前回のブログ『4月14日』より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12368230502.html

 

久しぶりに、書かせて頂きます。

前回からの約1カ月半の間、実は、以前から利用させて頂いている「スレッド」の方で

「大発見」があり、そちらの調査に集中させて頂いていました。

今回、こちらのタイトルにさせて頂いた「大進展」の話とは別の件となります。

この「大発見」からの調査内容は、ちゃんとまとめて、こちら、ブログの方に後日書かせて頂くつもりです。

鎌倉時代以降の球磨の橘氏にも繋がる話ですので、今回はこちらを優先して書かせて頂きます <m(__)m>

さっそく「大進展」のお話を書かせて頂きます。

 

以前、私の住む旧宮原村に小豆島から移住された方々の住まわれた「小豆島村」があった事を2回に分けて書かせて頂いていました。

★球磨の宮原村に移住された小豆島の方々

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12317384720.html

★パート2 球磨の宮原村に移住された小豆島の方々

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12317432030.html

 

この旧宮原村への小豆島からの移住者の方々については、相良藩史には「一切記載が無く」

さらに、幕府の資料にも全く、この「事実」が記された痕跡はありませんでした。

しかし、「全くの別件」を調べていて、「偶然」にも小豆島と旧宮原村の「地縁」を見つける事が出来ました!

「地縁」・・それは、宮原の一族の先祖である「橘公長」及び「兄弟」。

さらには、森頼定の妻であった橘公業の娘「薬上助局」に繋がる「地縁」でありました。

 

今回は、上記の「地縁」に気が付くまでの「流れ」をもとに、詳しく書かせて頂こうと思います。

 

きっかけとなった「久保本氏」の調査

①久保本家と新堀家と宮原家の関係

私の曾祖父は、相良氏族「久保田氏」の家から、旧宮原村の「宮原家」に11歳を迎える前に養子に入り、其の後家督相続により宮原家を継ぎました。

妻(私の曾祖母)は新堀家の娘。

曾祖母の実家「新堀氏」は1193年(建久4)、相良頼景、この方と共に球磨郡多良木に来られた新堀頼兼の後裔であり、以下のサイト様に新堀氏の系が詳しく記されていました。

参考 サイト 「菊池家」様より 相良氏族「新堀氏」には
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/kikuti.html


新堀頼政頼重子頼益孫頼宗曾孫頼兼玄孫相良頼景耳孫
頼良 頼代 頼里相良四郎? 頼光 頼門 頼秀 頼重 頼光

★新堀頼政 = 頼重子頼益孫頼宗曾孫頼兼玄孫相良頼景耳孫

新堀氏の御先祖のお一人「新堀頼政」と言う方は

相良頼景の耳孫であり、新堀頼兼の玄孫であり、相良頼宗(相良長頼の孫)の曾孫である・・

と言う事が解ります。

相良(多良木)頼宗の父、相良(多良木)頼氏は相良長頼の次男で、祖父「相良頼景」の治めた「多良木」を相続しました。 この事により球磨の相良氏は「上相良氏(多良木)」、「下相良氏(人吉)」と二つの系に分かれる事となります。

新堀氏は現多良木町黒肥地の「新堀城」の城主でありましたが、室町時代、下相良氏により上相良氏が滅ぼされた後、球磨の数か所に分散。拠点は分限帳や相良史誌により旧宮原村へと移った事が解っています。

しかし、江戸時代初期、旧宮原村の新堀氏を「橘姓 宮原氏」、相良家家老「宮原宇右衛門 公全」の系から養子、もしくは婿養子が入り、旧宮原村新堀家を継いだ可能性が非常に高い事も解っています。

ちなみに、私の曾祖父の実家「久保田氏」は上記の相良(多良木)頼宗の弟「頼吉」を祖とする一族で、久保田氏の先祖「窪田(久保田)頼吉」も、相良長頼の孫であり、つまり、私の

DNA的に言う先祖は「相良頼景」であり「相良長頼」でもある・・と言う事になります。

(何故?相良氏族の久保田氏から、曾祖父が橘氏族の宮原家に養子に入ったのかは全く不明です・・)

