前回のブログ『孝霊天皇様の妹君「雨宮媛」と雨宮神社様・・と夏目友人帳』 より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12489690058.html

2019/07/17 15:15 追記
2019年07月17日 13:41 に投稿した当ブログ、おっちょこちょいの私は、私共一族にとって、とても大切な御仏像、宮原観音堂のご紹介を忘れていました(@_@。

YouTube の映像の下に追記させて頂きました。<m(__)m>

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2019/07/19 18:30  再追記

タイトルの変更及び、文章の一部再編集を行いました。

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前回のブログを沢山の方々に御覧頂けた事に、心より感謝申し上げます。

心の強い励みとなりました。

皆様方、ありがとうございました。

これからも、ど素人ながら、私の視点で気が付いた事等をしっかりと、

ご紹介させて頂きます。よろしくお願い致します。

 

お気づきの事とは思いますが、私はおっちょこちょいです。真面目な論文調で文章を書こうとしても、どうしても、感情が湧き上がってしまい、\(◎o◎)/!とか(p_-) とか\(^o^)/といった顔文字が出ますが、「何だ!こっちは真面目に読んでいるのに!」(--〆) と御怒りにならずにどうか、お付き合い下さい<m(__)m>。

 

前回のブログのコメントに、ブログ『半ちゃんの鎌倉愉快な日常記録』

https://ameblo.jp/71274111/

半ちゃん様より 『夏目友人帳』の世界観について

このような素晴らしい環境に住まわれていたから書ける世界観だったのですね…。

と言うありがたいお言葉を頂きました。

私は『球磨は神様、仏様が球磨人のとても身近な所にいらっしゃるのです。』とお返事させて頂きました。

確かに、夏目友人帳の世界観は身近な所にありました(^'^)

 

①身近な夏目友人帳の世界

実は・・私の家の前を流れる井口川(江戸時代までは久米川 通称は鶴の川)には

かっぱさん小人さんが住んでいらっしゃいます(^'^)

と・・子供の頃から聞いています。

(\(゜ロ\)(/ロ゜)/ 何を言い出すのか! とのお声が何処から・・・)

 

私が子供の頃、祖母の実家の平川家の祖母の長兄の奥さん(ご実家は橘姓 中村家)、私は「みなみのばあちゃん」と呼んでいたおばさんは、家に来て、度々祖母に

昨日の夜、ま~た”こびっちゃれ”さんが川から上がって来て、ザワザワ騒ぎよんなった!(騒いでいらした)。朝、裏の土手を見たら、小さな石ば沢山積み上げとんなった(小さな石を積み上げていらした。

と言っていました。 ”こびっちゃれ”さんとは小人さんの事で、小人さんは、度々祖母の実家の裏の井口川からあがって来られて、石を積み上げたり等の可愛いイタズラをされていたのであります。

最初にこの話を聞いた時は、さすがに子供の私は怖くなり、祖母に

「ばあちゃん、こびっちゃれさん?怖くない?? (?_?) ・・(@_@。」と聞いたのですが

祖母は

こびっちゃれさんは、小人さんで、今で言う所の妖精さんタイ。怖くはナカ(ー_ー)!!よ (^'^)」

と言うので、私はそれから、こびっちゃれさんを怖がる事はなく、妖精さんがいらっしゃるのだな~(^'^) と思って・・・今も過ごしております。

ただ・・こびっちゃれさんが来られている時には、外に出て脅かしたりしては絶対にいけません(ー_ー)!! そっ・・としておくのが、我が一族の流儀です<m(__)m>

今は河川工事が行われて、川は私の子供の頃とは姿が変わりました。

祖母の実家の平川家に現在住んでいる、私のふた従兄の奥さんに聞くと、結婚以来、こびっちゃれさんは来られていないとの事でした。

妖精さんが住みづらい環境に変わったのかもしれません。

 

私は考えるのですが・・・

こびっちゃれ様は小人さんで、今で言う所の妖精のような方々。

と言う事は・・もしかしたら、化学では証明出来ない、古(いにしえ)も古(いにしえ)からの日本いえ地球の・・神様?・・妖精?でいらっしゃり、伝承が古代の日本に残っていた・・とすると、そのこびっちゃれ様の伝承に、実際、古代に生きた方(人)が重なって、神様となられた御方が少名毘古那神(すくなびこなのかみ)でいらっしゃるのではないでしょうか?

