭人派 ・・・前インド モン・クメール族

※宇宙世界の基軸を意味する須弥山(メール山)
須弥山(メール山)・・梵語ではスメール

ブログを書いた当時、モン族・クメール を少しだけ勉強しただけで、モン族・クメール 共に

シュメールとの繋がりが濃厚のように私は感じました・・・

クメール族は彼らの王朝の起源を、初代の王とネアク(ナーガ)族の王の娘との結婚にもとめている。

融合 お互いのミトコンドリアXつまり女性を介して・・・

 

ナーガ ウィキペディアより抜粋

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%82%AC

釈迦が悟りを開く時に守護したとされ、仏教に竜王として取り入れられて以来、仏法の守護神となっている。特に法華経の会座に列した八大竜王は有名で、その多くがもとはインド神話でも有名なナーガの王(ナーガラージャ Nāga Raja)であった。

 

八大竜王

今回のブログの最初のお話に戻りましたね・・・

九州南部水銀鉱床群内にある黒原山(くろばるやま)の頂上付近『あまひき嶽』に御鎮座の「雨引明神」

★社家傳云 垂跡神三所
御祭神 雨引明神 山王権現 八大龍王
傳云雨引明神ハ罔象女命ミツハメノミコト

 

縄文時代早期の日本最古のベンガラを使用された方々を検証したら・・結果 地元に御鎮座の神社様の神様に繋がって参りました・・

今回のブログで書かせて頂いた事は、全て弥生時代の極意秘密へと繋がっている

私はそう確信しています。

長い文章となりましたが、最後までお読み頂き、ありがとうございました。

次回『No201 多良木町出身の東宮内舎人の御方 郷土の名、山河をけがさないようにと念じられて』に続きます。