相良氏族「久保田家」から宮原家に養子に入った私の曾祖父。

養父母は「宮原蔵吉」、妻「宮原ヒサ」。

私の高祖母となる「宮原ヒサ」この方は、嘉永六年生まれで、実家は「久保本家」

父の名前は久保本(元)津左衛門と言う方です。

実は、この「久保本家」、高祖母が宮原家に嫁いだ後、新堀氏(曾祖母の実家)から曾祖母の弟の方が養子に入り「久保本家」を継いでいます。

ここまで書いてきたように、うちの宮原家・新堀家(江戸時代初期に宮原氏が相続)・久保本家

の関係には、何かしら「深い繋がり」があるのかな・・と以前から推測はしていたのですが、

「久保本家」について、今までは詳しく調べる事はしていませんでした・・・

「久保本氏」は、日本国内では、非常に少ない姓で、全国にわずか40軒程。

江戸時代の記録では高祖母の実家「久保本」家は「久保元」とあり、明治以降は「久保元」「久保本」と両方記録が残っていて、そもそも「久保元」・「久保本」氏とは一体どのような方々だったのか・・今まで調べていなかった高祖母の実家「久保本氏」に突然、私は興味を抱くようになりました。

 

②姓氏家系大辞典に見える「久保本氏」

太田亮博士の著書 姓氏家系大辞典に「久保本氏」の記載がありました。

国立国会図書館デジタルコレクション 姓氏家系大辞典. 第2巻 コマ番号159です。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/159

 

「久保本」  備前、美作(三輪庄原口庄屋)等の名族也。

 

備前や美作三輪庄の名族也・・・岡山県・・・?

岡山県の久保本氏が何故?遠く離れた肥後国球磨郡久米郷宮原村麓(宮麓)に???

この記述を見た数ヶ月前・・その理由が見えず・・実は、ここから先の調査は全く行っていませんでした。

所が・・先にも書いた、数年間利用させて頂いているスレッドで「ある方」から、その方の御先祖様(球磨住)が元は岡山に住されていた三宅氏であった・・と言うお話を伺う事ができて

私は、モヤモヤし続けていた高祖母の実家「久保本氏」の事が突然気になり、この機会にしっかり調べて見よう!(^O^)/ と奮起いたしました。

 

③『久保本氏 備前、美作三輪庄原口庄屋等の名族也』の調査

まず、美作国三輪庄について調べてみました。

ネット上では、中々見当たらなかったのですが、そのような中「美作国三輪庄」について、

非常に気になる記述を発見致しました。

それは、武家家伝様サイト 草刈氏の記述の中にありました。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kusakari.html

 

武家家伝様サイト 草刈氏より 勝手ながら気になる記述を転記させて頂きます。

草刈氏

戦国時代、因幡・美作地方の勢力を振るった草刈氏は、藤原秀郷流小山氏の後裔という。すなわち、小山政光の孫氏家基秀の子基近(公継ともいう)から出たという。

初代の基近は足利家氏に従って陸奥に下向し、斯波郡草刈郷の地頭職を得て、その地名をとって草刈氏を名乗ったのが始まりとされる。とはいえ、その真偽のほどは検討を要するところである。
 一方、『萩藩閥閲録』という毛利家の記録によれば、草刈氏の祖は上野国の豪族で、天慶三年(940)平貞盛とともに平将門を征伐した藤原秀郷と記されている。草刈の姓を称するようになったのは、寛正年中(1243~46)鎌倉将軍であった頼経親王から陸奥国斯波郡草刈郷の地頭職を賜った基近以後であるという。
 それぞれ微妙な食い違いをみせているが、原秀郷の後裔を称していたことは共通している。 

基近の曾孫貞継は、延元元年(1336)足利尊氏が京都から九州に敗退したとき、その軍勢に加わったが、備前国和気郡の三石城に踏みとどまり新田義貞の追討軍を防いだという。 
 陸奥国の地頭である貞継が、突然備前国三石に現れるのは奇異な感じを抱かせるが、おそらく草刈氏は武蔵守として鎌倉にあった時、またはそれ以前より尊氏の配下となっていたものと思われる。そして、元弘から建武の動乱に際して尊氏に従って鎌倉から京都に入った。建武三年(1336)、北畠顕家らの軍勢に敗れた尊氏に従って備前まで逃れ、尊氏が九州に去ったのち三石城に拠ってよく殿軍の役目を果たしたものであろう。 
 貞継はこのときの戦功により、暦応元年(1338)因幡国智頭郡を賜わり、同地に移り淀山城を築いて、そこに拠ったという。

