前回のブログ

④「菊と刀」と球磨郡(久米)とさらに三国志時代の中国と・・祖父母の行動を探る その3

より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12523541750.html

 

2019/09/22 22:58 追記

09/21投稿の当ブログ、おちゃも様からのご教示により、新たな事実が判明致しましたので前回投稿内容の最下部に追記を書かせて頂きました。

2019/09/23 06:20 再追記

私の大きな見落としに気が付きました! あらためて、最下部に「再追記」を書かせて頂いております。

さらに、久保本氏は現在、全国にわずか40軒の希少姓である事も

付加させて頂きます。

 

 

前回のブログも沢山の方々に御覧頂けた事を心より感謝申し上げます。

ありがとうございました。

今回の内容は、前回の続きではなく、最近、球磨郡多良木町で発見された古文書から、

ようやく!私の先祖の動きが見えましたので、速報としてご紹介させて頂きます。

 

1.豊臣秀吉の文書(もんじょ)

9月18日の熊本県内のテレビでニュースとして報道されたのですが、球磨郡多良木町で

豊臣秀吉からの文書(もんじょ)が発見されました。

昨日、9月19日付の地元新聞社「人吉新聞」でも一面で大々的に報道されています。

以下がその記事です。

人吉新聞社様にはご連絡を取り、ブログ掲載をご了承して頂けました。

tこの場にてお礼申し上げます。

※記事内の天正15年(1857年)は1587年であるとの訂正が9月20日付の人吉新聞にありました。

以下、2019年9月19日付 人吉新聞の記事より

多良木町は18日、世界文化遺産の宗像大社(福岡県宗像市)の大宮司宗像氏貞の後妻とされ不明な点が多かった「宗像才鶴」宛てに豊臣秀吉が送った文書2点が、町内の宗像家から発見されたと発表した。

所有者の子孫から7月に約80点の資料が寄贈された中から見つかった。

「毛利家文書」「原文書」に断片的に出てくるが、不明の人物とされた才鶴に宛てた判物(天正14年10月10日)と朱印状。

町によると、宗像氏は天正15(1587)年、秀吉の九州平定の前年3月4日に最後の当主・大宮司宗像氏貞の病没後離散し、相伝文書は娘が嫁いだ小早川隆景の重臣草刈景継に伝わったとされていた。

判物は、秀吉が島津氏の九州北上を阻止したことを賞賛し知行を認めたもので、日付の下に秀吉の花押が据えられ、朱印状は軍勢と軍法には浅井長政の指南を受けるように指定したもの。

以上 2019年9月19日付 人吉新聞の記事より

 

他、記事内には「宗像才鶴」の存在裏付け とあり、九州大学の花岡氏の談として

断絶したと考えられていた大宮司家子孫が宗像姓をつないでいたその証拠が出て来た。

宗像家(多良木在住)が大宮司家の子孫とはっきりし、文書から才鶴の存在が確実になった

とあります。

さらに吉瀬多良木町長の談として「縁あって子孫の方が長く多良木町に居住されていた。その事から多良木町に提供いただいた。」とあります。

皆様、詳しくは、転載させて頂いた、人吉新聞の記事(写真)をじっくりお読みください。

 

とても素晴らしい大発見だと感激致しました。

感激しながら、記事を読んでいた私は、ある一行に目が釘付けとなってしまいました。

それは

町によると、宗像氏は天正15(1587)年、秀吉の九州平定の前年3月4日に最後の当主・大宮司宗像氏貞の病没後離散し、相伝文書は娘が嫁いだ小早川隆景の重臣草刈景継に伝わったとされていた。

 

宗像神社大宮司宗像氏貞の娘が嫁いだ小早川隆景の重臣

草刈景継に伝わった・・

草刈景継

この方は!!・・・今から1年3か月前の6月に、高祖母の実家『久保本家』を調べた時に

私のブログ内で登場されていらっしゃいます!!

