前回のブログ『番外編 暑い秋と最近の私』 より続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12535571732.html
前回のブログも沢山の方々に御覧頂けた事を心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
はじめに
沖縄の首里城の火災。
テレビの映像を見て、沖縄の方々の悲痛な叫びが聞こえてくるようで愕然となりました・・・
首里城焼失の直後で、沖縄の方々は深い悲しみに包まれていらっしゃると思います。
心よりお見舞い申し上げます。
首里城の復元は沖縄の方々、そして日本国中の希望であり、必ず明るい未来が見えて来ると信じています。
11月に入り、球磨郡は深い朝霧の季節となりました。
キュウリの収穫は、深い霧の時間から始まります。
深い霧から徐々にお日様が見えるようになると心がホットします。
外の仕事をして、日光のありがたさを感じる事も出来るようになりました(^'^)
日光のありがたさを感じただけでなく・・・実は、今回のタイトルのきっかけとなった事にも気が付きました(p_-)
キュウリの収穫を行った場所は、江戸時代までは湧水地で、沼地だった場所だったのです。
埋立をされてはいますが、今でも地下水が理由で水引が悪い地でもあります。
しかし、キュウリの収穫には持ってこい!の場所で、他のハウスではトマトを栽培されているお家も数軒・・・
さらに、この地は地下水のお陰か・・・私の家からは500mも離れていない、山の麓なのですが気温はこちらの方が明らかに家の周囲より暖かいのです(p_-)
タイトルのきっかけとなった「気が付いた事」は次回詳しく書かせて頂きます(p_-)
その前に・・・
前々回のブログ『速報(追記あり) 多良木町で発見された「豊臣秀吉の文書」から見えた!先祖の移動』https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12527654064.html の補足を
今回書かせて頂こうと思いました。 <m(__)m>
(もちろん、前々回のブログの続きは次回以降ちゃんと書かせて頂きます)
断絶したと考えられていた
宗像大宮司家子孫の方が宗像姓をつないでいた球磨郡多良木町。
この事が判明した事を読まれて、皆様方はどうお考えになられましたか?
私は、おそらく・・・
何故?球磨郡多良木町に!?
と思われた方々が大多数でいらしたと思います。
確かにそうですね(p_-) 世界遺産宗像大社は球磨郡とは凄く離れていますね(p_-)
さらに、宗像と言えば「海」。球磨郡と言えば標高1000m級の山々に囲まれた「盆地」。
現代の感覚だけでは、イメージが全く異なる事でしょう・・・
しかし・・・球磨と宗像氏(宗形氏)との繋がりは大宮司宗像氏貞、この方よりもっと以前からもあったのです。
鎌倉時代初頭、相良家当主「相良長頼」球磨入部の際の随行者の中にも宗像氏(宗形氏)がいらっしゃったのです。
嘉永六年(1853年)に編纂された人吉藩史『求麻外史』にこの事が詳しく記載されています。
私は 新訳 求麻外史 という書籍を所有しているのですが、国立国会図書館デジタルコレクションでも閲覧可能ですので、ご紹介致します。
新訳 求麻外史 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959084/2
相良家当主「相良長頼」球磨入部の際の随行者の記録はコマ番号25に記されています。
拡大してご覧になられる事をお勧め致します。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959084/25
小さいですが該当ページの画像
宗像氏の記述
赤い横ラインを引いた箇所にきされています。
非常に興味を持ったのは以下の記述でした。
宗像(むなかた)
其の散楽を善くするを以て公(相良長頼)之を召して宦へしむ。
中略・・・
兵衛大夫(宗像氏)本藩に来りて藍田に家す。
公、世々寶蔵する所の 白髭の仮面 及び散楽器を以て悉く其の家に蔵す。
相良家に宝として代々伝わる
白髭の仮面
白髭と言えば・・山幸彦=ニギハヤヒ=五十猛命=猿田彦様 をイメージ致しました。
とても重要な記述だと私は考えます。
相良家に宝として代々伝わる 白髭の仮面
宗像大社 大宮司家 宗像氏
球磨
とても重要な繋がりが平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけてにおいても
『すでに見えていた』・・と言う事が解ります。
余談ですが・・・
実は上記の宗像家(宗形家)には、私の父の従姉の方が嫁がれています。
そして・・・
断絶したと考えられていた宗像大宮司家。宗像氏貞の子孫の方が宗像姓をつないでいた球磨郡多良木町。
鎌倉時代初頭に相良長頼公と共に球磨に入部していた「宗像氏」には相良家の
世々寶蔵する所の 白髭の仮面 及び散楽器を以て悉く其の家に蔵す。
過去ブログでも数回ご紹介させて頂いた通り、球磨には石器時代からの遺跡が多数。
さらに
日本最古のベンガラ彩色耳栓・・呉人が見た球磨人
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12465743160.html
で書かせて頂いたように、
球磨の『灰塚遺跡』
灰塚遺跡出土の耳栓に塗彩 されていたのはパイプ状ベンガラであることが判明した。
赤彩さ れた耳栓の類 例をあげる と鹿児島県国分市上野原遺跡 1)と福山町城ケ尾遺跡 2) しかなく、 南九州の縄文早期の特殊性と その広がり を示す好資料となった。
『灰塚遺跡』・『上野原遺跡』・『城ケ尾遺跡』 球磨・霧島市周辺で出土した耳栓は
日本最古のベンガラ彩色 耳栓!
