前回のブログ

速報!(再追記あり)縄文時代の遺跡から石杵が出土していた私の住む村 古代の井処

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12545434168.html

より続きます。

 

2019/11/22 10:00 追記

参考サイト様へのリンクミスを修正させて頂きました<m(__)m>

2019/11/22 10:55 追記

ウィキペディア「熊襲」の記述のご紹介の下に、改めて、ど素人ながらの私の考えを書かせて頂きました。<m(__)m>

 

私が球磨から発信するこのブログにご興味を抱いて下さる方々に

心より感謝申し上げます。

ありがとうございます。

 

初めに、お詫びがございます。

前回ご紹介したサイト様、「遺跡ウォーカー」様の全ページが昨日(2019/11/21)確認した所、再度エラーにより閲覧不可となっていました。

『熊野遺跡』に関する詳細は、ブログ内で転記させて頂いた通りですが、サイト様の早急な復旧を祈ると共に、今後、地元に残る資料等も含めて更なる詳細を調査して参ります。

地元の辰砂の採掘、石杵の出土に気が付いた事により、私は球磨の古代の謎の”核心”についに『足を踏み入れた』のでは!?・・・そう考えております。

 

遺跡ウォーカー」様の全ページが閲覧不可になっている事で非常に残念な事が複数あります。

実は、先日『熊野遺跡』に気が付いた後、「遺跡ウォーカー」様のページをあらためて拝見させて頂いて、球磨の私が知らなかった複数の『遺跡』に気が付いていました。

その一つが以前、ブログ『孝霊天皇様の妹君「雨宮媛」と雨宮神社様・・と夏目友人帳

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12489690058.html

でご紹介した『雨宮神社様』ですが、こちらは雨宮遺跡と言う名称が付いていました。

雨宮遺跡 時代は弥生時代

弥生式土器が出土している旨が記されていました。

遅くとも、弥生時代には『この地』は古代の方々が開発した『祈りの地』であったのかもしれません・・・

熊本県球磨郡相良村雨宮神社

 

媛うさぎ☆様のブログ ~ Destiny 癒しの御朱印巡り ~ 
【熊本】アニメ「夏目友人帳」の舞台のひとつ!! 「トトロの森」にある「雨宮神社」 よりお借りした

画像 雨宮神社全体風景  弥生時代の雨宮遺跡です

 

その他、私の家から500m程先に見える『岡本城址』(旧球磨郡岡原村岡本 現あさぎり町)

この地も古代遺跡である事が記されていました。(縄文であったか弥生であったか記されている内容の転記を行っていませんでした) 古代 『岡麓遺跡』と記されていました。

ブログ『私の日常を囲む山々』でも其の風景はご紹介させて頂いております。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12275395672.html

今回のブログの最後に書かせて頂く内容と、繋がってきます・・・

こちらも今後、地元に残る資料等も含めて更なる詳細を調査して参ります。

一つ理解出来た事があります。

それは、球磨の中世以降の豪族の方々が築城したと言われる多くの地は、古代からの遺跡跡であった・・・と言う事です。

昨日(2019/11/21)主人と球磨郡あさぎり町上、旧球磨郡上村の「麓城(上村城)」の紅葉を見に伺ったのですが、この地も、大変重要な古代からの土地であった事が良く理解出来ました。

詳しくは、次回以降書かせて頂きます。<m(__)m>

 

前回のブログで石杵と辰砂の関係について書かせて頂いた後、さらに勉強を致しました。

 

①私の地元は九州南部水銀鉱床群の    一部だった

以下のPDFがネット公開されていました。

「魏志倭人伝 」 と色料(顔 料 ・染料)
―古代 倭 国 の色 料 事情 につ いて―  鶴田榮一氏

https://www.jstage.jst.go.jp/article/shikizai1937/75/7/75_330/_pdf

 

拝読して解った事は

辰砂は日本全国のどこでも採れる鉱物ではありませんでした!
辰砂は水銀鉱床群から産出されます。

 

4.5 弥生時代 の丹砂(朱)の 事情 より

その時代に倭国に丹砂の産出があったのか,そして その産出地 は何処であったか,これは

邪馬台国の位置の比定にもかかわる問題でもある。

わが国の水銀鉱床群 の数は少なく北海道を除けばつぎのとおりである。

 