太田亮博士の著書 姓氏家系大辞典にあった「久保本氏」の記載内容は

「久保本」  備前、美作(三輪庄原口庄屋)等の名族也。

南北朝の内乱の過程でも戦功をたてて、貞和年中(1345~49)に美作国苫東郡青柳庄・

三輪庄・加茂郷などの地頭職を賜った「草刈氏

しかし・・この時(ブログを書いた時)は、美作・備前と球磨の繋がりが全く解らず、調査はそのままになってしまっていました!

まさか!このような形で「草刈景継」と言う方の名前が登場するとは全く夢にも思っていませんでした!!

 

草刈景継 この方のご先祖「氏家基秀の子基近(公継ともいう)」。草刈景継この方とさらには氏家氏と私共宮原一族の先祖「橘公長」との関係等を詳しく調べた、ブログ『其の1.大進展!小豆島とも繋がるか?久保本氏』をリブログさせて頂きます。

未だお読みで無い御方はぜひともご覧頂きたい!と思います。

ぜひ、お読みください<m(__)m>

 

 

2.草刈氏と三吉氏と久保本氏、さらに橘公業の系との関係

 

ブログ「其の1.大進展!小豆島とも繋がるか?久保本氏」 で調べていた事

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12380666475.html

 

①太田亮博士は

「久保本」  備前、美作(三輪庄原口庄屋)等の名族也。と記されている。

 

②その美作三輪庄の地頭「草刈氏」は・・氏家基秀の子基近(公継)から出たという。

 

氏家 公頼(うじいえ きみより)は、鎌倉時代の武将。御家人。
出自
公頼は、氏家氏の祖であるが、その出自については諸説ある。

橘姓説

現在の栃木県塩谷郡塩谷町大字佐貫に存在する佐貫磨崖仏奥の院大悲窟に収められていた建保5年(1217年)2月と刻印された銅版曼荼羅に公頼の名があるが、ここに「右兵衛尉橘公頼」と記されているため、公頼を橘氏の出自とする説が存在する。

現在の栃木県塩谷郡塩谷町大字佐貫に存在する佐貫磨崖仏奥の院大悲窟に収められていた建保5年(1217年)2月と刻印された銅版曼荼羅に公頼の名があるが、ここに「右兵衛尉橘公頼」と記されているため、公頼を橘氏の出自とする説が存在する。しかし、これ以外には、公頼を橘姓とする資料は存在しない。
『勝山城 ~氏家氏 栄光の時代~』での推察によれば、奈良時代に下野国司として赴任した橘氏の子孫の中に源頼朝の御家人となった
橘公長という者がいて、これが公頼である可能性があるとする。

公長は弓の名人であったが、公頼も鎌倉幕府の行事などで流鏑馬や笠懸で射芸を披露し、将軍の下で流鏑馬の作法を評議する立場であるほどの弓の名人であり、共通項はある。あるいは、公頼が母方の姓を名乗った可能性もあるとする。
但し、公頼については、宇都宮氏の養子である説があるため、これに基づけば、公頼が元々橘姓のいずれかの氏族の出自である可能性もある。

※橘公長とは宮原一族の先祖橘公業の父であります。

 

④「宇都宮朝綱」 この方と宮原の一族の先祖は「縁戚関係」にあった。

宇都宮朝綱の孫(父は宇都宮 業綱)『宇都宮頼綱』の妻は梶原景時の娘であられる方です。
梶原景時の孫娘の方は、宮原の一族の先祖「橘公業」の妻であり、球磨郡久米郷を父より継いだ「橘公員」の母でもあります。
つまり、宇都宮氏と「橘公長」の子である「橘公業」は縁戚関係にあった・・と言う事です。

 

⑤宮原氏系図には橘公長の兄弟「橘公清」この方の項に
『父下毛守佳國之時為宇都宮智■孫 號
氏家』 と記されている。

 

⑥草刈氏が活躍した「勝田郡」。岡山県には勝田郡勝間田村が存在した・・
新堀氏の祖「新堀頼兼」。遠江国の新堀の由来は遠江国勝間田(勝田)にありました・・・

 

