前回のブログ『古代からの井処(いどころ)球磨と繋がる方々』より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12543056818.html

 

2019/11/16 22: 22 追記

お詫び ブログ内でご紹介させて頂いた、サイト「遺跡ウォーカー」様の全ページがエラーにより本日閲覧不可となっていました。

2019/11/17 06:52 再追記

サイト「遺跡ウォーカー」様の全ページ 閲覧可能となっていました。(^'^)

 

前回のブログも沢山の方々に御覧頂けた事を心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。

 

私の住む旧球磨郡久米郷宮原村の縄文時代の遺跡から地元の古代を知る上で非常に重要な出土品が見つかっていた事に気が付きました。

そこで今回は速報とさせて頂きます。


 

旧球磨郡久米郷宮原村熊野の縄文時代の遺跡から出土していた 石杵

 

①気が付いたきっかけ

一昨日(11月13日)、キュウリの収穫中にふと頭に浮かんだ「別件」が気になり何気なく、

遺跡ウォーカー 様のサイトを見ていました。

http://www.isekiwalker.com/pref/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C/220

 

気になっていた「別件」とは私の住む集落から出土していた弥生時代の有肩打製石器 だったのですが、確認後、ふと気が付いたのです・・・

『熊野遺跡』 縄文

何だろう??? と画面を開くと・・・

http://www.isekiwalker.com/iseki/180265/

 

熊野遺跡

時代  縄文 
所在地
熊本県球磨郡あさぎり町岡原北熊野 
緯度経度  32.240722, 130.943000 
遺構概要  包含地 
遺物概要  map94:
石杵 
発掘概要

旧、球磨郡岡原村宮原熊野

 

とありました。

縄文時代の石杵・・・??

そう言えば・・

3週間程前に椎葉のおじが家に遊びに来られていた時に、帰宅していた主人と私が聞いていた話がありました。

「おじさんが小学生の時の話ばってん

ここ(私の家)からまっすぐ久米(奥野)の方に向かった熊野の桑畑を整地していたら沢山の石器が見つかったとバイ。

見つかった石器は大きな箱に入れられて、小学校に持ってきなった!(持って来られた)皆で見たけど、その箱の中には石で出来た器(うつわ)や皿のような物や、槍の先端のような物、石の棒のような物とか加工された変わった形の石(ブーメランのような)、など沢山入っていて、槍の先端のような物は物凄く尖っていて今でも切れそうな感じやった! おじさんは、それを見て、昔の人は凄かったとやな~!!って感動した事を今でも覚えているとバイ!この辺りにはむか~しから人が住んでいた証拠でもあるとタイね(^'^)」

と、椎葉のおじは懐かしそうに当時の事を話してくれました。

 

私は、先に書いた 熊野遺跡 縄文 石杵

の言葉を見て、「おじさんが見たと言う石器の話の事かな・・・?」と凄く嬉しくなったのです。

椎葉のおじは御年90歳。発見は今から80年以上も前の事になります。

しかし・・石杵ってドングリでもすり潰していた物なのかな?? などと考えながら気になって調べてみる事にしました・・・

所が・・!! 石杵はドングリをすり潰すような そんな物ではなかったのです!!

\(゜ロ\)(/ロ゜)/

縄文時代の遺跡から出土した石杵は日本全国のどこからでも出土するような物では無かったのです!!

 

②石杵と辰砂

★石杵はとても貴重な物だった・・・!!

 

石杵」と ネット検索を行った所、予想とは違い、ネット情報が非常に少なく、さらに地域限定である事に気が付きました!!

 

最初に確認した記事は 朝日新聞デジタル様

徳島)縄文後期の「朱」生産地か 阿南・加茂宮ノ前遺跡 でした!

https://www.asahi.com/articles/ASM2L43J0M2LPUTB007.html

 

2019年2月20日03時00分 朝日新聞デジタル様

徳島)縄文後期の「朱」生産地か 阿南・加茂宮ノ前遺跡 より

徳島県阿南市の加茂宮ノ前遺跡の発掘調査で、縄文時代後期(約4千~3千年前)の赤色顔料(水銀朱)の精製に使ったとみられる石杵(きね)や石臼など1千点以上が見つかった。中略・・・

調査では、縄文時代後期の集落跡から、石杵と石臼計300点以上のほか、表面に水銀朱が塗られた耳飾りや土器など計700点以上も見つかった。同センターによると、同時期の水銀朱の精製に関わる遺物は、三重県度会(わたらい)町の森添遺跡で約30点見つかったのがこれまで国内最多とされていたという。

 発掘された土器の中には、
九州地方の土器の特徴を持つ物が含まれており、地域交流をしていたことがうかがえるという。

以上 

徳島)縄文後期の「朱」生産地か 阿南・加茂宮ノ前遺跡 より

 

赤色顔料(水銀朱)の精製に使ったとみられる石杵(きね)や石臼

発掘された土器の中には、九州地方の土器の特徴を持つ物が含まれており、地域交流をしていたことがうかがえるという。

 

私は非常に驚きました!