その後の南北朝の内乱の過程でも戦功をたてたようで、貞和年中(1345~49)に美作国苫東郡青柳庄・三輪庄・加茂郷などの地頭職を賜ったという。

あるいは貞継の子氏継は将軍義詮から苫東・苫西郡の地頭職に補されたともいわれ、

氏継は山名氏清の討伐の戦に参加して功があった。さらに氏継は本領のほかに、南接する美作にも兵を出すなど所領の拡大に務めた。 

中略・・

宇喜多氏の台頭 より

勝田郡・英田郡を舞台に宇喜多勢と毛利氏を後楯とする後藤勢が戦っていた時、吉野郡では宇喜多氏と結んだ新免宗貫と、毛利氏の旗下である草刈重継が合戦を繰り返していた。すなわち、新免と草刈の両氏は、宇喜多・毛利の代理戦争を吉野郡で展開していたのであった。 

中略・・

新免氏との抗争 より

草刈・新免両氏の攻防戦については、『美作太平記』『美作古城記』などに記述されている。

中略・・天正八年四月、大野庄で塀高合戦が起こった。このころ、新免家の内部で対立が起こり、 新免伊賀守に遺恨を抱いた井口長兵衛・新免総兵衛らが草刈重継に内通し、その軍勢を塀高城に引入れ、 一緒になって新免宗貫の軍勢と戦った。

高山城主草刈重継は、天正六年から同八年まで、勝田郡北部の国衆をともなって吉野郡に侵入し、 竹山城主の新免宗貫の軍勢と戦ったが、新免側の守りは堅く、ついにこれを抜くことはできなかった。この毛利氏を 後楯とする草刈氏と、宇喜多氏を後楯とする新免氏との攻防戦も天正十年に至って終焉を迎えた。 

 

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※1.因幡・美作地方の勢力を振るった草刈氏は、藤原秀郷流小山氏の後裔という。すなわち、小山政光の孫氏家基秀の子基近(公継ともいう)から出たという。

※2.貞和年中(1345~49)に美作国苫東郡青柳庄・三輪庄・加茂郷などの地頭職を賜ったという。

※3.高山城主草刈重継は、天正六年から同八年まで、勝田郡北部の国衆をともなって吉野郡に侵入し・・・

 

私の高祖母の実家「久保本氏」 太田亮博士は備前、美作(三輪庄原口庄屋)等の名族也

と説く・・

その美作三輪庄の地頭「草刈氏」は・・氏家基秀の子基近(公継ともいう)から出たという。

この記述を読んだ時、私は驚きのあまり震えが止まらなくなりました・・・

 

④「氏家」氏と宮原の一族の先祖「橘公長」との関係

以前から御紹介しているように、宮原の一族の中の八代氷川宮原城主「宮原公忠」直系にあたる「宮原様」からありがたい事に「宮原氏系図」を頂く事が出来ました。

その「宮原氏系図」には、宮原一族の先祖「橘公長」の兄弟に「橘公清」と言う方が記されていて、「公清」この方の項には

『父下毛守佳國之時為宇都宮智■孫 號氏家』 と記されていました。

※「橘公清 宇都宮智■孫 號氏家」

宇都宮氏・・? 氏家氏? と私は、興味が湧いて調べていたのです・・

 

氏家氏の祖「氏家公頼」 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F%E5%AE%B6%E5%85%AC%E9%A0%BC

氏家 公頼(うじいえ きみより)は、鎌倉時代の武将。御家人。

出自
公頼は、氏家氏の祖であるが、その出自については諸説ある。

宇都宮氏出自説
公頼の出自として、最も有力とされているのが宇都宮出自説であり、現在通説となっているが、この説も大きくは二説に分類される。
従来の宇都宮氏出自説
公頼を宇都宮朝綱の子とし、氏家氏を創始したとするのがこの説で、下野国誌を主として、これまで通説とされてきた説である。

紀姓氏家氏養子説
公頼を宇都宮朝綱の子(末男と記す)とする点においては、宇都宮氏出自説とは変わらないが、公頼を氏家氏の創始とはせず、紀姓氏家氏の四代目氏家公広の養子となり、氏家氏を継いだとする。この場合の氏家氏の創始は、氏家公幹(長元元年(1028年)生 - 永長元年(1096年)1月11日没)とし、公幹を紀氏の出自であるとする。

養子説
公頼を宇都宮氏の出自ではなく、宇都宮宗綱又は宇都宮朝綱の養子であるとする。『続群書類従』宇都宮系図別本によると、公頼は、宇都宮氏の出身ではなく宗綱の娘婿であるとする。