⑦武家家伝様サイト 草刈氏 系図画像 より
http://www2.harimaya.com/sengoku/kz/kusakari.jpg
草刈景継この方の姉妹の方が三吉隆勝と言う方のとなっている。

 

※参考 ウィキペディア 草刈景継

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E5%88%88%E6%99%AF%E7%B6%99

草苅 景継(くさかり かげつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。

草苅氏は美作国苫田郡の高山城を本拠とする国人で、毛利氏に属する。

父は草苅衡継、異母弟に重継。

氏族    藤原北家秀郷流宇都宮氏庶流 草苅氏

父母    父:草苅衡継、母:黒岩吉弘の娘
兄弟    景継、重継、重久、
女(三吉隆勝室)、女(草苅盛雅室)、女(小瀬広勝室)
妻    安東治部大輔の娘

墓所    岡山県津山市加茂町山下の葵谷

 

⑧江戸時代中期、私の住む集落「旧宮原村麓(宮麓)」に何故か!?

三吉氏』が住されていた。

 

⑨曾祖母の実家「新堀家」の御堂に残っていた「三吉氏」の名

求麻郷土研究会溝下様と、私の曾祖母の実家「新堀家」の氏神様をお祀りの御堂の調査に入り確認しております。
御神像の一体、「四手」で「三面」の御神像の台座には墨書きの銘が残されていました。
以下、溝下様から頂いた調査書から略させて書かせて頂きます。
御神像 総高21.5センチ 台座墨書銘 寛延四(一七五一年)
寛延四丁未八月吉日
作者 奥野村 椎葉六左衛門
施主 宮原村 三吉□□□ ・・・

(□は文字が擦れて読めませんでした)

光背墨書
寛延四丁未□ 三吉伯□□ 大當住□□

旧光背
寛延四丁未八月彼岸初日
   奥野村 
  作者尾方六左衛門
三吉伯□□

★寛延四年 とは1751年

 

⑩「美作三輪庄」の江戸時代を調べると、後世、江戸時代「美作三輪庄」は
『津山藩』であった。

美作津山藩の初代藩主は・・『森 忠政

『森 忠政』・・森氏。 森氏の祖「森 頼定」の妻は、宮原の一族の先祖「橘公業」の娘であり
球磨郡久米郷を相続した「橘公員」の姉『
薬上助局』である。

 

以上、ブログ『其の1.大進展!小豆島とも繋がるか?久保本氏』で調べていた事をまとめてみました。

 

私はこのブログを書いた時に、以下のような事も書いていました。

お堂から「三吉氏」の名が見つかった私の曾祖母の実家「新堀家」は、「橘公長」・「橘公業」を先祖とする「橘姓 宮原氏」が養子に(婿養子?)に入って継いだ系であり、
その「新堀家」から「久保本家」には曾祖母の弟の方が養子に入って「
久保本家」を継いだ。
その前の代には、この「
久保本家」から、家の「宮原家」に高祖母が嫁いで来られている。
この繋がりから、新堀家の御堂に残っていた「三吉氏」の名前、「三吉氏」は、この3軒
「宮原家」「新堀家」「久保本家」に繋がりを持った人物であったのではないか?

もっとも、考えられるのは、旧宮原村麓(宮麓)の「三吉氏」は
「美作三輪庄」に繋がる「久保本家」に所縁の「人物」であったのではないか?

