前回のブログ『孝霊天皇様と球磨川のかっぱ様 細媛様をお祀りする曾祖母の実家』より
続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12487098803.html
2019/07/07/15:10 追記
本日、2019-07-07 00:47 投稿のブログは タイトルの変更、さらに
京都貴布禰神社様についての追記、及び、文章内の数か所の編集、内容変更、
を行いました。
前回、平安時代末期まで王家領であった『球磨御領』と書きましたが、一部訂正を<m(__)m>
詳しくはウィキペディアに記載されています。
球磨荘 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%83%E7%A3%A8%E8%8D%98
球磨荘(くまのしょう)は、肥後国球磨郡一郡を領域とした荘園。球磨御領とも称された。
概要
元は平家政権の下で設定された蓮華王院を本所とする王家領であり、平頼盛をはじめとする平家一門もその経営に関わっていた。治承の乱の後、球磨荘は平家没官領として一部が没収の対象(ただし、頼盛の所領は後日返還)となり、建久3年〈1192年)に該当部分を王家領・関東御領・公領などに分割する片寄が実施され、人吉荘・永吉荘などが成立した。王家領とされた人吉荘には後に相良氏が地頭として入り、勢力の基盤としていくことになる。
以上 ウィキペディアより
つまり、鎌倉時代に入っても、人吉荘は王家領が存続されていた・・となります。
私が住む、球磨郡久米郷は西園寺公経と宮原の一族の先祖橘公業が替地をして得た土地です。橘公業は本領であった伊予国宇和郡を西園寺公経と替地、肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷を得ました。
橘公業の所領地はその他、出羽国小鹿島(現秋田県男鹿市)、出羽国秋田郡(現秋田県南秋田郡、潟上市、秋田市)等もありました。
さらに、肥後の後裔「宮原の一族」は古代の火の君の本拠地、「現氷川町宮原」を所領していました。
西園寺公経 この方は ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E7%B5%8C
鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曾祖父となった稀有な人物である。
平頼盛の曾孫でもいらっしゃり、上記に記された『稀有な人物』が所領していた土地が球磨郡久米郷であった・・と言う事が解ります。
このような「土地」が球磨です。
この球磨には、橘公業の後裔を含む伊予橘氏が多く住されている事を前回ご紹介致しました。伊予橘氏とは皇統の「橘氏」と孝霊天皇様の後裔「越智氏」との姻戚関係により派生。
孝霊天皇様の後裔「越智氏」は、孝霊天皇様の皇子『彦狭島命(伊予皇子)』様の系であり、物部大新河から進む「小市国造」の系さらには、『紀大人』から進む「紀氏」の系とも姻戚関係にありました。
孝霊天皇様の後裔の方々だけではなく、孝元天皇様の後裔、那須氏・阿部氏も球磨には多く住されている事もご紹介致しました。
実は・・それだけではありませんでした。
前回のブログを書いた後、数年間に渡って私が調べていた事をあらためて見直して、この事にようやく気が付きました。
『通説』で見ても『この事』は明らかです。
①孝霊天皇様の母君『押媛様』
ウィキペディアより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E5%AA%9B
押媛(おしひめ)は、欠史八代、孝安天皇の皇后。孝霊天皇と大吉備諸進命の生母。
『日本書紀』本文の皇后で天足彦国押人の娘かつ孝安天皇の姪である。
駿河浅間大社の大宮司家(富士氏)は和爾部姓で和邇系図(和珥氏を参照)を伝えており、真偽は詳らかでないが、孝昭天皇の皇子天足彦国押人命の子として「押媛命(一に忍鹿比売命、母は建田背命の妹 宇那比媛命也。孝安天皇の皇后)弟 和爾日子押人命(一に稚押彦命、母同上。大倭和邇里に居る)」と記載されている。
天足彦国押人命様の後裔 小野氏 ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%B0%8F
7世紀前半から平安時代中期にかけて活躍した氏族である。姓ははじめは臣であったが、八色の姓により朝臣に列せられた。孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命(あめのおしたらしひこのみこと)を祖とする和珥氏の枝氏である。
武蔵七党の筆頭の横山氏(猪俣氏)は、小野篁の末裔。横山氏(猪俣氏)の一族で、新田氏と自称した由良氏(横瀬氏)も小野を本姓としている。
武蔵七党の筆頭の横山氏(横山党)の方々は球磨に多く住されています!
