前回のブログ 「今、心から祈る事」 より続けます

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12319919306.html

 

先日、参加させて頂いている求麻郷土研究会の例会で

平安時代末期、久寿元年(1154年)平河氏(平河三郎師高)建立の
深田村(現あさぎり町)「有智山万福寺」跡に建つ内山観音堂と
同じく平河氏(平河三郎師高)勧請と言われる
深田村(現あさぎり町)内山八幡社に伺ってまいりました。

 

「有智山万福寺」について

良峯氏(平河氏)は「永厳法印」を塊基とする、有智山万福寺を建立する為に1151年着工、
3年の年月をかけて1154年に完成。(人吉市史より)
有智山万福寺はその後平河氏の氏寺となります。

 

上記の「永厳法印」とは平安末期1120年に旧須恵村(現あさぎり町)阿蘇谷に平等寺を創建された方です。

 

美術史論集 - 201 ページ 変貌する須恵村: 社会文化変化の基礎的研究 - 51 ページ 

より 同文

『開山ヲ永厳ト云。然二其前モ永厳京都醍醐寺修,ノ後当郡二下テ平等寺ヲ造立シテ住ス。其節右ノ如来モ守来ノ本尊也。当寺過去帳ヲ考フル二開山永厳上人ハ仁平元年^八月十四日寂ス。寿七十歳ト云。』

 

「永厳法印」は東寺長者、広沢流、保寿院流祖であり、40歳前後に醍醐寺から球磨に。

平安末期1120年に旧須恵村(現あさぎり町)阿蘇谷に平等寺を創建されました。
永厳上人は、仁平元年(一一五一)八月十四日入寂
良峯氏(平河氏)は「永厳法印」を塊基とする、有智山万福寺を建立する為に1151年着工、3年の年月をかけて1154年に完成。

時は平家全盛期の頃でした。

「永厳法印」
俗姓は平(たいら)。字(あざな)は平等房。通称は下野法印
父は下野守 平師季
永厳法印の父は下野守平師季。「桓武平氏高棟王流」
通称の下野法印は父平師季が下野守であった事に由来します。

 

「永厳法印」が創建した須恵阿蘇谷平等寺がいかなる規模のお寺であったかがお解り頂けるサイトをご紹介致します。

 

須恵阿蘇谷平等寺の平安時代末期作の御仏像は、現在、明治初年建立の御堂

「須恵阿蘇釈迦堂」に納められています。

御仏像
http://hitoyoshi-kuma-heritage.jp/heritage/heritage20.html


「変貌する須恵村」( 牛島盛光氏著 ミネルヴァ書房 1971年 )には
「平等寺最盛期の寺域は、寺山を含めると、西端の薬師堂から東に約400m、南北約600mにわたる広大なもので、
この中に本堂を中心にして七堂伽藍が建ちならび、裏山2箇所の墓地に約250基に及ぶ五輪、板碑が整然と並び立ち、
槇などの巨木が堂宇をおおった境内には、阿蘇川から引かれた清水が池に満ち、
「当郡真言ノ元祖」にふさわしい雰囲気を呈していたであろう。」と記されていて、須恵阿蘇谷平等寺が壮大な力をもっていたことがうかがえます。

 

須恵阿蘇谷平等寺を創建された永厳法印の父は下野守平師季。

「桓武平氏高棟王流」

参考 日本の苗字七千傑様のサイトより

http://www.myj7000.jp-biz.net/

 

日本の苗字七千傑様の【桓武平氏高棟王流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01101.htm#000

平範国・平師季(永厳法印の父)・平行親。この方々が兄弟である事が解ります。
さらに

平範国。この方の後裔が堂上平氏。

日本の苗字七千傑様の《堂上平氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01101.htm#001

 

平 清盛公の妻であった平 時子(二位尼)の父であり、高倉天皇の外祖父であった

「平時信」。この方も【桓武平氏高棟王流】《堂上平氏》でありました。

 

さらに永厳法印の父「下野守平師季」この方についてネット上に記述がありました。

 

角川地名大辞典(旧地名)福井県 長田(中世)より
http://jlogos.com/ausp/word.html?id=7332948

 

『中略・・・

なお,太良荘の開発領主丹生二郎隆清の父師季は「長田下野守平朝臣師季」と称され(東寺百合文書ア),また,この隆清の遠縁にあたる平時信は,若狭国鎮守一二宮社務代々系図(若狭彦神社文書/小浜市史社寺文書編)に「平大納言時忠卿従兄弟下野守師季之孫永田太郎時信」とあり,長田(永田)を名字地とする平師季流があった
これが当地と同じものとすると,当地名は平安期にさかのぼる可能性がある
現在上中町野木の玉置地内に上長田・下長田の小地名があるが,関係あるか』

 

※「平大納言時忠卿従兄弟下野守師季之孫永田太郎時信」

 

平大納言時忠卿とは先に書いた「平時信」の子息であり平 時子(二位尼)この方の弟となる方です。

平大納言時忠卿の従兄弟は下野守師季之孫「永田太郎時信」である・・・・

この事から

球磨の須恵阿蘇谷平等寺を創建された永厳法印と「平時信」、この方々は同じ【桓武平氏高棟王流】と言うだけではなく近い縁戚関係にあったと言う事が解ります。

 

平大納言時忠卿 とは ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%99%82%E5%BF%A0

平 時忠(たいら の ときただ)は、平安時代末期の公家。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信。母は二条大宮(令子内親王)の半物(はしたもの、下仕えの女房)をしていた女性(氏素性は未詳)。平清盛の継室である平時子の同母弟。後白河法皇の寵妃で高倉天皇の母・建春門院は異母妹にあたる。平大納言、平関白と称された。また、平家の滅亡後も生き延びている。なお、いわゆる「平家にあらずんば人にあらず」とはこの時忠の発言である。

