前回のブログ『隠された里の仏教美術 身近な夏目友人帳の世界。』より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12494636456.html

2019/07/28  追記

2019/07/27 0:00 投稿の当ブログ、ブログ内の文字数が多すぎて、追記が書けないので
コメント欄にて追記させて頂きました。とても大切な事に気が付いていませんでした。

コメント欄 5 でございます。<m(__)m>

 

前回のブログも沢山の方々に御覧頂いた事に心より感謝申し上げます。

さらに、コメントにおいて、沢山の方々にご教示、温かい励ましのお言葉を頂きました。

あらためて、お礼を申し上げます。

ありがとうございました。

 

早速

今回のテーマ『祈願の地「宮原」の宮原観音堂。さらに良峰氏・阿部氏と藤原北家「祖」との関係』等について書かせて頂きます<m(__)m>

前回『書かせて頂きます』とお話した曾祖母の先祖 橘姓「宮原長盛(次郎正市丞 剃髪而称一斎房山伏也) 」と市房山、さらには 肥後相良藩藩主「相良氏」と孝霊天皇様のお話等については、次回に延ばさせて頂く事をお詫びいたします。 
 

 

①宮原観音堂の奉納旗

前回のブログの最後にご紹介した「宮原観音堂」。ブログ『橘一族と八角形の地』で書かせて頂いたようにhttps://ameblo.jp/hirom0211/entry-12481156600.html

国宝青井阿蘇神社の創建、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある天岩戸神社の再興を行われた大神惟基。大同元年(806年)上記の大神惟基 霊夢による御神託により草創された神社が

旧球磨郡久米郷宮原の『中嶋大権現』(中嶋霧島神社※宮原神社)です。

中嶋大権現の別当寺として創建された御寺が『龍泉寺』(竜泉寺の表記もあり)となります。

龍泉寺は戦国時代に廃寺となったようですが、宮原観音堂はその『龍泉寺』の観音堂として造られました。

『龍泉寺』は天台宗の御寺様でした。

前回のブログのコメントで「おちゃも様」より

『日本で天台宗が天台宗として認められた年(806年)に建っています。
これはいくらなんでも早すぎなのでもしかしたら最澄さんではなく鑑真さんの律宗のお寺だったのでは?』

と言うお言葉を頂きました。

 

確かに、地元の歴史研究家の方が20年程前に聞き取り調査を行った際に

宮麓の当時の古老の方々の伝承では

『中嶋神社様は本当は青井さん(青井阿蘇神社)よりもっと先(早く)からここ(宮原村宮麓)に建てられとったと(ー_ー)!!。ばってん(しかし)青井さんの手前、青井さんの創建に合わせて大同元年(806年)に建ったとされたとバイ』

と聞かれたそうです。

ただ、律宗のお寺であった・・と言う証拠は全く残っていません。

しかし、後には確かに天台宗の御寺様であった事は確かであります。

 

先に書いた、コメントでのおちゃも様からのお言葉

これはいくらなんでも早すぎなので・・』に対して、私は

もしかしたら・・早すぎではないのかもしれません・・』 と書かせて頂きました。

コメントにも書いたのですが

私は『大同元年』・『806年』と言う「年」が何かとてつもない意味を持っているのでは?と以前から考えていました。確かに天台宗は『(806年)1月に天台法華宗として認められた』

実は・・非常に気になっていた事があったのです。

宮原観音堂の御開帳の際のみにお堂入り口に掲げる『旗?』(専門用語が解りません)です。

写真

左右に天台宗の紋章 三諦星(さんたいせい)
右の三諦星(さんたいせい)の横に
昭和六十三年十一月■日
中央に『奉納』 とあり
左の三諦星(さんたいせい)の横に
大本山 天台宗
平等院
と記されています。

 

コメントを書いた次の日に、地元の歴史研究家で、一昨年まで求麻郷土研究会の会員でもいらした『土屋様』に電話をかけて、こちらの「旗?」の御奉納の由来を御存じないかお尋ねしました。土屋様は平成6年より宮麓区の区長をお務めにならていたそうですが、こちらの「旗」の由来は御存じ無く、「旗をお飾りするのは昔からの伝承」とだけしか聞かれていないとの事でした。しかし、私が、『平等院様 とある』事を伝えると、「えええっ!!」と大層驚かれて