(1)大和水銀鉱床群(伊勢地方を含む)

(2) 阿波水銀鉱床群

(3)九州南部水銀鉱床群

(4)九州西部水銀鉱床群(他 鉱種中の副産物 と して の水銀を産する鉱床)

 

以上「魏志倭人伝 」 と色料(顔 料 ・染料)
―古代 倭 国 の色料事情 につ いて―  鶴田榮一氏 より

 

※わが国の水銀鉱床群 の数は少ない

日本国内の水銀鉱床群は4か所

 

鶴田氏は「魏志倭人伝 」 と色料(顔 料 ・染料)の中で『遺跡』の検証より邪馬台国近畿説を唱えていらっしゃいます。

しかし、上記の九州南部水銀鉱床群の一部であった旧球磨郡久米郷宮原村の熊野遺跡から石杵が出土していた事をお知りになられたら、とても驚きになられるのでは・・と私は考えました。

私は素人ながら考えます。縄文時代に辰砂(丹砂)の加工を行っていた球磨郡久米郷宮原村熊野の石杵を使用していた方々が弥生時代に辰砂(丹砂)の加工を止めていたとは到底考えられない!・・と。

弥生時代の遺跡なのですが・・・実は私の住む集落で困った事が起きていた事を最近知る事が出来ました。

戦時中、私の住む集落「宮麓」内で相次いで石器や免田式土器等が発見されていたのです。

家から300m程先に、字 貝埼(きゃんさき)と言う場所があるのですが、その貝埼(きゃんさき)に繋がる小さな農道を作っていた際に大量の石器や土器等が出土したそうなのですが、これらが一体何処に動いたのか全く不明なのです。

さらに、現岡原霧島神社御鎮座地の山の近くの斜面よりも、戦時中、大量の古代の出土品が発見されたのですが、これらも、何処に動いたかは全く不明との事でした!

しかし、山の所有者である御方のおじい様が、一品だけ、他に動くのを避けて家に保管されている事を知りました。私はまだ拝見していないのですが、壺の形をしており、おそらく免田式土器であろう・・とのお話は伺っています。

これらの遺跡は「遺跡ウォーカー」様のサイトには記されていませんでした。

しかし、私の住む集落には明らかに遅くとも弥生時代の遺跡が存在していた事は明らかです。 この地には弥生時代明らかに人が住んでいらっしゃった事が判明致しました。

行方不明となった出土品の中に何が含まれていたのか・・・非常に残念ですが、今後、この件も追跡調査を進めて参ります!

 

あらためて

わが国の水銀鉱床群 の数は少なく北海道を除けばつぎのとおりである。

(1)大和水銀鉱床群(伊勢地方を含む)

(2) 阿波水銀鉱床群

(3)九州南部水銀鉱床群

(4)九州西部水銀鉱床群(他 鉱種中の副産物 と して の水銀を産する鉱床)

 

ネットで地図の画像を探したのですが、公開されているネット情報の中で最も解りやすい地図を拝見する事が出来ましたので、勝手ながらお借りさせて頂きます<m(__)m>

日本とユダヤのハーモニー様 サイト

若杉山遺跡の歴史的背景 辰砂と海洋豪族の繋がりから浮かび上がる邪馬台国の真相より

http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=282

画像をお借り致しました<m(__)m>

水銀鉱床群分布図

水銀鉱床群分布図

 

私の住む球磨郡は九州南部水銀鉱床群の中にすっぽり入っていた事がしっかりと理解出来ました。

この九州南部水銀鉱床群の中の旧球磨郡久米郷宮原村熊野の縄文時代の遺跡から

辰砂の加工に必要な石杵が出土していた・・・

黒原山(くろばる山)周辺域は辰砂の産出地帯・・・

私は・・とてつもない事に気が付いたのかもしれない!!

あらためて、驚きました・・・!!

 

②朱塗りのお顔に王冠

前回のブログの最後に書いた 三行の言葉・・・

男子 無大小皆鯨 面文身
以 朱丹 塗其身膿 如中国用粉也
其 山有丹 ・・・

 

この3行を書いた後、頭の中に赤いお顔の御神像が浮かびました。

どちらの御神像だったのか・・・記憶をたどり寄せてようやく気が付いたのです!