 

角川地名大辞典(旧地名)福井県 長田(中世)の記述に

※長田(永田)を名字地とする平師季流があった  とありましたが

ここで・・・おそらく偶然だとは思うのですが

私の高祖母(深水家)は永田家から嫁いで来られています。

さらに家の一族は長田家とも縁戚関係にあります。

高祖母(深水家)の実家の「永田家」については以前、ブログ「高祖母の悲恋」にて湯前町史に記載の記述を写真にてご紹介させて頂いています。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12306764740.html

 

高祖母の実家と、須恵阿蘇谷平等寺を創建された永厳法印の父「下野守平師季」の系である「永田氏(長田氏)」との関係は未だ不明ですし、もちろん偶然の可能性は大ですが、心の中に何かしら気になる事として残ります・・・・

 

「有智山万福寺」

良峯氏(平河氏)は「永厳法印」を塊基とする、有智山万福寺を建立する為に1151年着工、
3年の年月をかけて1154年に完成。(人吉市史より)
有智山万福寺はその後平河氏の氏寺となります。

先にも書きましたが平家全盛の時代の事です。

 

有智山万福寺はかって本堂が七間四面の大きな建物であったそうです。

(求麻郷土研究会資料より)

有智山万福寺は真言宗のお寺であり、明治3年に廃絶。

 

上村重次氏著の「九州相良の寺院資料」によると

有智山寺(有智山万福寺)建立の事。仁平元年(1151年)十月十八日柱立て、三年後の久寿元年(1154年)に完工し、移る。

平河師高の建立(平川文書”良峯姓先祖書” 熊本県史料中世篇第三)

持仏堂本尊千手観音 礼所廿番 千手観音堂一宇 右之堂昔は七間四面にして平川三郎諸隆(註 師高か)建立也。

慶安三年(1650年)人吉城第二十一代相良頼寛修理。近代は三間四面。

▽内山観音堂が万福寺跡と伝えられる。現存の堂は明治中期火災後に再建されたもので、堂内に焼け残りの尊像木片がある。

満福寺 万福寺と同じ。

 

後世、有智山万福寺は島津氏第15代当主「島津貴久」の側室となり島津家久の母となられた千手局(薩摩では”橘姫” ”小納言”の尊称)に所縁のお寺となりました。

千手局。父は島津家家老本田丹波守親泰。母は肥地岡氏の娘。

肥地岡氏は南北朝時代の多良木相良経頼の弟を祖とする家で

室町時代に人吉相良氏(下相良氏)永富長続(相良長続)より多良木相良氏(上相良氏)が滅ぼされた事で薩摩(現えびの市飯野)に逃れて土着されたと言われています。

上記の肥地岡氏の娘の方が島津家家老本田丹波守親泰に嫁ぎ「千手局」の母となられます。

しかし、本田親泰が戦死された事により、母と娘は相良領(球磨)の縁家で過ごされました。

有智山万福寺のすぐ近くです。

その後「千手局」は島津氏第15代当主「島津貴久」の側室となり島津家久の母となられたと言う事です。

 

島津家久 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%AE%B6%E4%B9%85

島津 家久(しまづ いえひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。島津貴久の四男。母は本田丹波守親康の女。

天文6年(1547年)、島津貴久の四男として生まれる。若年の頃より祖父・島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と評価されていた。永禄4年(1561年)7月、大隅国の肝付氏との廻坂の合戦で初陣し、まだ15歳ながら敵将・工藤隠岐守を鑓合わせにて討ち取った。
永禄12年(1569年)、大口城に籠る菱刈氏および相良氏からの援兵に対し家久は5月8日、戸神ケ尾と稲荷山にそれぞれ大野忠宗、宮原景種に率いらせた伏兵を潜ませ、自らは雨の降る中を荷駄隊を装った300を率いて大口城の麓の道を通行、誘い出されてきた大口城兵を伏兵の元へ誘い込んで首級136を討ち取った。

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以下、詳しくは別の機会に御紹介させて頂きます。

 

あらためて

「有智山万福寺」

良峯氏(平河氏)は「永厳法印」を塊基とする、有智山万福寺を建立する為に1151年着工、
3年の年月をかけて1154年に完成。(人吉市史より)
有智山万福寺はその後平河氏の氏寺となる。

 

「永厳法印」とは

俗姓は平(たいら)。字(あざな)は平等房。通称は下野法印
父は下野守 平師季

 

※平大納言時忠卿の従兄弟は下野守師季之孫「永田太郎時信」である・・・・

この事から

 

「永厳法印」と、

※高倉天皇の外祖父であった「平時信」・平清盛公の妻であり、安徳天皇の国母であられた建礼門院様の母君「平時子(二位尼)」・「平時忠」

この方々は近い縁戚関係にあったと言う事が解りました。

 

「永厳法印」を塊基とする良峯氏(平河氏)建立の「有智山万福寺」。

その後、良峯氏(平河氏)の氏寺となった「有智山万福寺」

 

「有智山万福寺」の寺紋が内山観音堂に残されていました。

 

こちらです。

 

 

何故、十六弁菊の御紋であるのか・・・

全く不明ですが、今回、書かせて頂いた事の中に理由が見えているのか

もしくは、平安時代末期まで王家領であった球磨と何らかの関係があるのか

他に何らかの理由があるのか・・・

 

今後、しっかりと調べていきたいと思っています。

 

次回 『天子神社の御神紋について』 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12323615604.html