旗はただ皆で飾るだけで、その事までは全く気が付いていなかった!?』と言われていました。土屋様は「昭和63年の世話役の人達は皆すでに亡くなっているから、あとは椎葉さんくらいしか経緯を知る人はいないと思うよ・・」と言われました。

椎葉さんとは・・ブログ内で何度も登場する、私の父の従兄、おん年90歳になられた

椎葉のおじです(p_-)

土屋様と電話で話した翌日、何かを感じたのか?(p_-) 椎葉のおじが家に遊びに来られたので早速、「旗」の件を知っているかと尋ねました。 椎葉のおじは

おじさんが子供の頃からすでに旗はあったけれど、かなりボロボロになっていて、何時の事だったか忘れたが、旗がボロボロになった事が宮麓内で問題になって、誰だったか?何処かに相談せんばんね!(しなければ)と言っていたが、何処かとはどこなのかも解らず、いつの間にか新しい旗を飾るようになった

昔のボロボロの旗にも、星(三諦星(さんたいせい))が施されていた

と言う事まで聞く事が出来ました。さらに椎葉のおじは「ここのおば(宮原家の私の祖母)達の時代よ!おばなら何か知ってたと思うバッテン・・」と。

ああ~やっぱり!ばあちゃん(祖母)達の時代か~(@_@。 話を沢山聞いておくべきだった・・とあらためて、反省したのであります(@_@。

私は、頂いていた「宮原観音堂」に関する資料にくまなく目を通したのですが、創建以来から平成にかけての年表にも、「旗」に関する事は全く記されていませんでした・・

結局・・・後に残った「何も知らない、解らない年代」私達の年代が貴重な「旗」を訳も解らないまま飾っていく事になる・・・

このままには出来ない!! と思い、私なりに調べてみました。

 

平等院 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%AD%89%E9%99%A2#%E9%B3%B3%E5%87%B0%E5%A0%82

平等院(びょうどういん)は、日本の近畿地方の、京都府宇治市宇治蓮華に所在する、藤原氏ゆかりの仏教寺院。山号は朝日山。開基は藤原頼通、開山は明尊。本尊は阿弥陀如来坐像。

京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。

これが平等院の始まりである。開山(初代執印)小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。

 

ウィキペディアの記述を読んだだけですが・・・今まで先祖について調べ続けてきた私は、すぐに「はっ!」と気が付きました・・

※開山(初代執印)は小野道風の孫

小野氏は!!

前々回のブログ『孝霊天皇様の妹君「雨宮媛」と雨宮神社様・・と夏目友人帳』の中の

①孝霊天皇様の母君『押媛様』 で取り上げさせて頂いたばかりです!

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12489690058.html

孝昭天皇の皇子天足彦国押人命様の後裔 小野氏

武蔵七党の筆頭の横山氏(猪俣氏)は、小野篁の末裔。横山氏(猪俣氏)の一族で、新田氏と自称した由良氏(横瀬氏)も小野を本姓としている。
ブログ内で書いた通り、愛甲氏を初めとする武蔵七党の筆頭の横山氏(横山党)の方々、さらには母系を小野氏とされる渋谷氏・畠山氏等の方々は球磨に多く住されています!

孝霊天皇様の母君は通説では孝昭天皇の皇子天足彦国押人命様の姫君「押媛」

(天豊ツ姫)様。

宮原の一族は孝霊天皇様の後裔「伊予橘氏」であり、さらに平安時代末期から鎌倉時代初頭には母系を小野氏とされる梶原氏とは姻戚関係を結んでいました!

さらにさらに、球磨には孝霊天皇様の皇子でいらっしゃる「孝元天皇様」の後裔「阿部氏」と「那須氏」も多く住されています!