補足
『灰塚遺跡』・『上野原遺跡』・『城ケ尾遺跡』 球磨・霧島市周辺 南九州の超古代遺跡
時代は縄文時代 早期(約1万2,000 - 7,000年前)
三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期末葉
前期(約7,000 - 5,500年前)、中期(約5,500 - 4,500年前)
石器時代以降、縄文時代早期にはすでに人の手のよって開拓されていたこの地には
その後「水稲稲作」の技術と共に新たな人々が到来されました。
常識を覆した球磨からの出土品 鳥が先か卵が先か・・
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12464570216.html
※球磨郡錦町の大原天子遺跡では、それまで縄文時代には
無いと考えられてきた 有肩打製石斧が出土
今から2,400年前の地層から発見された
有肩打製石斧
マレー半島部のタイを除くタイ全域、ベトナム、カンボジア、ラオス、中国南部の水稲農耕文化発生地域に広く分布
中国の長江(揚子江)南部杭州(こうしゅう)付近からも数例の出土品が報告されている・・・
※近年、西九州地方長崎県島原半島、熊本県南西部(球磨郡錦町大原天子遺跡)などで、縄文文化後期末ないし晩期の遺跡から長さ10センチメートル前後の硬質な岩石でつくられた片刃変形有肩石斧が発見されており、稲のわが国への長江南部地方からの伝来も、ほぼこの時期であることが最近明らかになった。有肩石斧の伝来経路と時期がこの問題の鍵(かぎ)を握るものと思われる。
さらに時代が下り、ブログ『④「菊と刀」と球磨郡(久米)とさらに三国志時代の中国と・・祖父母の行動を探る その3』で書いたように
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12523541750.html
有肩打製石斧の海外の出土地:マレー半島部のタイを除くタイ全域、ベトナム、カンボジア、ラオス、中国南部の水稲農耕文化発生地域。
ツクシガヤの生息地:長江流域の春秋戦国時代の呉国(国王姫姓)、三国時代の呉国(国王・孫氏)の領域辺りである。
球磨郡旧免田町(面田)、現あさぎり町免田の才園古墳から出土した「鎏金獣帯鏡」と
本目遺跡(1世紀~4世紀・・・西暦0年~300年代にかけての遺跡)から出土した
方格規矩神獣鏡(破鏡・ペンダントとして使用)
「鎏金獣帯鏡」は
三国志時代(3世紀)に中国の江南地方(呉の領域)でつくられたものという。
「方格規矩神獣鏡(破鏡・ペンダントとして使用)」は
3世紀頃(西暦200年代)、中国浙江省(せっこうしょう)付近で製作されたもの。
鏡が自ら球磨に渡って来る事など決してありえません。つまり、
鏡は人と共に移動した
と言う事になります。
球磨に居た方々が当時の先進的な航海技術を身に着けていた方々であった!
と言う証拠でもあると私は考えます。
先にも書いたように
宗像と言えば「海」。球磨郡と言えば標高1000m級の山々に囲まれた「盆地」。
現代の感覚だけでは、イメージが全く異なる事でしょう・・・
しかし、現代の感覚・イメージだけを持っているのであれば、
決して、古代の謎は解けない!
