前回のブログの『曾祖母の妹の「夫」の方について』で書いたように
「旧湯前村」は、私が調べている事の一つである
曾祖母(深水家の娘)の兄の方(椎葉家に養子に入り家を継ぐ)の出生の秘密に関わりがある場所です。
深水家に嫁いできた
湯前村の永田家の娘であった私の高祖母。生んだ子供達は
長男 源一氏 椎葉家の養子となり、椎葉家を継ぐ。
長女 岡原平川家に嫁ぐ(私の曾祖母)
二女 湯前の「福田貞一」氏の妻となる
次男 源吾氏 深水家を継ぐ
となりますが、実は 長男の「源一氏」だけは父が違います。
源一氏の父の方は『島津藩家老家 某家』の子息の方でした。
今回は 深水家に嫁ぐ前の高祖母と『島津藩家老家 某家』の子息の方の恋(愛)と
椎葉家に養子に入った「源一氏」の出生の秘密について書かせて頂きます。
はじめに
現在、親戚の椎葉家の当主である「椎葉のおじ」は88歳になられます。
長らく故郷を離れていた私が、球磨に戻って、祖母の実家の「平川家」や家の「宮原家」そして繋がる親戚関係の先祖について、調べている事を知った椎葉のおじは
先々代であった祖父「椎葉源一」氏(椎葉の源一おじいさん)の出生について教えてくれました。
「椎葉源一」氏(椎葉の源一おじいさん)の出生に関わる話は、家の親戚一同、皆、周知の如くの話で、私もある程度、子供の頃から聞いていました。
しかし・・・
「父」の方について、『島津藩家老家 某家』の子息である事は確かな事実であるけれど
その方が『一体、どなただったのか!』は
高祖母をはじめ、当時の親戚一同は頑なに、「秘密」を守り、現在に生きる私達は
その方の「本当の名」を知る人は誰もいません。
戸籍も操作してあり、源一氏の父は、高祖母の夫であった「深水家」の高祖父となっています。
ただ、唯一・・・
椎葉の源一氏(椎葉の源一おじいさん)の父の方に繋がる品々は、椎葉家に代々保管されていました。
その品々の中で、もっとも重要な(源一おじの出生の秘密を握る)「ある方」から源一おじいさんの父の方に送られてきていた
「書簡」を椎葉のおじとおじの兄は、先祖を調べて頂く為に、数十年前「歴史研究家 某氏」に預け、あろう事か、その「書簡」が紛失、行方不明となってしまいました。
その「書簡」を源一おじいさんの『父の方』に送っていらっしゃった方こそが・・実は
「西郷隆盛」公です。
厚い束になるほどの多数の書簡が送られていたそうです。
その「書簡」を椎葉家では、代々、仏間の大きな引きだしに大事に保管されてきました。
その大事な「書簡」が紛失、行方不明になった事に
椎葉のおじとおじの兄は「先祖に申し訳ない。先祖に顔向けが出来ない。」と
たいそう傷つきこの数十年を過ごしてきました。
残念ながら、椎葉のおじの兄は数年前に亡くなりました。
ずっと書簡の事は「無念だ・・・」と言われていたそうです。
私の父が、某職を退職して、20年程前に球磨に戻ってすぐに、椎葉のおじと共に、南九州管内の「博物館」や「歴史資料館」を訪ねて、紛失した「書簡」を探し回ったそうですが、
見つける事は出来ませんでした。
その後、椎葉のおじは、紛失した「書簡」について、一日たりとも忘れた事は無かったといいます。
そこに・・・私が戻って来たと言う事になります。
深水家に嫁ぐ前の高祖母と『島津藩家老家 某家』の子息の方の恋(愛)
島津家の家老であった「家」に生まれた男子。
この方は、幕末・明治初頭の混乱を嫌い動乱を避けるように「家を捨てる覚悟」で、一人球磨に来られました。
その後、その方と恋に落ちた相手が永田家の娘でした。
のちに私の曾祖母の母となる高祖母です。
そして・・二人の間には男の子が生まれました。その「男の子」が「源一」氏です。
親子三人で数年間幸せに過ごしていたのですが・・それも束の間
源一氏の父の御実家の家臣であった数人の方が、球磨に来られて、ついに「源一」氏の父である方は見つかってしまいました。
家臣であった方々は「御実家にお戻りになられるように」と説得したのですが、
最初は「源一」氏の父である方は球磨に残ると頑なに拒まれたそうです。(椎葉のおじ曰く、「きっと”戦い”や”混乱”を好まない人だったのだろう」と・・)
しかし、国の事情などを聞き、最後には納得して「源一」氏と共に帰郷する事となりました。
明治維新後の混乱のさなか、「源一」氏の母である「永田家の娘」をその混乱の真っただ中に行かせる訳にはいかないと、永田家の反対もあり、「永田家の娘」は泣く泣く球磨に残る事になったそうです。
そして、母子は離ればなれになりました。
所が・・