つまり、古代の天皇様、それも・・欠史八代と言われる「天皇」の方々の姻戚関係によって

生まれた方々の後裔が球磨には数え切れないほど住されている

と言う事になります。

藩主「相良氏」も、御繋がりになられます! 詳しくは必ず次回書かせて頂きます。

 

さらに、もう一つ気が付いた事がありました。

関白・藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まり

藤原頼通 この方は藤原北家御堂流 つまり藤原北家内の摂関家の方であり、藤原北家 通称「摂関家」の祖の方は

私の祖母の実家「平河氏」つまり良峰氏とは、とても深い堅い絆がありました!

 

②良峰氏・阿部氏と藤原北家「祖」との関係

皆様方は御存じの事と思いますが、藤原氏を単純に一括りに藤原鎌足・藤原不比等後裔と理解してしまっている方が非常に多い事が以前から気になっていました・・・

藤原氏 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F

姓の代表的なものの一つとして源氏・平氏・橘氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称され、その筆頭名門氏族である。

奈良時代に南家・北家・式家・京家の四家に分かれ、平安時代には北家が皇室と姻戚関係を結んで摂関政治を行った。

平安時代には北家が皇室と姻戚関係を結んで摂関政治を行った。

つまり、摂関家と言われた藤原氏とは藤原北家を指すのです!

 

藤原北家内「摂関家」の祖は藤原冬継

この方は、私の祖母の実家「平河氏」本姓良峰氏の祖良峰安世父違いの兄弟です!

藤原冬継 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%86%AC%E5%97%A3

 

藤原 冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ)は、平安時代初期の公卿・歌人。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の次男。官位は正二位・左大臣、贈正一位・太政大臣。閑院大臣と号す。

凡例より抜粋

父母    

父:藤原内麻呂
母:
百済永継(飛鳥部奈止麻呂の娘)

異父同母弟:良岑安世(良峰安世) ※ 補足 父君は桓武天皇様

特記 文徳天皇の外祖父。

妻    藤原美都子(藤原真作の娘)、百済王仁貞の娘
   
安倍男笠の娘、嶋田村作の娘、大庭王の娘

画像 ウィキペディアより 

藤原冬嗣.jpg 藤原冬嗣『前賢故実』より

 

桓武朝では、大判事・左衛士大尉を歴任する。平城天皇が即位した大同元年(806年)、従五位下・春宮大進に叙任されると、大同2年(807年)には春宮亮に昇進する等、平城朝では皇太子・賀美能親王に仕える一方、侍従・右少弁も務めた。

中略・・乱後の11月に従四位上に叙せられると、翌弘仁2年(811年)に参議に任ぜられ公卿に列す。その後も、弘仁3年(812年)に正四位下、弘仁5年(814年)に従三位、弘仁7年(816年)に権中納言、弘仁8年(817年)に中納言と、嵯峨天皇の下で急速に昇進する。遂には、年齢は1歳上ながら桓武朝において異例の昇進を遂げ、冬嗣より10年近く早く参議となっていた藤原式家の緒嗣をも追い越し、弘仁9年(819年)には右大臣・藤原園人の薨去により、冬嗣は大納言として台閣の首班に立ち、弘仁12年(821年)には右大臣に昇った。なお誤解の一つとして、冬嗣の急速な昇進の背景に道康親王(文徳天皇)の外祖父になった事を挙げている文献があるが、道康親王の誕生は冬嗣死去の翌年である。

嵯峨朝後半には『弘仁格式』(弘仁11年〔820年〕完成)や『内裏式』(弘仁12年〔821年〕完成)の編纂を主導し、嵯峨親政体制の構築に尽力した。また、弘仁3年(812年)に父・内麻呂が没すると、冬嗣は左近衛大将の官職を引き継いで軍事面でも中心的な立場にあった。

淳和朝に入り、天長2年(825年)に淳和天皇の外叔父にあたる藤原緒嗣が大納言から右大臣に昇進すると、押し出される形で冬嗣は左大臣に昇進するが、翌天長3年(826年)7月24日薨去。享年52。最終官位は左大臣正二位兼行左近衛大将。没後まもなく正一位を贈られる。さらに娘で仁明天皇の女御であった順子所生の道康親王が嘉祥3年(850年)に即位(文徳天皇)した際に、太政大臣を追贈された。

 