と私は考えるのです。
さらに、もう一つ重要な事は、古代、北部九州と朝鮮半島との繋がりを考えるにあたって
私が、ブログ『常識を覆した球磨からの出土品 鳥が先か卵が先か・・』
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12464570216.html
で書いた事
中国 ⇒ 球磨 ⇒ 古代朝鮮半島
※東族古傳に従えば、新羅の赫居世・昔脱解・金閼智(之を三姓の祖と為す)は熊襲族の三姓にて、我が筑紫(九州)より傳従した者としてある
※宇豆(うつ)は延喜式神名巻にある韓國宇豆峯神社(からくにうつみねじんじゃ)の所在地で、大隅国囎唹郡に属している。
※當時囎唹玖摩(※曾於・球磨)の二郡は熊襲の本拠なれば、宇豆の名は遠く海外に聞こえたものと察しられる。
※鳥獣率いて舞い天地振動は、軍士の躍進と地響である。
※縄文文化後期末ないし晩期の遺跡から長さ10センチメートル前後の硬質な岩石でつくられた片刃変形有肩石斧が発見されており、稲のわが国への長江南部地方からの伝来も、ほぼこの時期であることが最近明らかになった。有肩石斧の伝来経路と時期がこの問題の鍵(かぎ)を握るものと思われる。
もしかしたら・・・球磨は
卵を産む鳥の「三日月」の形をした故郷の一つなのかもしれない・・・・
もし・・そうであれば
中国 ⇒ 球磨 ⇒ 古代朝鮮半島 ⇒
⇒北部九州
この図式があっても不思議ではない!
と私は考えます。
過去ブログで数回ご紹介した多良木町の遺跡からの出土品
球磨郡多良木町黒肥地 鎗掛松出土の細形銅剣
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12279156268.html
我が国出土の舶載青銅製細形銅剣の中では最古様式
なぜ?球磨郡からこのような出土品が発見されるのか!?
それは・・先に書いた
中国 ⇒ 球磨 ⇒ 古代朝鮮半島 ⇒
⇒北部九州
の図式が存在していたからではないのでしょうか!?・・・・
さらに、最近、新たに考え始めている事があります・・
古代の九州を襲った火山の猛威の中を生き延びた『日本最古のベンガラ彩色耳栓』を使用していた人達(約1万2,000 - 7,000年前) が、火山から身を守る為に新天地を求めて日本列島を北上、または海を渡り大陸へと移っていた・・という推測も可能ではないのか!? と・・・・
ベンガラ 世界最古と言えば
フランス南西部のラスコー洞窟やスペイン北部のアルタミラ洞窟での赤色壁画は、
約 17000 年前(後期旧石器時代)に作られたもの
この事から考えてみても、
『灰塚遺跡』・『上野原遺跡』・『城ケ尾遺跡』 球磨・霧島市周辺 南九州の超古代遺跡 時代は縄文時代 早期(約1万2,000 - 7,000年前) から発見された日本最古のベンガラ彩色 耳栓がいかに重要な出土品であるのか! 私はあらためて、感動致しております!
球磨と宗像大社大宮司家の方々についてはすでにご紹介させて頂きましたが
実は、球磨に系を残されているのは宗像大社大宮司家の方々だけではありません。
熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統括にあたった役職
『熊野別当(くまのべっとう)』家一族であられる『新宮家』の方々も、南北朝時代に球磨に来られて系を続けていらっしゃいます。
球磨の紀伊国 熊野別当家 新宮家の方々
現球磨郡錦町木上(きのえ)。旧木上村の「木上村史」によると
天授四年(1378年)北朝 永和四年 新宮伊豫守行定に木上岩城を賜う。(新宮家譜)
新宮光家、八代高田郷より来りて木上岩城に居る。(熊風土記)
上記の新宮家について墓石調査で以下の事が解っています。
免田郷土研究会 昭和55年3月発行 郷土 第八号より
岩城 新宮行定の墓
木本神社に登る途中にある自然石の墓で、天室宗春大禅定門 嘉慶二(1388年 北朝年号)中略・・三月廿九日と正面に刻まれ、左側から背面、右側にかけて新宮家初代初代行家からの由緒が朱入りで刻まれている。
行家は八幡太郎義家の子源為義の十男で、行定は行家七代目の末裔らしい。
墓碑銘最後に寛政五年(1793年)とあるので、この墓は405年後の建立である。
※天授四年(1378年)北朝 永和四年 新宮伊豫守行定に木上岩城を賜う。
新宮伊豫守行定(新宮行定)。
新宮家初代初代行家(新宮行家)・・八幡太郎義家の子源為義の十男で、行定は行家七代目の末裔
何故?熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統括にあたった役職
『熊野別当(くまのべっとう)』家一族であられる『新宮家』の方が球磨に来られたのか!?