赤色顔料(水銀朱)の精製に使ったとみられる石杵(きね)

 

石杵(きね)と赤色顔料(水銀朱)・・・

その関係をさらに調べました!!

 

すると、以下のPDF中の80ページ以降にとても重要な事が記載されていました!。

http://www.jssscp.org/files/abstract/14_poster.pdf

 

80ページ

滋賀県内出土赤色顔料関連資料調査(2)と題した

中川正人氏 (滋賀県文化財保護協会)
降幡順子氏 (京都大学大学院人間環境学研究科)

の論文です。

 

滋賀県内出土赤色顔料関連資料調査(2) より 以下抜粋

 

朱に関する資料として、加工具、調整具にあたる石杵、石皿、特殊な土器などが新たに調査資料に加わった。

朱の製造に関する資料として、守山市酒寺遺跡、播磨田東遺跡などから石杵や石皿、特殊な土器などが出土ている。朱の利用目的には着色材料としての役割に加え、仙薬としての利用が指摘されており、そうした調剤のための用具として特殊な土器などが存在する可能性がある。

赤色顔料関連調査資料一覧(抜粋) より

 6  正楽寺遺跡 調査資料 鉢 時代(縄文後) 円筒状ベンガラ検出

 7  正楽寺遺跡 調査資料 石杵・顔料・小型鉢 加工調整具 時代(縄文後

13 高島町内遺跡 調査資料 石杵 加工調整具 時代(弥生後) L字形

14 酒寺遺跡 調査資料 石杵 加工調整具 時代(弥生後) L字形

15 五村遺跡 調査資料 石杵 加工調整具 時代(弥生後) L字形

23 播磨田東遺跡 調査資料 石杵 加工調整具 時代(古墳中) 棒状、住居跡内

 

以上 滋賀県内出土赤色顔料関連資料調査(2) より

 

拝見させて頂いて「石杵」は「」の「加工調整具」である事が良く理解出来ました・・・

 

さらに、「石杵」がいかに重要で尚且つ貴重な品であるのかを知る事が出来たサイト様がありました。

原倭国の拠点集落 下鈎遺跡(しもまがり) 弥生時代後期 サイト様

出土物 のページに 「その事」が記されていました。

http://shimomagari-iseki.yayoiken.jp/mk-syutsudo.html

 

原倭国の拠点集落 下鈎遺跡(しもまがり) 弥生時代後期 サイト様の

出土物 石杵 より

赤い色は神聖な色として、縄文時代から古墳時代にいたるまで、土器や木製品の表面に塗られたり、お墓に使われたりしてきました。これらの赤色顔料にはベンガラ(酸化鉄)と辰砂(硫化水銀の朱)の二種類があります。
ベンガラは入手、加工が簡単ですが、
朱は採集できる場所が限られて、調合するにも高度な技術が必要でした。水銀朱は採集地で、大まかに粉砕して供給され、消費地で石杵と石皿を使ってすりつぶし微細化して使ったようです。
下鈎遺跡ではこのような
石杵3点も見つかっています石杵は出土する例が少ないので、3点も出土することは珍しく、下鈎遺跡で水銀朱の精製を行っていた可能性があります。

 

以上 

原倭国の拠点集落 下鈎遺跡(しもまがり) 弥生時代後期 サイト様の

出土物 石杵 より

 

朱は採集できる場所が限られて、調合するにも高度な技術が必要でした。水銀朱は採集地で、大まかに粉砕して供給され、消費地で石杵と石皿を使ってすりつぶし微細化して使ったようです。

石杵は出土する例が少ない

 

ちなみに下鈎遺跡(しもまがり)は弥生時代後期の遺跡

旧、球磨郡岡原村宮原熊野の熊野遺跡縄文時代の遺跡であり・・その地からは

石杵が出土していた・・・

 

水銀朱は採集地で、大まかに粉砕して供給され、消費地で石杵と石皿を使ってすりつぶし微細化して使ったようです。

水銀朱(辰砂)は・・この辺り、球磨郡旧宮原村にそびえる黒原山の裏側で取れましたよ!(^'^)

(・・・何処から・・えええええ~っ!? とのお声が聞こえたような・・・)

本当です(^'^)

 

③辰砂も採れる黒原山周辺は鉱物の

  恵みの山

 

辰砂が黒原山の周辺で採れる事は以前から知っていました(^'^)

しかし、きちんとした情報をあらためて得ようと、今朝、集落内の郷土研究家でいらっしゃる宮广様にお電話をかけてお話を伺う事が出来ました(^'^)