横山党 ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%9A
横山党(よこやまとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国多摩郡(現・東京都八王子市)横山荘を中心として、武蔵国(大里郡・比企郡 - 橘樹郡)および相模国北部に割拠した同族的武士団である。武蔵七党の一つ。武蔵七党系図の筆頭。有名人としては、中条家長(初代評定衆として御成敗式目の策定に関与)や愛甲季隆(弓の名手。畠山重忠を討ち取る)、横山時兼(正治2年)(淡路国の守護)などが居る。時兼の叔母は鎌倉幕府侍所別当の和田義盛の妻、妹は和田義盛の長男常盛の妻であった。
※『平家物語』によると、治承・寿永の乱でも活躍し、小野成綱は尾張守護に補任された。
※源頼朝が鎌倉幕府を開くと、横山党の横山時広は軍功により横山荘の所領を安堵された。
※1221年(承久3年)、承久の乱で院側についた小野成綱の子尾張守護小野盛綱は、乱後逃亡し守護職を没収された。
※女子については系図に記さないが、秩父氏や波多野氏、梶原氏や和田氏、渋谷氏との通婚関係がみられる。 横山隆兼の娘は秩父重弘の妻となり畠山重能・小山田有重を産む。さらに隆兼の孫娘のうち一人は三浦一族の和田義盛、一人は高座渋谷の渋谷高重の妻となった。
横山党ウィキペディアに記載の「愛甲氏」は相良長頼公と共に球磨に来られました。後裔の方々が多く今でも住されています。
球磨郡錦町一武には江戸時代末期まで愛甲氏の私領があり、その地名は「横山」でした。
さらに、渋谷氏も相良藩の重臣として系を繋げて来られました。
和田氏も、もちろん球磨に住されています。家の一族の遠縁となられる数軒の和田家があります。
★女子については系図に記さないが、秩父氏や波多野氏、梶原氏や和田氏、渋谷氏との通婚関係がみられる。
わたし共宮原の一族の先祖橘公業の後妻は梶原景時の孫娘(梶原景高の娘)の方です。
橘公業の妻
祖父 梶原景時 父: 梶原景清、 母:横山孝兼の娘
父 梶原景高 妻は小野成綱の娘(先に書いた小野成綱 この方です!)
私は今まで、何故、一族の先祖「橘公業」が桓武平氏「梶原氏」と縁戚関係を結ばれていたのか??と疑問だったのですが、今回ようやく解りました。
母系の方々は孝昭天皇様の末孫の方々だったのですね・・!!
父「橘公業」母「梶原景高の娘」である「橘公員」。
橘公員は父より球磨郡久米郷を譲られた宮原の一族のご先祖様です。
つまり、橘公員は父方では孝霊天皇様の後裔であり、母方では孝昭天皇様に繋がっていた!! 良く理解出来ました。
通説で見ても、橘公業の後裔である球磨郡久米郷の「宮原の一族」は遡ると孝霊天皇様、孝昭天皇様、そして孝昭天皇様の孫娘様でいらっしゃる孝霊天皇様の母君「押媛様」と繋がっていた・・と言う事です。実は・・「通説」でなくても・・繋がっています
(意味深発言ですが後ほど<m(__)m> )
先にも書きましたように、宮原の一族だけではなく、球磨には孝昭天皇を祖とされる「横山党」の『愛甲氏』、さらには横山党と縁戚関係を結ばれた「渋谷氏」等の方々、秩父氏族「畠山氏」(畠山家は家の親戚です)等、沢山の後裔の方々が住されていらっしゃいます・・
②球磨の雨宮神社様
突然ですが、皆様は人吉出身の漫画家「緑川ゆき」氏によるアニメ『夏目友人帳』は御存じですか?