この方が後に藤原北家内『摂関家』の祖「藤原冬継」です。

祖母の実家『平河氏』本姓「良峰氏」の祖「良岑安世(良峰安世)」の父違いのでいらっしゃいました・・・

 

良岑安世(良峰安世) 父君 桓武天皇 母君 百済永継

良岑安世(良峰安世) 画像ウィキペディアより  ご先祖様の後ろ姿であります 

あああ~ご先祖様!! 泣きそう・・になります

Yoshimine no Yasuyo.png

凡例より抜粋した項にもありますが藤原冬継、この方の妻の御一人は中納言・阿倍広庭の曾孫「安部 男笠(あべ の おがさ)」の娘様でいらっしゃいました。

ここで「阿部氏(阿倍氏)」との姻戚関係が解ります。

それだけでは無かったのです(ー_ー)!!

今回、初めて気が付いた事があります!

藤原北家内「摂関家」の祖「藤原冬継」この方の父『藤原内麻呂』、この方の記述を読んでようやく気が付いたのであります!

藤原内麻呂 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%86%85%E9%BA%BB%E5%91%82

 

藤原 内麻呂(ふじわら の うちまろ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿。藤原北家、大納言・藤原真楯の三男。官位は従二位・右大臣。

桓武・平城・嵯峨の三帝に仕え、いずれの天皇にも信頼され重用された。伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となり、傍流ゆえに大臣になれなかった父・真楯より一階級上の右大臣に至り、平城朝~嵯峨朝初期にかけては台閣の首班を務めた。また、多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築いた。

桓武天皇が即位した天応元年(781年)従五位下に叙爵し、天応2年(782年)甲斐守に任ぜられる。内麻呂の最初の室で、当時桓武天皇の後宮で女孺を務めていた百済永継が、延暦4年(785年)に皇子・良岑安世を儲けると、内麻呂は同年従五位上、延暦5年(786年)正五位下と急速に昇進し、延暦6年(787年)には従四位下に叙せられる。なお、この急速な昇進の背景として、百済永継を担保として内麻呂が桓武天皇の関係を深めた可能性を指摘する意見もある・・・・

画像 ウィキペディアより

Fujiwara no Uchimaro.png

凡例より

別名    後長岡大臣

氏族    藤原北家
父母    父:藤原真楯、母:
阿倍帯麻呂の娘

 

ようやく、気が付きました・・・・

原冬継の父「藤原 内麻呂」、この方の母は阿倍帯麻呂の娘様でいらっしゃいました。

孝元天皇様後裔「阿倍氏」との姻戚関係が父と子、二重に結ばれていらしたのです。

何故?百済永継この方は藤原 内麻呂に嫁がれたのか!?

 

ここで、私は自分が抱えていた一つの謎が解け始めた事に気が付きました。

それはブログ『百済 東城王の末孫 球磨の平河氏』で抱いた謎でした。

まだ、ご覧になられていらっしゃらない方は、ぜひご覧頂きたいと願います。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12460664453.html

 

良岑氏(良峰氏)の祖 『良岑 安世』 の母 であり、藤原北家繁栄の礎を築いた藤原 内麻呂の元妻であり、藤原北家「摂関家」の祖「藤原冬継」の母でいらっしゃる『百済永継』

『百済永継』の御先祖様は
百済第24代の王『東城王』でいらっしゃいました。

さらに 百済第24代の王『東城王』の皇后は倭人
さらに 父の扶余昆支王の皇后、つまり『東城王』の母君も倭人で 筑紫の女

 

『東城王』 生年不詳 - 501年 在位:479年 - 501年

 

百済王家に嫁がれた倭人の二人の女性

もちろん、一般のご家庭?の方々ではなかったと言う事は容易に推測出来ます。

王家の姻戚関係は王家どうしで行われる事ではないのか!?

藤原冬継の父「藤原 内麻呂」、この方の母は孝元天皇様後裔「阿倍帯麻呂」の娘様

藤原 内麻呂に嫁がれた百済永継

百済永継のご先祖様百済第24代の王『東城王』の母君・皇后様は倭人であり、皇后様は倭人であり、筑紫の女 つまり筑紫(九州)の女性・・

何故?百済永継この方は藤原 内麻呂に嫁がれたのか!?それは・・・

其々の遠祖・母系の遠祖の方が繋がっていらっしゃるからなのではないのか!?