この系図では公頼の出自が不明であるが、養子である場合の出自については、次の二説が存在する。

小山氏出自説
公頼を小山政光の子である宇都宮公重の子とし、氏家氏を創始したとするのがこの説で、長州藩の家臣団の古文書・系図を収録した『萩藩閥閲録』(享保10年(1725年)成立)の草刈文書の中に記されたものである。小山政光の四男に公重(備前守、宇都宮三郎、右衛門尉、掃門頭、従五位下出羽守)がいて、宇都宮朝綱の養子となり、元久元年(1204年)に47歳で亡くなったとするが、この公重の次男が安芸守基秀で、基秀が公頼を名乗り、氏家氏を創始したという。

橘姓説
現在の栃木県塩谷郡塩谷町大字佐貫に存在する佐貫磨崖仏奥の院大悲窟に収められていた建保5年(1217年)2月と刻印された銅版曼荼羅に公頼の名があるが、ここに「右兵衛尉橘公頼」と記されているため、公頼を橘氏の出自とする説が存在する。しかし、これ以外には、公頼を橘姓とする資料は存在しない。

『勝山城 ~氏家氏 栄光の時代~』での推察によれば、奈良時代に下野国司として赴任した橘氏の子孫の中に源頼朝の御家人となった橘公長という者がいて、これが公頼である可能性があるとする。公長は弓の名人であったが、公頼も鎌倉幕府の行事などで流鏑馬や笠懸で射芸を披露し、将軍の下で流鏑馬の作法を評議する立場であるほどの弓の名人であり、共通項はある。あるいは、公頼が母方の姓を名乗った可能性もあるとする。
但し、公頼については、宇都宮氏の養子である説があるため、これに基づけば、公頼が元々橘姓のいずれかの氏族の出自である可能性もある。

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実は・・・「宇都宮朝綱」 この方とは宮原の一族の先祖は「縁戚関係」にあります。

宇都宮朝綱の孫(父は宇都宮 業綱)『宇都宮頼綱』の妻は梶原景時の娘であられる方です。

梶原景時の孫娘の方は、宮原の一族の先祖「橘公業」の妻であり、球磨郡久米郷を父より継いだ「橘公員」の母でもあります。

つまり、宇都宮氏と「橘公長」の子である「橘公業」は縁戚関係にあった・・と言う事です。

さらに、先に書いたように宮原氏系図には橘公長の兄弟「橘公清」この方の項に

『父下毛守佳國之時為宇都宮智■孫 號氏家』 と記されています。

 

このようにして、『氏家公頼』と言う方を、以前から調べていて、「氏家氏」はおそらく、

宮原の一族の先祖「橘公長」に、繋がる事は間違いないのではないか・・?

と私は推測していました。

 

だから!!! 草刈氏の記述を拝見した時に、震えが止まらなくなるほど驚いたのです!

★私の高祖母の実家「久保本氏」 太田亮博士によると

備前、美作(三輪庄原口庄屋)等の名族也 とあり

その美作三輪庄の地頭「草刈氏」は・・氏家基秀の子基近(公継)から出たという。

 

本当に驚きました・・・

さらに、ここまでの調査で補足する事があります。

肥後の守護であった「平貞能」。妻は平河氏と同じく「良峯姓」の 原氏の娘の方。

元暦2年(1185年)7月7日、平家一門の都落ち後に行方不明になっていた平貞能が源頼朝への助命を求めて突如宇都宮朝綱の元を訪れたため、朝綱が頼朝を説得して貞能の身柄を預かることとなる。

草刈氏が活躍した「勝田郡」。岡山県には勝田郡勝間田村が存在した・・

新堀氏の祖「新堀頼兼」。遠江国の新堀の由来は遠江国勝間田(勝田)にありました・・・

 

ここまで、書かせて頂いた事でさえ、私は驚きの連続であったのに・・

さらに、驚き過ぎて言葉が出なくなる・・そのような「系図」を

武家家伝様サイト 草刈氏の記述の中から見つけてしまいました・・!!

 

武家家伝様サイト 草刈氏 系図画像

http://www2.harimaya.com/sengoku/kz/kusakari.jpg

 

草刈景継、この方の姉妹?の方が・・三吉隆勝と言う方の妻となっている・・

三吉氏・・みよし・・三吉氏!!!!!

 

私が、何故?ここまで「三吉氏」の記述に驚いてしまったのか・・その理由は

実は!江戸時代中期、私の住む集落「旧宮原村麓(宮麓)」に

何故か!?『三吉氏が住されていた』事を知っていたからです!!