舞台は明確ではありませんが、実は「球磨・人吉」の風景をモデルとする描写が多数存在します。
参考 クマオタ.Com 様サイト 夏目友人帳の聖地巡礼!~熊本・人吉編~
https://kumamotootaku.com/natumeyuzintyo_seiti_hitoyosi/
相良村にご鎮座の雨宮神社様は 夏目友人帳シリーズ2期 『肆」 のオープニングでも登場する知る人ぞ知る!と言われる場所でもあります。
私は、媛うさぎ☆様のブログ ~ Destiny 癒しの御朱印巡り ~ 【熊本】アニメ「夏目友人帳」の舞台のひとつ!! 「トトロの森」にある「雨宮神社」 を拝見して、とても心を惹かれ、媛うさぎ☆様にブログのご紹介と素敵なお写真を転載させて頂く事をお願いしたところ、快くご了承して頂けました。
媛うさぎ☆様、 あらためまして、感謝申し上げます。ありがとうございました(^'^)
ご紹介致します。
媛うさぎ☆様のブログ ~ Destiny 癒しの御朱印巡り ~
【熊本】アニメ「夏目友人帳」の舞台のひとつ!! 「トトロの森」にある「雨宮神社」 です。
https://ameblo.jp/sakurazaka128/entry-12195576777.html
熊本県球磨郡相良村雨宮神社 前景 媛うさぎ☆様のブログより お写真を転載させて頂きました。
この不思議な森が雨宮神社様の御神域となります。
鳥居
鳥居の先は112段の階段になります。
階段を登りきった先に見える御拝殿
媛うさぎ☆様は『 なんとも言えない 神秘的な空気が漂っていて とても癒されました 』
とお書きになられていらっしゃいます。
御本殿
ご本殿奥の巨石のトンネル
こちらの巨石をくぐる事は三産くぐりと呼ばれます。
「幸せを産む」「安産」「お金を産む」 と言う御利益です。
媛うさぎ☆様にもお伝え致しましたが、実はこちらの巨石、冬至の朝に太陽光(光の球)が差し込むように設計されています。
私は、おそらく、こちらの巨石は神社様が創建されるより、以前、古代もかなり古(いにしえ)の時代からこちらに御鎮座なのではないのか!? と推測しております。
奥宮
媛うさぎ☆様 あらためまして、
素敵なお写真をお借り致しましてありがとうございました。
実は、球磨郡内には『雨宮神社』様が江戸末期まで 4社ご鎮座でありました。
元禄十二年(1699年)青井大明神(青井阿蘇神社)大宮司 青井采女佐 大神惟董 編者の
麻郡神社私考によると
川邊村(現相良村)・上村(現あさぎり町上)・岩野村(現水上村)・須恵村(現あさぎり町
須恵)の四社の『雨宮神社』様です。
其々の雨宮神社様の御祭神様は『山城國愛宕郡貴布禰神社』同體 となっています・・・
2019/07/07/15:10 追記
貴船神社様 ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E8%88%B9%E7%A5%9E%E7%A4%BE
貴船神社(きふねじんじゃ)は、京都府京都市左京区にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国に約450社ある貴船神社の総本社である。地域名の貴船「きぶね」とは違い、水神であることから濁らず「きふね」という。
水神である高龗神を祀り、古代の祈雨八十五座の一座とされるなど、古くから祈雨の神として信仰された。
高龗神様 ウィキペディアより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%A4%E5%8A%A0%E7%BE%8E%E7%A5%9E
『古事記』においては、淤迦美神の娘に日河比売(ひかはひめ)がおり、須佐之男命の孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売との間に深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)が生まれ、この神の3世孫が大国主神であるとしている。
一つ、気になった事がありました。
深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)
私の曾祖母(平川家の)実家は深水家なのですが、深水のおじから聞いたのは
『深水とは深い淵の水と言う意味だ』 と言うお話だったのです。
何か・・とても気になる女神様でいらっしゃいます・・
さらに
須恵村(現あさぎり町須恵)に御鎮座の雨宮神社様は、阿蘇神社同體『若宮神社』様と
『同宮』と記されています・・
上村(現あさぎり町上)の雨宮神社様は
厥初ハ拝殿ノミニテ本殿ナシ 杉ヲ以テ神木トス
と記されています・・・杉です
③孝霊天皇様の妹君『雨宮媛』様と母君
麻郡神社私考によると川邊村(現相良村)ご鎮座『雨宮神社』様の御祭神様の記述に非常に興味深い内容が書かれていました。
麻郡神社私考より
社家傳云 山州愛宕郡鞍馬山貴布禰神社同體
高龗神
船玉命
一ニ曰奥ノ御前 氏成私記曰日城地守ノ神明也
現在の雨宮神社様の縁起には、御祭神は
天水分神(天御分神) 国立水分神
久比邪持神 高於加美神 舟玉命
と記されています。
※ 一ニ曰奥ノ御前 氏成私記曰日城地守ノ神明也
奥ノ御前とは一体「どなた」なのでしょうか・・・・
雨宮神社様・・・雨宮媛様とのご関係は・・?
雨宮媛様とは 阿蘇国造 速瓶玉命(はやみかたまのみこと)の妃でいらっしゃった御方です。
阿蘇国造 速瓶玉命、妃 雨宮媛様 御祭神であられる国造神社様のウィキペディアの記述を拝見すると
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%80%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE
境内にはかつて「手野のスギ(てののすぎ)」というスギの巨木が生育していた。
とあり「手野のスギ(てののすぎ)」とは国造神社の祭神である速瓶玉命(はやみかたまのみこと)手植えの木と伝えられる巨木でした。
ここで、皆様すでにお気づきの事と思いますが、先に書かせて頂いたように
上村(現あさぎり町上)の雨宮神社様は
厥初ハ拝殿ノミニテ本殿ナシ 杉ヲ以テ神木トス
と記されています。
さらに須恵村(現あさぎり町須恵)に御鎮座の雨宮神社様は、阿蘇神社同體『若宮神社』様と『同宮』と記されています・・
明らかに阿蘇神社様とのご縁がしっかりと見えます!