 

この事を踏まえてまとめました。

 

※1 阿倍氏の太祖は孝霊天皇様の皇子「孝元天皇」様

※2 孝霊天皇様の皇子「伊予皇子」の後裔「伊予橘氏」である家の宮原家を含む宮原一族。

※3 球磨の阿倍氏(阿部氏)は旧宮原村の黒原山の南側と旧上村の白髪岳の南側を所領。

※4 宮原氏は黒原山の北側(盆地側)を所領

※5 その黒原山の麓には大神惟基の霊夢による御神託にて中嶋大権現(中嶋霧島神社)

    が創建された。

※6 中嶋大権現の別当寺『龍泉寺』の観音堂「宮原観音堂」の平等院様からの奉納旗

※7 平等院様は藤原 頼通の開基

※8 藤原頼通、この方の先祖は藤原北家繁栄の礎を築いた藤原 内麻呂であり、母は孝元天皇様後裔「阿倍帯麻呂」の娘様。妻は百済第24代の王『東城王』の末裔「百済永継」

※9 さらに藤原頼通、この方の先祖は父:藤原 内麻呂 母:百済永継でいらっしゃる藤原冬継

※10 百済永継は後に桓武天皇様の皇子であり良峰氏の祖「良峰安世」を産む。 

※11 球磨の平河氏は良峰安世の後裔であり本姓を「良峰氏」とする。

※12 黒原山の麓には孝霊天皇様の後裔「宮原氏」と本姓良峰氏の「平河氏」が住していた。

※13 家の宮原家に嫁いできた祖母の実家は「平川家(江戸時代中期まで平河)」・・

全て・・繋がっています・・・

 

黒原山は孝霊天皇様の後裔と孝元天皇様の後裔に囲まれた・・

おそらく、日本国内において・・極めて稀な古(いにしえ)の真実に繋がる「お山」だと私は思います・・・

 

黒原山の麓に建立された『龍泉寺(竜泉寺)』 大同元年806年の建立・・・

今回、ここまで調べた上であらためて、私は考えました。

『もしかしたら・・いえ・・早すぎではないのかもしれません・・』

 

天台宗の紋章 「三諦星」

菊花紋章 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E8%8A%B1%E7%B4%8B%E7%AB%A0#%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97%E3%81%AE%E8%8F%8A%E7%B4%8B

 

天台宗の菊紋
仏教の一宗派である日本天台宗は、十六菊の中央に3つの星をあしらった紋(三諦章)を宗章としている。星は三諦星、または三台星とよばれ、「三台」とは中国の星座体系において、

天帝を囲む3つの星の意味である。また「三諦」と書く場合は、天台宗の教理において実相の真理を明かす3つの要諦、すなわち空諦・仮諦・中諦を指す。十六菊を用いることについては、「天台宗の皇室を守護する役割を表すため」「皇室が菊紋を用いるきっかけとなった菊の花を最澄が桓武天皇に献上したため」などの伝説がある。ただし上述のように、現在では皇室の菊花紋が定着したのは後鳥羽朝以降のことだったと考えられている。 

 

「三台」とは中国の星座体系において天帝を囲む3つの星の意味

天帝 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B8%9D

天帝(てんてい、拼音: tian di)、上帝(じょうてい、拼音: shang di)は、

中国における天上の最高神を意味する語。

天地・宇宙・万物を支配する神、造物主(古代中国)。
神、ヤハウェ(キリスト教)。
帝釈天(仏教)。

殷代の上帝
古代中国より天子は天帝を祀ることを義務(天義)とされた。これらは歴代の王朝に受け継がれている。商(殷)の甲骨文に上帝の名でこのことが書かれている。ただし、当時天帝を祀ることは天子にしか出来ないことで、これを天子の天権といった

周代の天帝
周代に於いてはほとんどの民は天帝の存在を認知しておらず、天子のみ拝することのできるものとして捉えられている。唐代では太上老君、太上道君、元始天尊の三尊などが崇拝され、これらが道教の中心となった。始上天帝は夏代後期に完成したとされているが、周代ではすでにあらゆるものの司神として崇められている。