源一氏の父の御実家に家臣の方々と「親子」が帰る途中、日向須木村(現在の宮崎県小林市須木)に立ち寄った際、周囲の目をすり抜けて「源一」氏は子供の足で夜通し山道を歩いて球磨に戻ってしまいました。
しかしその後、すぐに迎えが来て、連れ戻されたそうです。
しばらくの間、「源一氏」は父の御実家で生活していたのですが、球磨に居た頃のような自由な生活は無く、厳しい教育も始まり、「源一氏」は母恋しさのあまり、一人家を飛び出して、球磨の母の元に戻ってしまいました。
母である「永田家の娘」も、子供心を思い、「動乱が安定するまでは」と「源一」氏と二人、永田家に残る事になりました。
そのような中 西南戦争が勃発・・
実家に戻った「父」とは連絡が取れなくなり、ついに音信不通となりました。
西南戦争により、亡くなったとの話があったそうです。
その後、母である永田家の娘は「源一」氏を連れて再婚しました。
再婚先は深水家。
深水家に嫁いだ「永田家の娘」はその後、一男二女をもうけました。
その一人が平川家に嫁いだ私の曾祖母です。
「源一」氏は深水家から子供のいなかった椎葉家の後継ぎとして養子に入りました。
「源一」氏は、成人して岡原村村会議員を長く務め岡原霧島神社建立の際の世話役人としても奮闘されました。
妻は、上村城の近く「麓」の犬童家から嫁いでこられました。
源一氏と妻の方の間には残念ながら子供は授かりませんでした。
そこで、二人の養女となったのが、平川家の娘(私の祖母の姉)です。源一氏からは姪にあたります。
「源一」氏が四十代になった頃の事です。
突然、源一氏の父の方の実家から使者の方が「源一」氏の父の形見を受け取って欲しいと
椎葉家を訪ねてこられました。
形見として持って来られた品々は
※西郷隆盛公から源一氏の父が受けた「書簡」
※西郷隆盛公から源一氏の父が頂いた「瓢箪」
※源一氏の父の家に伝わる刀
刀は、正式名称はよく解りませんが正宗(まさむね)という名が付く刀で、源一氏の守り刀にして欲しいという事でした。
刀を持って来られた「使者」の方は、日本に数本しかない名刀である事を言われたそうです。
ところが・・「源一」氏は何故か刀だけは受け取られなかったそうです。
下世話な話ですが今でも、皆「何で受け取らなかったのだろう?」と苦笑いしながら話しています。
源一氏に「思う所」があった、それともポリシーだったのかもしれません。
この時の「使者」の方と「源一」氏、そして椎葉家の方々と一緒に撮った写真が今でも残っています。
それからしばらくして、源一氏は亡くなりました・・
実は以前、こちらのブログに
「使者」の方と「源一」氏、そして椎葉家の方々と一緒に撮った写真
椎葉家に伝わる書籍
西郷隆盛公から源一氏の父が頂いた「瓢箪」等
椎葉家に関わる写真を数回に渡り、アップしていたのですが、その時、ブログには何の説明も書いていませんでした。
椎葉のおじは、私の調査に積極的で、色々な事を教えてくれます。
一番の協力者です。
しかし、私は、椎葉のおじが最も知りたい事を何も調べていないも同然でした。
椎葉のおじが知りたいのは源一おじいさんの父の本当の名前です。
椎葉のおじに恩返しをしたい!と思い、今回のブログを書きました。
あらためて、写真をアップした過去のブログを御紹介致します。
★「使者」の方と「源一」氏、そして椎葉家の方々と一緒に撮った写真
瓢箪の蓋?は鹿の角で出来ていたそうです。
今回は、椎葉のおじへの恩返しのつもりで
椎葉家を継いだ「源一氏」について書かせて頂きました。
何らかの手掛かりが見つかれば幸いです。
今後も、「源一氏」の父の方についての調査は続けていくつもりです。
このブログをご覧頂いている皆様で、何かお気づきの点、情報等がありましたら
ぜひ、コメントにてご教示を頂ければと、心からお願い申し上げます。
よろしくお願い致します。
追記 2017/09/02
源一氏(源一おじいさん)の妻であった「ツル」おばあさんの弟さんの名前を
間違って「敬一郎」と書いていましたが、正しくは「敬太郎」氏です。
訂正させて頂きました(..)
お気づきになられたと思いますが・・・・
皆様、私は・・・実は とんでもなく!おっちょこちょいなのです・・・トホホ(@_@。
再追記 2017/09/03
椎葉のおじの兄は長らく学校の教員を務めた方です。
椎葉のおじの兄が「某方」に椎葉家の話をして、その方が「ぜひ書簡を調べたい」との事だったので、お願いしたそうです。
私が、調べた所、その「某方」は、その後お亡くなりになられているので、あくまでも推測ですがその方が別の方?別の機関?に「鑑定依頼」をされていたのでは?
と考えています。
数十年前の話となります。