ブログ『旧宮原村古地図と岡原村の神社様

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12413388345.html

でご紹介した御神像

さらに、その御神像に関してブログ『相良藩秘中の秘義と「おかはる村」』の中で

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12414157968.html

ブログ宮原誠一の神社見聞牒宮原様からご教示を頂いていました。
 

宮原様から頂いたご教示

〉正八幡宮の祭神は本来、大幡主です。出身は白族の白川伯王家です。
〉大幡主の中国風の姿で王冠を被った姿は初見です。
 今まで見て来ました御神体は平安朝の衣冠束帯でした。
〉大幡主は熊野神社の御祭神でもあります。
〉旧岡本村斉堂の正八幡神宮は、「岡本城主岡本頼春(相良頼春)公をお祀りされていると伝わっている」と述べられていますので、恐らく、左右のどちらかの衣冠束帯の御神体でしょう。正八幡神宮に追祀されたと考えます。
と言うお話がありました。

 

そうです 赤いお顔で王冠を御被りの御神像とはこちらの御神像でいらっしゃいます!

 

私は、前回からの流れの中、こちらの御神像を拝見して

震えが止まらなくなりました・・・

 

私の中に流れる何かが大きく騒いでいる・・・・

不思議ですがそう言う感じでした・・・

 

球磨は、そして球磨周辺を精製する為の鉄鉱石が産出し、金・銀が産出し、さらに、辰砂が産出し、他にも翡翠沢山の鉱物が産出する、言わば地球の神様がお造りになられた恵みの

「宝の土地」だったのです。

古代、そう弥生時代よりも遥か以前から『この地』は世に知られていたのではないのでしょうか!

しかし、もしも、この事が原因で、国内だけではなく・・海外からも攻められる可能性もあったかもしれません・・・

しかし、そのような事は古代以降 無かった・・・

それは・・隠されたからなのではないか!?

以前から不思議だと考える事がありました。

ブログ『球磨郡球磨村神瀬(旧神瀬村)の地名』を書いたあたりからの疑問でした。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12314802139.html

 

日羅の父 火葦北阿利斯登 (刑部靫部阿利斯登)

靫負部(ゆげいべ)として、朝廷の親衛軍として王族に近侍する役目を負った。

 

何故?朝廷の親衛軍の方々が球磨に隣接する海側の葦北にいらっしゃったのか!?

ずっと疑問だったのです・・・

しかし、海側から何者かが攻めてくる事があれば、「恵みの地」 球磨は陥落してしまいます。

その事を防ぐ為の朝廷の親衛軍の方々ではなかったのでしょうか!?

 

古代の『球磨』をめぐり、国内では争奪戦が起こっていた事は容易に推測できます。

先にご紹介させて頂いた御神像は 古代のいつの時代かにこの地に勢力を持たれた『古代豪族』の王の御一人なのかもしれません・・・

しかし、今、私は確信に近づいています。

古代の球磨の国とは狗奴国では無かったのではないか!?

と・・・

ようやく、理解出来ました!

球磨は古代の曙に深く関わる地である!

と・・・

 

以前から私は度々「熊襲」の呪縛から沢山の方々が解放されて頂きたい!

と書いて参りました。

しかし、私自身が「熊襲」の呪縛、「狗奴国」の呪縛にしばられていたのではないか!?

最近の研究家の方々は「熊襲」と「狗奴国」について、「球磨」について今までとは全く異なる見解を出されていらっしゃいます。例えば・・

ウィキペディアの熊襲の記述をご覧下さい!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%A5%B2

 

肥後国球磨郡(くまぐん。現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国曽於郡(そおぐん。現鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族とされる。

また5世紀ごろまでに大和朝廷へ臣従し、「隼人」として仕えたという説もある(津田左右吉ら)。なお、隼人研究家の中村明蔵は、球磨地方と贈於地方の考古学的異質性から、熊襲の本拠は、都城地方や贈於地方のみであり、「クマ」は勇猛さを意味する美称であるとの説を唱えている。