人吉市史にきちんと記されていました。
藩士諸家系図の最後に
『以上の他、本地方の諸家には相良氏出の豊永、稲冨、犬童、西、黒肥地、乙益、蓑毛、桑原、樅木、内田、久保田その他の支流最も多く、
又北家藤原氏の菊池、米良、岡本の諸氏、懐良親王隋従の新宮、大蔵姓高橋、薩州より来住の別府
高千穂明神系の神瀬、遠州隋従の西浦深水、井福、芦北の深水、椎葉地頭の林田、五木地頭の土肥
その他系図や由緒を伝える家筋は未群の諸家も多い事を記して後考に備えたいとおもう。』とあります。
★懐良親王隋従の新宮
新宮家の菩提寺として建立された「新宮寺」
錦町の公式ページをご覧下さい。
http://www.nishiki-machi.com/shinguuji/
天正5年(1577)から、寛永7年(1630)年まで53年間もかかって造られた6体の観音様
奉納された方々の御一人は「清原氏」です。
お美しいお姿をアップでご覧頂く事が出来ます。
錦町観光協会様サイトより
神宮寺六観音
https://nishiki-kankou-navi.com/culturalassets/shinguuji/
球磨には宗像大社大宮司家の方々が系を繋げていらしただけではなく
熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統括にあたった役職
『熊野別当(くまのべっとう)』家一族であられる『新宮家』の方々も、系を繋げていらっしゃったと言う事を皆様方にぜひお伝えしたい!と考えてご紹介させて頂きました。
さらに・・・実は 球磨には相良藩氏として守屋氏も名を残されていらっしゃいます。
守屋家は人吉の観音寺の歴代ご住職の御一人として守屋家御出身の御方がお名前を残されていらっしゃいます。
球磨の守屋氏
ウィキペディアの「守屋氏」に非常に気になる記述を見つけております(p_-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E7%9F%A2%E6%B0%8F
守矢氏(もりやし)は、日本の氏族の一つ。信濃国諏訪郡(現在の長野県諏訪地域)を発祥とする地祇系の氏族で、代々諏訪大社上社の神長官(じんちょうかん)を務めてきた社家。
出自
『守矢氏系譜』における守矢氏の最初の五代
(洩矢神から八櫛神まで)
歴史的始祖は不明である。家伝では建御名方神(諏訪明神)と対抗した国津神・洩矢神の後裔。
明治初期成立の『神長守矢氏系譜』によれば、洩矢神には守宅神と多満留姫の2柱の御子神がおり、多満留姫は建御名方神の御子神・出早雄命に嫁ぎ、守宅神は千鹿頭神をもうけ、洩矢神の祭政の跡継ぎとなった。なお千鹿頭神は後に宇良古山(現在の松本市神田)に移って宇良古比売命を娶り、建御名方神の孫・児玉彦命(片倉辺命の御子神)がその跡を継いだとも書かれているため、守矢氏は洩矢神の祭祀の後継者であってその血族的子孫ではないという解釈もできる。それにもかかわらず、守矢氏は洩矢神を一族の遠祖として敬っている[5]。
神長官裏古墳(茅野市)
物部守屋の次男・武麿の墓と伝わる古墳
「モリヤ」という名前から、物部守屋の後裔とされることもある。
『系譜』にも記録されている守矢氏と物部氏との関係をうかがわせる家伝があり、これによれば、物部守屋の次男である武麿が丁未の乱の後、諏訪に逃亡して森山(守屋山)に籠り、後に守矢氏の神長の養子となって、やがて神職を受け継いだという。
守矢家の屋敷の裏にある古墳(7世紀中頃)が武麿の墓だと言い伝えられている。実際には守屋山の南麓にある伊那市高遠町藤澤区片倉には物部守屋を祀る神社があり、物部守屋の子孫と名乗る守屋姓の家が多くある。
★伊那市高遠町藤澤区片倉には物部守屋を祀る神社があり、
物部守屋の子孫と名乗る守屋姓の家が多くある。
球磨の守屋氏
さて(p_-) 何故? 守屋氏は球磨にお越しになられて系をお繋げになられていらっしゃるのでしょうか!?
宗像大社大宮司家 熊野三山別当家 諏訪大社上社の神長官(じんちょうかん)を務めてきた社家
すでにお気づきの御方もいらっしゃるかと思います・・他にも
先に書いた人吉市史の記述には
高千穂明神系の神瀬氏
と記されていました。
さらに求麻外史記載の相良家当主「相良長頼」球磨入部の際の随行者の記録をお読み頂くと解るのですが
球磨の税所氏
その先は篤實親王にして大隅霧島社の
総官職たり
と記されています。
こう言った日本各地に御鎮座の名立たる神社様御所縁の系の方々が球磨には代々住されていらっしゃるのです・・・
今回のブログタイトル
古代からの井処(いどころ)球磨と繋がる方々
球磨が古代からの井処(いどころ)であった事に気が付いたきっかけは
次回、そう(p_-) 必ず 書かせて頂きます!
ちなみに・・井処(いどころ)とは
古代から・・・水の集まるところを意味する
・・・ ひろっぷでした<m(__)m>
次回『速報!縄文時代の遺跡から石杵が出土していた私の住む村 古代の井処』に続きます。https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12545434168.html