 

⑤曾祖母の実家「新堀家」の御堂に残っていた「三吉氏」の名。

三吉氏については、実は以前「平河氏」系図を調べていて「三吉氏」には辿り着いてはいました・・(あくまでも辿り着いては・・ですが)

平河氏系図の中に『良峯左近少尉義孝』と言う方の名前があり、調べた所、この方は

摂政・太政大臣・藤原伊尹の三男藤原義孝(良峯左近少尉義孝)である事が解りました。

藤原義孝(良峯左近少尉義孝)の子が藤原行成。
藤原行成の四男が「三吉兼範」
藤原兼範(三吉氏の祖)時代は12世紀の方でした。

しかし・・何故「藤原義孝」この方が「良峯左近少尉義孝」と名乗られたのか?その理由も全く不明で、さらに三吉氏は備後三吉氏が有名であり、備後の三吉氏と球磨との繋がりが全く解らず、三吉氏の調査はここでストップしてしまいました。

所が・・

今から約2年前、求麻郷土研究会の方と、私の曾祖母の実家「新堀家」の氏神様をお祀りの御堂の調査に入った時の事です。

お堂の中には複数の御神像がお祀りされていました。

御神像の一体、「四手」で「三面」の御神像の台座には墨書きの銘が残されていました。
以下、調査書から略させて書かせて頂きます。
御神像 総高21.5センチ 台座墨書銘 寛延四(一七五一年)
寛延四丁未八月吉日
作者 奥野村 椎葉六左衛門
施主 宮原村 三吉□□□

(□は文字が擦れて読めませんでした)

光背墨書
寛延四丁未□ 三吉伯□□ 大當住□□

旧光背
寛延四丁未八月彼岸初日
   奥野村 
  作者尾方六左衛門
三吉伯□□

 

私は・・この時にも・・凄く驚いたのです!

「三吉氏」が・・私が探していた「三吉氏」の名前が・・こんなにも近くに・・それも・・

曾ばあちゃん(曾祖母)の実家の「新堀家」のお堂の御神像の台座と光背墨書に残っていた・・!!と。

しかし・・三吉氏の名前には驚いたのですが・・確かに、曾祖母の実家「新堀家」と私の祖母の実家「平川家」は近いのですが、こちらの御堂はあくまでも、新堀家の氏神様をお祀りの御堂であり、平川家との関係が全く不明・・

ただ、一緒に調査して下さった求麻郷土研究会の方が、新堀家の御堂にお祀りの

『「四手」で「三面」の御神像』は、近くに御鎮座であった「稲積妙見(稲積神社)」の御神像の中の一体ではなかろうか・・?とも推測可能ですね・・と言う事でした。

※補足 「稲積妙見(稲積神社)」は明治初期に岡原霧島神社に合祀となっています。

「稲積妙見(稲積神社)」 御祭神 天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)

 

ただ・・私は2年程前「三吉氏」の名前が『発見』された時も、何故?三吉氏がここ旧宮原村麓(宮麓)に住されていたのか?岡山との繋がりは?と・・全く理由が解らず、これ以上の調査は行っていませんでした・・・。

 

所が!

今回、高祖母の実家「久保本家」の「久保本氏」を調べた所、太田亮博士の説から

久保本氏が備前や美作(三輪庄)の名族であった事が解り、さらに、その美作(三輪庄)草刈氏を調べた所、「三吉氏」との姻戚関係があった事も判明して!

だからこそ、私は本当に驚いてしまったのです!

 

冷静に考えてみました。

①久保本家と新堀家と宮原家の関係 でも書いたように

お堂から「三吉氏」の名が見つかった私の曾祖母の実家「新堀家」は、「橘公長」・「橘公業」を先祖とする「橘姓 宮原氏」が養子に(婿養子?)に入って継いだ系であり、

その「新堀家」から「久保本家」には曾祖母の弟の方が養子に入って「久保本家」を継いだ。

その前の代には、この「久保本家」から、家の「宮原家」に高祖母が嫁いで来られている。

この繋がりから、新堀家の御堂に残っていた「三吉氏」の名前、「三吉氏」は、この3軒

「宮原家」「新堀家」「久保本家」に繋がりを持った人物であったのではないか?

もっとも、考えられるのは、旧宮原村麓(宮麓)の「三吉氏」は

「美作三輪庄」に繋がる「久保本家」に所縁の「人物」であったのではないか?

「宮原家」「新堀家」「久保本家」の繋がりとは?・・・鍵となるのは「橘氏」ではないのか?