また、
魏志倭人伝中の狗奴国をクマソの国であるとする説が、内藤湖南、津田左右吉、井上光貞らにより唱えられている。ただし、この説と邪馬台国九州説とは一致するものではない。

一方宝賀寿男は、熊襲の「クマ」は「熊(羆)」のトーテムを表し、神功皇后と戦った羽白熊鷲などは、その「熊」・「鷲」の名称や「...其の為人、強く健し。亦身に翼有りて、能く飛びて高く翔る...」といった記述から、
「熊、鳥」をトーテムとする天孫族の末裔で、邪馬台国王族の子孫とする説を唱えた。

また津田左右吉らの説に反論し、狗奴国は「狗(犬)」のトーテムを表し、犬狼信仰と犬狼獣祖伝説を持つ縄文人の国であると想定した。

隼人は「吠え人」(狗のように吠える人)の意味で、狗奴国の末裔が隼人であると唱えた。文献資料ではなく、土器の分布の面からは、免田式土器(弥生期から古墳初期にかけて)が熊襲の文化圏によって生み出されたものではないかと森浩一は考察している。

参考 宝賀寿男氏 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E8%B3%80%E5%AF%BF%E7%94%B7

 

私は、数年前まで宝賀氏が球磨=狗奴国説を唱えていらっしゃった事はネットを拝見して知っていました。しかし、宝賀氏はこの数年間で考えが大きく変わっていらっしゃる事に最近気が付いておりました。

 

2019/11/22 10:55 追記

私の考えですが

縄文人、弥生人、 これからは過去の時代のように異なる民族である・・と言う考えは変えて行くべきなのでは・・と思います。もちろん、私自身もです。

前々回のブログ『古代からの井処(いどころ)球磨と繋がる方々』で書かせて頂いたように

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12543056818.html

最近、新たに考え始めている事があります・・
古代の九州を襲った火山の猛威の中を生き延びた『
日本最古のベンガラ彩色耳栓』を使用していた人達(約1万2,000 - 7,000年前) が、火山から身を守る為に新天地を求めて日本列島を北上、または海を渡り大陸へと移っていた・・という推測も可能ではないのか!? と・・・・

大陸へと渡った方々が、例えば「別の種族」の方々と血縁関係を持って、その後、古代日本へと戻って来た可能性なども推測可能だと思うのです。

その一例として、『古代からの井処(いどころ)球磨と繋がる方々』で書いた

中国 ⇒ 球磨 ⇒ 古代朝鮮半島 ⇒
⇒北部九州

の図式が存在していた可能性も考えられると・・・

邪馬台国(連合国家)の方々も狗奴国の方々も、魏志倭人伝では「倭種」である・・つまり同じ「倭人」であるとちゃんと記されています!

2019/11/22 10:55 追記でした。

 

球磨は静と動が共存する

と私は感じます。

静は祈り

動は躍進の為

 

私の中には隠そうとしても隠しきれない「動」の部分があるのは・・・事実です。

動は躍進の為

 

※鳥獣率いて舞い天地振動は、軍士の躍進と地響である。

 

私は、ずっと以前から球磨の山々を見ながら、地元の黒原山(くろばる山)を見ながら、

いつも動・躍進を感じていました。

この事は書かないでおこう・・と思っていたのですが、今は違います。

皆様方にお伝えすべきだと・・・

 

地元の山々を見ながら、朱塗りの王冠を御被りの御神像を拝見しながら

この地の古代の方々の叫び声が聞こえてきます・・・

※鳥獣率いて舞い天地振動は、軍士の躍進と地響である。・・・

 

そしてこの地は平安時代末期まで

王家領 球磨御領 であり

治天の君 天皇様

荘園領主でいらっしゃいました。

 

古代の方々の叫び声・・・

ONE OK ROCK - I was King [Official Video from Orchestra Japan Tour]
ONE OK ROCK

 

 

井処の意味は今回また・・・書けませんでした。申し訳ございません<m(__)m>

しかし、私の中に流れる何かが、大きな御力が、優先すべき事を書くようにとおっしゃっているようなのです。

ひろっぷ

 

次回『球磨の少年が発見していた有肩打製石斧・鯨の骨・免田式土器の写真と さらに「丹」の神様』に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12549322334.html