 

ウィキペディアの記述にとても気になる内容がありました。

寓話・七夕記(牛郎織女)/天帝の娘である織女(織姫)の織る生地はそれは見事であったという。しかし、毎日それに明け暮れるのは如何程かと考えた天帝は、織女に牽牛(彦星)という若者を紹介した。しばらくすると織女は機織りの仕事を忘れ、牽牛と遊んでばかり。それに立腹した天帝は、二人を天の川を境に引き裂いた。だが、牽牛と会えないと知った織女は機織りも手につかず、毎日のように嘆くばかり。そこで天帝(玉皇大帝)は一年に一度、中国暦(太陽太陰暦)の7月7日(旧暦)に出会う事を許した。当日は天の川をカササギが橋を造る。しかし、曇った日は天の川が氾濫し、出会うことが出来なくなる。そこで、二人が出会えるように笹と短冊を奉り祈るのである。

 

龍泉寺は中嶋大権現(中嶋霧島神社)の別当寺でした。

中嶋大権現(中嶋霧島神社)の御祭事『御濱出』は旧暦の7月7日に行われていました。

★殷代 天帝を祀ることは天子にしか出来ないことで、これを天子の天権といった

★周代 天子のみ拝することのできるものとして捉えられている。

★天帝(玉皇大帝)は一年に一度、中国暦(太陽太陰暦)の7月7日(旧暦)に出会う事を許した。

 

ふと・・考えたのですが、黒原山の麓の地域に天帝をお祀りするという事は

本当に平安時代の初頭に伝わった事なのか・・・??と。

もしかしたら・・・もっと早い時期、縄文時代末期に周王朝に繋がる呉王一族が球磨に来られた時点ですでに伝わっていたのではないのか!?・・と。

 

だからこそ、この地は祈願の地であったのではないのか!?

次回は、今回の調査で偶然発見した現相良村に御鎮座であった伊勢皇大神宮に幕府降伏王政復古の令旨に携わった球磨の僧の方が奉納された御神像の衝撃の事実を含めて、新たに気が付いた事等を書かせて頂きます。

次回のブログの前に皆様方にお願いがございます。

以前書かせて頂いていたブログ『相良藩秘中の秘義と「おかはる村」』をぜひご覧頂きたいのです<m(__)m>

次回のブログ内容と、リンクしている相良藩の秘中の秘、江戸時代初頭に球磨に下された令旨に関わるお話です。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12414157968.html

 

私は今回書かせて頂いた内容、勉強した事で当時の方々の思いに心を寄せて・・

藤原北家 摂関家の祖 藤原冬嗣と言う方に対する考えが変わって参りました。

この方々も実は 孝霊天皇様・孝元天皇様に母系で繋がる方々であった事が良く理解出来ました。

そして・・祖母方の祖「良峰安世」の母でもある「百済永継」と「藤原冬継・藤原真夏」母子この方々の関係に悲しい気持ちになりました。

母を失った藤原冬嗣、真夏 ご兄弟はとても寂しい幼少期を過ごされたのだろう・・

さらに母「百済永継」この方が残して来られた子供達への思い、切なさを考えると

いつの時代も男性の栄光の影には女性の涙があったのか・・

と辛くなりました。

雨宮神社様に気持ちを寄せた時と同じ感情です・・・

 

 

実は・・遠いご先祖様方や亡くなった弟に気持ちを寄せる時に、時折聞く曲があります。

歌詞の内容は全く関係ないのですが、凄く心に響く曲です。

ハロー こんにちは・・と古の方々に気持ちを寄せて聞いています。

ONE OK ROCK のボーカル Taka君が歌う Adele-Hello と言う曲です。

御存じ無い方には森進一さんと森昌子さんの息子さんと言ったらお解りになられますでしょうか? 最近、最後にYouTubeの動画をご紹介する事が多いのですが、お付き合いください<m(__)m> ・・(^'^)

今回も長い文章となりましたが、最後までご覧下さりありがとうございました。

ひろっぷ

 

次回『親王様からの令旨 祈願の地「球磨」に奉納された御神像』 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12499823293.html