「美作三輪庄」の地頭であった「草刈氏」の祖は系図でみると

★基秀(公頼) 号「氏家」

氏家公頼、この方と「橘公長」は、何らかの繋がりがあった事は、ウィキペディアの記述からも読みとれ、さらに「宇都宮氏」と「橘公業」・「橘公員(球磨郡久米郷を相続)」とは縁戚関係があり、なお且つ、「宮原氏系図」では「橘公長」の兄弟「橘公清」の記述に「號 氏家」とある・・

その「氏家公頼」を祖とする「草刈氏」が地頭を務めた『美作三輪庄』の名族と記された

『久保本氏』・・・私の高祖母の実家も旧宮原村麓(宮麓)の久保本家・・

こんな偶然って「本当にあるのだろうか?」 はたして、これは、本当に「偶然か!?」・・

『三吉氏』は『久保本氏』と共に此の地に来られたのではないか?・・・

 

さらに・・何故?久保本氏は、球磨郡久米郷宮原村麓に来られたのか???

 

私は、混乱しながら、家から見える「黒原山」を見ながら・・

「黒原山様なら全て御存じですよね・・」と独り言を言ってしまいました。

 

頭を冷やして、さらに分析を続けました・・・

 

⑥久保本氏が球磨郡久米郷宮原村麓(宮麓)に来られた時期

岡山との繋がりで、真っ先に頭に浮かんだのは、備前岡山藩主池田家から相良家に養子に入られた肥後人吉藩の第11代藩主相良 長寛。この御方の名前でした。

相良 長寛 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E5%AF%9B

 

相良 長寛(さがら ながひろ)は、肥後人吉藩の第11代藩主。
生涯
宝暦元年(1751年)12月6日、備前岡山藩主・池田宗政の次男として生まれる。

幼名は護之進。のち初名の政長(まさなが)を名乗る。
外祖父(母方の祖父)にあたる6代目筑前福岡藩主、黒田継高は、実子の重政、長経を相次いで亡くし、跡継ぎがいなかった。このため、継高と重臣たちは評議の上で、継高の長女・藤子が嫁いだ岡山藩池田家から外孫である政長を養子に迎えることに決定した。しかし、幕府の要請により一橋宗尹の五男の隼之助(後の黒田治之)を養嗣子に迎えることとなったため、この養子縁組は破談になった。宝暦13年(1763年)のことである。
それから数年間を実家の池田家で過ごした後に、明和6年(1769年)3月5日、第10代人吉藩主・相良福将が死去した際に、末期養子として家督を継いだ。

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所が・・・

相良 長寛、この方の誕生日は『宝暦元年(1751年)12月6日』

時間軸が合わない事に気が付きました。

曾祖母の実家の御堂にお祀りの御神像の台座、及び光背墨書に記されていた

『三吉氏』の名前

寛延四丁未八月吉日
作者 奥野村 椎葉六左衛門
施主 宮原村 三吉□□□

寛延四年とは1751年。偶然にも「相良 長寛」この方が生まれた年であり

「相良 長寛」、この方は12月生まれであって、御神像に記された『寛延四丁未八月吉日』とは時間軸が全く合わない・・・

 

私の最初の推測は、この時点で大きく外れた事が解りました。

 

では?何時、『三吉氏』は私の住む集落に来られたのか?

おそらく・・『久保本氏』と御一緒に・・・

 

そこで、「美作三輪庄」の江戸時代を調べると、後世、江戸時代「美作三輪庄」は

『津山藩』であった事が解りました。

『津山藩主』は・・美作津山藩の初代藩主は・・『森 忠政』

『森 忠政』・・えっ?・・えええええ~っ!!!!?

この時も「大声」が出てしまう程、驚いてしまいました!!

何故ならば・・・

『森 忠政』・・森氏。 森氏の祖「森 頼定」の妻は、

宮原の一族の先祖「橘公業」の娘であり

球磨郡久米郷を相続した「橘公員」の姉『薬上助局』 !!!

 

どうなっているのだろう・・!???

「美作三輪庄」は・・・何故か「橘公長」・「橘公業」所縁の方々と繋がっている!!??

 

ここから・・「津山藩」を調べると・・「小豆島」に繋がっている事が解りました・・・

「小豆島」から、180人以上の方々が、球磨郡久米郷宮原村に移住されている・・・・

しかし、此の事は幕府側の記録にも残っておらず、相良藩史誌にも痕跡を残していない・・

 

非常に長くなりましたので、この続きは次回に書かせて頂きます。

長々と書いた文章、お読み頂いた皆様、ありがとうございます<m(__)m>

 

こちらは、次回

其の2.続 大進展!小豆島とも繋がるか?久保本氏 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12381169789.html