元々少名毘古那神(すくなびこなのかみ)様こそがこびっちゃれ様であり、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)様のお名前を頂かれた方(人)がいらっしゃった・

と言う事なのでは???

調べたのですが、家の一族が知る、こびっちゃれ様はアイヌの方々の伝承に登場する小人「コロポックル」様と同様の妖精?さんではないのかな・・??と。

何を今回言い出すのか!?と思われた方々もいらっしゃると思いますが、私は至って真剣です(p_-)

現代社会において、あまりにも日本の古からの伝承が薄れてしまった消えてしまったと考えるからです。

「こう言う伝承」等を理解すると、古代の謎も、パズル合わせのように見えてくるのではないか!? と私は思います。

 

 

ちなみに、「みなみのばあちゃん」 の「みなみ」ですが、何故か?家の親戚一族は、祖母の実家の平川家を「みなみ」と呼ぶのです(?_?)

方向が南側と言う訳ではありません。何故ならば・・祖母の実家のお隣の「平川家」の方も、祖母の実家の平川家を「みなみ」と呼ぶからです。 江戸時代以前から私の住む宮麓内「侍村(まちむら)」集落に住まわれる家の方々は、やはり、祖母の実家の平川家の事を「みなみ」と呼びます。 「みなみ」は川向うの「旧岡本村」方向から見ると、井口川に沿った断崖の上に建つ要塞のような場所に家があります。

集落の人達は皆「みなみは元はきっと要塞バイ」と言っています。

(私の影響?で、最近集落の方々がご先祖様や古代のこの地に興味を抱いてくれています)

 

②極めて稀・・異常な村

私が住む旧球磨郡久米郷宮原村は、以前、ご紹介しましたが、幕府と相良藩のみが知る秘中の秘『肥後 宮原銀山』がありました。

旧宮原村の特徴はまだあります。

相良藩(人吉藩)は、藩士の他、名字帯刀の郷士の方々が人口の約3分の1を占めると言う

全国的に見てもな藩であったのですが、その中において、旧宮原村は在郷の藩士以外に半農半兵の郷士の方々が全村民の2分の1を占めると言う全国的にも極めて稀な村でありました。

このような事を書くと、時代錯誤だ!とか、今だに差別意識を持っている!と言われる方々もいらっしゃいますが、私は差別意識などは全くありません。 

しかし、この「謎」は江戸時代と古代を結ぶ非常に重要な「鍵」であると思うのです。

ですから、批判を覚悟であえて、言及させて頂かなければならないと考えます。

江戸時代末期において、全国に姓を名乗る事を許されていた方々はどれ位いらしたのか・・

実は、日本全人口の内の僅か3%に過ぎなかったのです。

当時の全人口の僅か3%に過ぎない「姓(苗字)」を名乗る事が出来た人達。

その比率から考えると、旧宮原村の全村民の2分の1が名字帯刀と言うのは、極めて稀と言うより・・私は異常な村であった!と考えます。

おそらく、日本全国にこのような「異常な村」はここだけではなかったのか!?

ちなみに、旧宮原村の石高は 2640石でありました。

私が住む「宮麓」地区の「麓」とは、相良藩内における在郷藩士の居住地でした。

明治時代初頭までは武家屋敷群がおよそ100軒程あったのですが、その後、麓を離れた方々も多く、今は、かなりの屋敷跡は田畑に変わっています。

この宮麓に江戸時代まで住されていた在郷藩士の方に「馬鞍氏」がいらしゃいました。

私は「馬鞍」という姓が珍しく感じて、以前調べた事がありました。

 

サイト 「仙北小野寺氏」様に馬鞍氏について詳しく記されていました。

http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/lineage/aiueo/senbokuonodera.html