「宮原家」「新堀家」「久保本家」の繋がりとは?・・・鍵となるのは「橘氏」ではないのか?
「美作三輪庄」の地頭であった「草刈氏」の祖は系図でみると

★基秀(公頼) 号「氏家」
氏家公頼、この方と「橘公長」は、何らかの繋がりがあった事は、ウィキペディアの記述からも読みとれ、さらに「宇都宮氏」と「橘公業」・「橘公員(球磨郡久米郷を相続)」とは縁戚関係があり、なお且つ、「宮原氏系図」では「橘公長」の兄弟「橘公清」の記述に「號 氏家」とある・・
その「氏家公頼」を祖とする「草刈氏」が地頭を務めた『美作三輪庄』の名族と記された
『久保本氏』・・・私の高祖母の実家も旧宮原村麓(宮麓)の久保本家・・

こんな偶然って「本当にあるのだろうか?」 はたして、これは、本当に「偶然か!?」・・
『三吉氏』は『久保本氏』と共に此の地(旧球磨郡久米郷宮原村)に来られたのではないのか?・・・

 

この疑問を解くカギが見つからずに、ブログを書いて1年3か月経過して、突然

草苅 景継」と言う方と球磨郡の関わりが見つかった訳です。

世界文化遺産の宗像大社(福岡県宗像市)の大宮司宗像氏貞の後妻とされ不明な点が多かった「宗像才鶴」宛てに豊臣秀吉が送った文書2点が、町内の宗像家から発見された。

町によると、宗像氏は天正15(1587)年、秀吉の九州平定の前年3月4日に最後の当主・大宮司宗像氏貞の病没後離散し、相伝文書は娘が嫁いだ小早川隆景の重臣草刈景継に伝わったとされていた。

 

3.文書の移動

宗像氏より草刈景継に伝わり、多良木町在住の宗像家がご先祖様に関わる「文書」を代々保管されてこられた。

つまり

宗像大宮司家 より →

→ 美作国苫東郡青柳庄・三輪庄・加茂郷などの地頭職を賜った「草刈氏」草刈景継 → 球磨郡多良木町の宗像家

文書は人の移動と共に球磨郡多良木町へと動いたと

私は推測致します。

人吉新聞に記されていた

★「断絶したと考えられていた大宮司家子孫が宗像姓をつないでいたその証拠が出て来た。宗像家(多良木在住)が大宮司家の子孫とはっきりし、文書から才鶴の存在が確実になった。

さらに吉瀬多良木町長のお言葉

★縁あって子孫の方が長く多良木町に居住されていた。

この事がいかに重要な事なのか、いかに素晴らしい事なのか私は心から感動しています。

 

豊臣秀吉からの文書が伝わったとされる草刈景継の姉妹の方は三吉隆勝と言う方の妻となられています。

私の高祖母の実家「久保本家」。

久保本氏は太田亮博士が備前、美作(三輪庄原口庄屋)等の名族也。と記されている。

その久保本家を継いだ新堀家(私の曾祖母の実家)のお堂には「三吉氏」の名前が記された御神像がお祀りされていました・・・

施主 宮原村 三吉□□□

 

私は考えました。

豊臣秀吉からの文書が美作の草刈氏から球磨の多良木に動いた・・つまり美作から

多良木に移動された方々と共に、高祖母の先祖「久保本氏」と「三吉氏」は球磨に来られたのではないのか!?・・と。

さらに「久保本氏」と「三吉氏」が住したこの地「旧球磨郡久米郷宮原村」は橘公業から嫡男橘公員が受け継いだ、「橘氏」所縁の地です。

 

草刈景継、この方のご先祖様「氏家公頼」と言う方は橘公長との御縁が見えました。

高祖母の実家「久保本家」と家の宮原家の姻戚関係、辿ればその「鍵」は美作にあるのでは!?と私は考えました。

何度も何度も・・・繰り返し考えました。

 

しかし、過去に調べていた方のお名前がようやく「登場」した事は、私にとって奇跡です。

先祖の調査を行っていて、このような素晴らしい事が起こるとは夢にも思いませんでした。

私は、人吉新聞の記事を仏壇にお供えして、宮原家のご先祖様、久保本家のご先祖様、新堀家のご先祖様に「ようやくご先祖様方がどのように生きて来られたのか手掛かりが見えて参りました」と報告させて頂きました。

 

不思議だと思う事があります。

ブログ 其の1.大進展!小豆島とも繋がるか?久保本氏 を書いた時に
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12380666475.html