 

宮广様は

ブログ『球磨と古代の製鉄②

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12335472032.html

ブログ『孝霊天皇様後裔の方と白髪岳 と パイプ状ベンガラのプレゼント

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12485134756.html

等でご紹介させて頂いたように

御自分の足で球磨・人吉の至る所を歩き回り、御自分の手で球磨の古代の「形」を復元されていらっしゃいます。

敬服と言う言葉では足りない、私が心から尊敬する方です。

球磨と鉄の関係を、見事に御自分の手で証明された方です。

 

宮广様に辰砂(水銀朱)について伺ったお話

『黒原山の反対側、球磨郡多良木町槻木(つきぎ)、旧槻木村には真っ赤な辰砂(しんしゃ)、赤い石がむき出しになった地層がある(普通に人が行ける場所)

槻木の辰砂(しんしゃ)については求麻郷土研究会住吉先生が特に詳しく、以前、求麻郷土研究会の例会で、辰砂(しんしゃ)採掘地に会員の方々と伺って見てきたけれど、とても赤い石が確認出来ました。』

との事でした。

 

画像 辰砂(しんしゃ) ウィキペディアより

Cinnabar on Dolomite.jpg

 

★水銀朱は採集地で、大まかに粉砕して供給され、消費地で石杵と石皿を使ってすりつぶし微細化して使った・・・

 

さらに宮广様から以下のお話を伺う事が出来ました。

『黒原山の反対側、槻木の辰砂(しんしゃ)だけではなく、黒原山の麓には宮原銀山もありましたね。金・銀含有アンチモニの鉱山です。

宮原銀山だけではなく、深田(現あさぎり町深田)には深田銅山、五木村にも銅山がありました。さらに、球磨村の横井集落ではマンガンの採掘が戦後すぐまで、行われていたのですよ。マンガンを背負って降りる道を地元の人はマンガン道(マンガンみち)と今でも呼んでいます。

何故?球磨郡は恵まれた鉱物の産地なのか?

それは、この地が遠い古代、海底だったからなのです。

海底の熱水鉱床が噴水していた場所だったからなのです。(^'^)

ちなみに深田銅山は白亜紀につくられた鉱床です。 ひろ●さんも、熱水鉱床を少し調べてみてください。球磨の鉱物の意味が解りますよ(^'^)

しかし、熊野から(旧宮原村熊野)”石杵”が見つかっていた事は知らなかった~!!

辰砂(しんしゃ)の加工用でしょうね。

ひろ●さん、”石杵”の事を見つけてくれてありがとう! いい話が聞けました(^'^)』

 

とおっしゃって下さいました。

良かった~!!\(^o^)/

 

※ひろ●さんも、熱水鉱床を少し調べてみてください。球磨の鉱物の意味が解りますよ

 

わたくし、早速勉強致しました(p_-)

熱水鉱脈 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E6%B0%B4%E9%89%B1%E8%84%88

 

熱水鉱脈(ねっすいこうみゃく)とは、高温の熱水が岩石の割れ目を通過する際に様々な元素が沈殿してできた鉱脈のこと。主に石英が主体の場合は「石英脈」とも呼ばれる。
熱水の浸透で岩石中の鉱物が変質したものは「熱水変質」と呼ばれ、珪酸が沈殿して岩石が硬質になったものは「珪化」、熱水中の元素が岩石内に鉱物を生成させたものは「鉱染」と呼ばれる。

 

熱水鉱脈は、地下のマグマで熱せられた熱水が通過途中の岩石の鉱物や元素を溶かしこみながら上昇し、温度や圧力の低下などで含まれていた鉱物が岩石の裂罅(れっか)に結晶化して形成された鉱脈である。主に石英などのありふれた鉱物からなるが、金属鉱物や希少鉱物が生成する場合もある。

熱水鉱床
地下から上昇してきた熱水に金や銀、銅、鉛、亜鉛などの有用元素が含まれていた場合、形成された熱水鉱脈は熱水鉱床として採掘対象となる。

鹿児島県の菱刈鉱山(金)や足尾銅山(銅)など多くの金属鉱山は岩石内を通る熱水が析出して岩脈となったものである。菱刈鉱山、土肥鉱山のように温泉が湧出する鉱山も多い。

海底火山近くの海底においては、周囲の海水が熱水の起源となり
海底熱水鉱床を形成する。このような熱源が豊富な中央海嶺付近は多くが深海底にあり、高い温度と水圧により海水の温度は300℃近くあるが沸騰しない。このような超臨界状態の海水は周囲の基岩から塩類を高濃度に溶出して熱水噴出孔から海水中へ噴出する(ブラックスモーカーなど)が、その周囲の0℃に近い海水に触れることで塩類が直ちに析出沈殿し、チムニーと呼ばれる噴出塔の形成も見られる。また周囲に大量の金属塩類が沈殿して鉱床を形成する。このような鉱床は堆積鉱床と呼ばれる。マンガン鉱はこうして得られる鉱物の代表的な例である。

以上 ウィキペディアより

 

なるほど(p_-) 読んでみて わかったようで・・・・難しいけれど・・

しかし 

何故?球磨郡は恵まれた鉱物の産地なのか?