私は、球磨の雨宮神社様と雨宮媛命様とのご関係がどうしても気になって仕方ありませんでした・・・
ここで、皆様に故百嶋由一郎先生が御残しになられた神代極秘系図の一部をご覧頂きたいと思います。
私が赤い枠で囲ませて頂いた部分に薄っすらと記されていらっしゃるお名前は
『雨宮ヒメ』・・
孝霊天皇様の母君は高木大神の次女タクハタチヂヒメと草部吉見様との間に生まれた阿蘇ツ姫=天豊ツ姫=杉山姫様であり、雨宮媛命様の母君でいらっしゃる・・・
通説を支持される方々は、私が書いている事を不敬だとおっしゃるかもしれませんが
先に①孝霊天皇様の母君『押媛様』 で書かせて頂いたように、孝霊天皇様と母君は
私にとってはとてもとても大事なご先祖様方でいらっしゃいます!
私はご先祖様の真実が知りたいのです!球磨の真実が知りたいのです!
それが致しかない事情により隠された真実であっても、古(いにしえ)の方々がどのように愛し合い、現代に繋がる末孫がいるのか・・
真実が知りたいのです。
私は、隠された歴史の真実を知りたいだけで、書き直しを希望している訳ではありません。
「消された歴史」以降を真実の歴史として全国に御鎮座の神社様には沢山の氏子様がいらっしゃって、神社様を心の拠り所とされていらっしゃいます。
私はその事について何かを希望している訳でもありません。
ただ・・消されてしまった事、愛のカタチ 「真実」を末孫が知っていると言うだけで、不遇でいらした方々がどれだけお喜びになられるか・・そう考えると涙が出てきます・・
「通説」で言う所の孝昭天皇様の孫娘様でいらっしゃる孝霊天皇様の母君「押媛様」
故百嶋先生は・・
孝昭天皇様は草部吉見様でいらっしゃると言われています。
つまり、草部吉見様は、橘公員の母方のご先祖様でいらっしゃり、私共のご先祖様でもいらっしゃるとなります。
ずっと不思議だった事があります。球磨郡内では球磨川の北岸に『阿蘇神社様』が多くご鎮座であり、球磨川の南岸には『霧島神社様』が多く御鎮座です。
なのに・・私の住む集落は球磨川南岸にも関わらず、黒原山の麓に中嶋大権現(中嶋霧島神社)様と切畑大明神(切畑阿蘇神社)様が共にご鎮座でありました。何故?ここだけ、このような形になっているのか?? ずっと不思議だったのです。
神武天皇の御子である懿徳(いとく)天皇様(藤原氏により第4代とされた本物の神武天皇様の皇子)の正室であった阿蘇ツ姫=天豊ツ姫=杉山姫様は
後に阿蘇の主神である健磐龍命様の妻(妃)となられた事になります。
お二人の間にお生まれになられた方が「雨宮媛様」
古代のタブーであるかもしれません、不敬な事を!とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう
しかし、阿蘇ツ姫=天豊ツ姫=杉山姫様は二人の男性を愛し、愛しいお子様を御産みになられたと言う事を、私は女性の立場から、恥ずかしい事だとは決して思いません。
二度の結婚の理由は、古代の乱にあったのかもしれません・・
もしかしたら・・犠牲におなりになられたのかもしれません・・・
私は球磨の4社の雨宮神社様は・・水の神様をお祀りであり、さらに
雨宮媛様のお名前と御所縁の神社様だと考えます。
さらに川邊村(現相良村)ご鎮座『雨宮神社』様の御祭神様の記述
一ニ曰奥ノ御前 氏成私記曰日城地守ノ神明也
奥ノ御前様とは阿蘇ツ姫=天豊ツ姫=杉山姫様 でいらっしゃるのでは?と考えます。
古代に生きた二人の女性 母子・・
最後に、YouTube にアップされていた相良村川邊に御鎮座の雨宮神社様の映像をご紹介させて頂きます。
ANASHI 様の
『そうだ神社に行こう!#04 雨宮神社 Let's go to the shrine. #04 Amamiya Shrine 』です。
雨宮神社様の素敵な映像と、私が今回皆様方にお伝えしたかった事に繋がるような、音楽が心に響きました。
ぜひ、音量を少しあげて・・出来れば「全画面」でご覧頂ければと思います。
今回も長くなりましたが、最後までご覧頂きありがとうございました。
ひろっぷ
次回、『身近な夏目友人帳の世界。隠された里』 に続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12494636456.html