私は、最初から「草刈氏」が非常に気になっていました。

ブログ内でも、何度も「気になる」「気になる」・・と書いています。

 

あらためて、

過去に調べていた方のお名前がようやく「登場」した事は、私にとって奇跡です。

 

しかし

皆様方ご存じの通り、私の先祖調査の信念は

古代 → 中世 → 近世は繋がっている 

です。

 

断絶したと考えられていた

宗像大宮司家子孫の方が宗像姓をつないでいた球磨郡多良木町

 

相良氏・相良一族・橘氏・良峯氏・阿部氏・

菊池氏・平家一門・大神氏 他 多数の氏族が系を繋いできた球磨郡・人吉市・・旧相良藩

 

私はこれからも、古代の球磨の貴重な歴史を探求し続けます!

 

2019/09/22 22:58 追記

9/18(水) 20:24配信YAHOO!ニュースに、西日本新聞に掲載された

宗像大社大宮司家「謎の人物」へ秀吉が書状 離散の戦国武将の名 守った子孫宅で発見 熊本・多良木 の記事をおちゃも様よりご教示頂きました。

この記事により、新たな事実が判明致しましたのでご紹介させて頂きます。

おちゃも様、ご紹介頂きありがとうございました(^'^)

 

9/18(水) 20:24配信YAHOO!ニュース

西日本新聞

宗像大社大宮司家「謎の人物」へ秀吉が書状 離散の戦国武将の名 守った子孫宅で発見 熊本・多良木

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190918-00010014-nishinpc-soci

 

同記事によると

★九州平定後、宗像氏の所領は小早川隆景が支配。大宮司家は氏貞をもって途絶え、一族は離散した。氏貞の娘は隆景の家臣に嫁ぎ、氏貞後室とされる人物により相伝の文書は家臣側に渡っている。

 

★後世に書かれた「訂正宗像大宮司系譜」は、氏貞の別の娘が毛利家の家臣と結婚し、家臣は宗像清兵衛として熊本に移ったとし、熊本の細川藩史料にも同様の記述がある。今回の文書は、多良木町にある清兵衛の子孫宅で発見され、その記述を裏付ける形となった。

 

とあります。

※宗像氏貞の娘は小早川隆景の家臣「草刈景継」に嫁ぎ、豊臣秀吉からの文書は

草刈景継」側に渡っている。

※後世に書かれた「訂正宗像大宮司系譜」は、氏貞の別の娘が毛利家の家臣と結婚し、家臣は宗像清兵衛として熊本に移ったとあり今回の文書は、多良木町にある宗像清兵衛の子孫宅で発見された!

と言う事が解りました。

 

宗像清兵衛として熊本に移った

やはり!

人と共に文書が多良木に移動した!

と言う事が解りました!!

 

先に書いた

豊臣秀吉からの文書が美作の草刈氏から球磨の多良木に動いた・・つまり美作から

多良木に移動された方々と共に、高祖母の先祖「久保本氏」と「三吉氏」は球磨に来られたのではないのか!?

私の中ではこの推測がより確信へと近づいて参りました!

 

2019/09/23 06:20 再追記

私の大きな見落としに気が付きました!

「文書」が移動した草刈氏」。

草刈景継、草刈重継、ご兄弟の父草苅 衡継(くさかり ひらつぐ)

草苅 衡継。この方のご両親は

父:草苅景継、母:三吉豊高の娘

つまり、草刈氏は三吉氏と数代に渡り姻戚関係を結んでいらっしゃった事が解りました。 さらに、キーマンがもう一人いらっしゃいました。

草刈景継(祖父の名を継ぐ)の弟「草刈重継」 この方です!

草刈重継の妻も『宗像氏貞の次女』の方でいらっしゃいます。

草刈景継、草刈重継、ご兄弟の祖母は三吉豊高の娘

詳しくは次回に続きを書かせて頂きます!

と書きましたが

 

次回『番外編 暑い秋と最近の私』 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12535571732.html