それは、この地が遠い古代、海底だったからなのです。

海底の熱水鉱床が噴水していた場所だったからなのです。(^'^)

宮广様のお言葉の意味はしっかり理解出来ました(^^)/

 

さらに辰砂(しんしゃ) ウィキペディアより(p_-)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E7%A0%82

 

辰砂(しんしゃ、cinnabar)は硫化水銀(II)(HgS)からなる鉱物である。別名に賢者の石赤色硫化水銀、丹砂、朱砂などがある。日本では古来「丹(に)」と呼ばれた。水銀の重要な鉱石鉱物。中略・・・
『史記』巻128貨殖列伝には、「巴の地方にいた清という名の寡婦は、先祖が丹穴を手に入れたことで、数世代にわたり巨利を得ていた」(而巴寡婦清、其先得丹穴而擅其利數世)と、
辰砂の発掘地を見つけた人間が巨利を得た記述がある。

中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになった。

日本では弥生時代から産出が知られ、いわゆる魏志倭人伝の邪馬台国にも「其山 丹有」と記述されている。古墳の内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていた。漢方薬や漆器に施す朱漆や赤色の墨である朱墨の原料としても用いられ、古くは伊勢国丹生(現在の三重県多気町)、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川上流などが特産地として知られた。平安時代には既に人造朱の製造法が知られており、16世紀中期以後、天然・人工の朱が中国から輸入された。

現在では大分県、熊本県、奈良県、徳島県、などで産する。

以上 ウィキペディアより

 

※日本では弥生時代から産出が知られ、いわゆる魏志倭人伝の邪馬台国にも「其山 丹有」と記述されている。

※現在では大分県、熊本県、奈良県、徳島県、などで産する。

 

おんやっ(?_?)・・・(p_-)

 

現在では大分県、熊本県、奈良県、徳島県、などで産する。

徳島県・・そうか!

先にご紹介した阿南・加茂宮ノ前遺跡徳島県内の遺跡! 石杵が出土

と言う事は・・・

熊本県

熊本県の槻木でも辰砂(しんしゃ)は採掘されていて・・・反対側の旧宮原村熊野の縄文時代の遺跡『熊野遺跡』からも石杵が出土していた・・

一致しました!!!

そう言えば・・

徳島県といえば麻植・・

球磨郡と言えば・・求麻・・

辰砂(しんしゃ)だけではなく、麻の繋がりについては以前から非常に気になっておりました・・・

 

ここまで、石杵について 勉強して、ようやく理解出来ました。

旧宮原村熊野の縄文時代の遺跡『熊野遺跡』から石杵が出土していた  この事は

めちゃくちゃ重要な事だったのだ!!

\(゜ロ\)(/ロ゜)/

と言う事を(p_-)

 

しかし・・・他地域の方々は辰砂(しんしゃ)の産出と石杵を結び付けて、素晴らしいアピールをされていらっしゃいますが・・・

私の住む「村」は・・・・目の前にそびえる黒原山の反対側では辰砂が採れていた上に村内では石杵が出土していたと言うのに・・・今まで何も・・・

しかし(ー_ー)!!

発見が今から80年以上前の日本が暗い時代の真っただ中・・・

球磨郡の旧宮原村熊野から貴重な石杵が出土していても、その重要性を取り上げる事は出来なかったのかもしれません。だからこそ、ようやく私が気が付いたのかもしれません・・・

「気が付いていない事がまだまだ沢山あるよ!」 

古代のこの地に住まわれていた方々のお声を聴く事が出来たのかもしれません・・・

古代の方々、私がしっかりと全国の方々にお伝え致します<m(__)m>

今回も大きな見えない御力にお導きを受けたような気が致します。

 

私の住む古代からの井処(いどころ)からは、古代の祭祀に欠かせない、石杵が出土していたと言う事を、全国の方々にぜひお伝えしたい!と考えて今回は『速報』と言う形でご紹介させて頂きました。

時代は縄文時代です。 縄文時代の「いつ」にあたるのか等、今後調べて、解った事は続報としてご紹介させて頂きます。

 

男子 無大小皆鯨 面文身

以 朱丹 塗其身膿 如中国用粉也

其 山有丹 ・・・

 

次回『石杵と赤いお顔と王冠の御神象 古代の井処に続きます。