1189年の奥州合戦での戦功により小野寺道綱は出羽国雄勝郡の地頭職を賜り、後に小野寺経道が雄勝郡に土着したのが仙北小野寺氏の始まりという。経道の子孫は小野寺氏の代官として出羽国の雄勝郡などを管理していたが、泰道の代に宗家に替わって仙北の領主となったとされている。小野寺氏は一時は北は山本郡(北浦)、西は由利郡、南は最上郡にまで勢力を拡大し、出羽国有数の戦国大名となるが、最上義光との戦いでやがて衰退し、1600年の慶長出羽合戦で上杉氏に連動して最上領へ攻め込んだため、戦後は徳川家康に敵対したとみなされて所領を没収された。そして小野寺義道は石見国津和野に流され、以後子孫は津和野藩士となったという。

歴代当主
【小野寺経道】 おのでら つねみち (1249~1293)
 仙北小野寺氏初代。三浦泰村の次男で三浦景泰と称していたが、『宝治合戦』で三浦氏が滅亡すると、景泰は出羽国大泉庄へと逃れた。その後、姉の嫁ぎ先の小野寺道業の元に迎えられ、以後は小野寺経道を称して稲庭を領したという。

驚きました!

【小野寺経道】三浦泰村の次男で三浦景泰と称していた。

 

★馬鞍氏    馬鞍城    一門衆。小野寺高道の次男の道当が馬倉に移り住んだのが始まり。1596年には馬鞍右門尉が馬鞍城を守っていたが、最上軍に攻められ陥落した。

 

つまり、馬鞍氏とは三浦泰村の次男、三浦景泰」この方が姉の嫁ぎ先の小野寺道業の元に迎えられ、以後は小野寺経道を称して稲庭を領し、後裔小野寺高道の次男の「道当」この方が馬倉に移り住んで「馬鞍」を名乗られたのが始まり!

 

その「馬鞍氏」が何故?遠く離れた

球磨郡久米郷宮原村の宮麓の地へ!???

皆様も不思議に思われた事と思います。

「謎」の答えか??

椎葉のおじに、「馬鞍氏」を知っているか?と聞いた時の事。椎葉のおじは

皆ね、遠い遠い昔にご先祖様が出て行かれた所だから、何かしらの事情でこっちに戻って来られていると、おじさんは子供の時にそげん(そう)聞いとるよ

と言いました・・・

余談ですが、椎葉のおじは、私と主人が球磨に戻ってきて最初に、私の主人に

あ~!お宅はこっちの顔ばしとんなる(していらっしゃる) 戻ってきなったばいな!(戻って来られたようですね)

と言ったのです・・

主人の母方は、小倉藩士「望月家」の方で、主人の曾おじいさんが、縁戚関係にあった小倉藩内の庄屋家「中村家」に養子に入られていると聞いています・・

 

遠い遠いご先祖様の縁故の地に戻って来られた方々が球磨には多く住されている・・

 

その中で、極めて稀な、いえ異常な「宮原村」。

私は・・この辺りが遠い遠い『もののふ』の元祖的方々の故郷ではないのか!?と考え始めています。

その球磨には、前回書かせて頂いたように

孝霊天皇様・孝元天皇様の後裔の方々が多く住されている・・・

では、藩主「相良氏」はどうなのか!?

1600年代末期からの相良家当主の方は

孝霊天皇様・孝元天皇様に繋がる方々です

詳しくは次回に<m(__)m>

 

文化庁が2015(平成27)年度に創設した「日本遺産」の認定制度。地域の歴史的魅力や特色を通じて、日本の文化・伝統を語るストーリーを各地で認定。

熊本県の第1号として人吉球磨地域が全国17地域とともに選ばれました。

つまり・・球磨・人吉の10市町村は、丸ごと『日本遺産』なのです。

 

③日本でもっとも豊かな『隠された里』

歴史小説家・司馬遼太郎氏が、その著書『街道をゆく』で、人吉球磨地域のことを

日本でもっとも豊かな隠れ里」と記しています。

私は、「日本でもっとも豊かな隠された里」 と考えています。

 

球磨・人吉に残された仏教美術。

ここに住む人達は私を含めて、その仏教美術が身近にあふれ、その事が当たり前のように感じているのだと思います。

でも・・それは本当は当たり前の事ではないのですよね・・・

日本遺産 球磨・人吉 様サイトより

http://hitoyoshi-kuma-heritage.jp/story/story2.html

 

須恵村に建立されていた平等寺。

ブログ『平河氏建立の旧深田村「有智山万福寺」と寺紋について』でご紹介致しております。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12321185882.html

 

「永厳法印」は東寺長者、広沢流、保寿院流祖であり、40歳前後に醍醐寺から球磨に。

画像 東寺 ウィキペディアより

Toji 2015.JPG

平安末期1120年に旧須恵村(現あさぎり町)阿蘇谷に平等寺を創建されました。
永厳上人は、仁平元年(一一五一)八月十四日入寂
良峯氏(平河氏)は「永厳法印」を塊基とする、有智山万福寺を建立する為に1151年着工、3年の年月をかけて1154年に完成。時は平家全盛期の頃でした。

東寺の長者でいらした永厳法印様が何故?球磨に???

 

須恵阿蘇谷平等寺平安時代末期作の御仏像は、現在、明治初年建立の御堂
須恵阿蘇釈迦堂
」に納められています。

ネット公開されています。皆様ぜひ、当時(平安時代末期)の球磨の仏教美術を、ぜひ

ご堪能下さい!

 画像 

http://hitoyoshi-kuma-heritage.jp/heritage/heritage20.html

 

 

上記にご紹介した平等寺の御仏像 の他、ブログ『遠江国を出自の地とする曾祖母の実家「新堀氏」』 でもご紹介した球磨郡多良木町『青蓮寺』。上相良家菩提寺

 

 

 

青蓮寺阿弥陀堂 3尊は法印院玄の作

『仏師法印院玄』 とは
蓮華王院(三十三間堂)本堂千躰千手観音 の 仏師の方々のお一人でした。

※この三尊は、青蓮寺阿弥陀堂の内陣に安置され、鎌倉時代院派の仏師法印院玄の作である。円満にして柔和、慈悲深い眼、親しみを感ずる面貌で、鎌倉時代を代表する気品高い彫作である。(多良木町公式ホームページより)

 

さらに中山観音 相良三十三観音 第二十八番札所には

当地の豪族久米氏が平安時代に奉納された素晴らしい御仏像をご覧頂く事が出来ます。 

 

画像

https://www.google.co.jp/maps/uv?hl=ja&amp;pb=!1s0x353f5d88659cdb53%3A0xeb4d9801e6133c80!2m22!2m2!1i80!2i80!3m1!2i20!16m16!1b1!2m2!1m1!1e1!2m2!1m1!1e3!2m2!1m1!1e5!2m2!1m1!1e4!2m2!1m1!1e6!3m1!7e115!4shttps%3A%2F%2Flh5.googleusercontent.com%2Fp%2FAF1QipPQBNMKSB1jR8LdUX20lPFv1oaaTKaZh-cVdOUX%3Dw90-h90-n-k-no!5zR29vZ2xlIOaknOe0og&amp;imagekey=!1e10!2sAF1QipMnF_3gGAXGEubNffW9aLCb8iJL5REiX3T61GJ0

 

と言った球磨・人吉の仏教美術を一部ご紹介された

YouTube 
HITOYOSHI-KUMA 日本遺産 人吉球磨【公式】 JAPAN HERITAGE

をぜひ、皆様に御覧頂きたいと思います。

全画面にして頂くと、その美しさ、迫力をさらにお伝え出来ると思います。

 

 

2019/07/17 15:15 追記

私の住む集落、旧球磨郡久米郷宮原村宮麓集落の相良三十三観音 二十九番札所

宮原観音堂もご紹介させて頂きます。

 

厨子

 

御観音様です。

正しくは『木像聖観音菩薩坐像』でございます。

 

今回は中世についてほんの少しだけお話させて頂きましたが、

球磨の中世を考えると・・古代が見える

球磨の古代を考えると・・中世が見える

 

私はそう考えます。

 

 

次回は

曾祖母の先祖 橘姓「宮原長盛(次郎正市丞 剃髪而称一斎房山伏也) 」と市房山 

さらには 肥後相良藩藩主「相良氏」と孝霊天皇様のお話等

古代と中世が繋がる球磨について、さらに書かせて頂きます。

 

今回も、ご覧頂き ありがとうございました。

ひろっぷ

 

次回 『祈願の地「宮原」の宮原観音堂。さらに良峰氏・阿部氏と藤原摂関家「祖」との関係』

に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12498011738.html