前回のブログ

祈願の地「宮原」の宮原観音堂。さらに良峰氏・阿部氏と藤原摂関家「祖」との関係

より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12498011738.html

2019/08/03 7:50 追記

2019/08/01  投稿の当ブログ最下部のYouTubeの画像下に、追記を書かせて頂きました。

 

 

はじめに

前回のブログも沢山の方々に御覧頂いた事に心より感謝申し上げます。

私は、ありがたい事ですが、先祖を調べる事は、日本の曙の時代の「謎」に繋がる事だ・・

と言う事に気が付いております。

私が発信する事は、「通説」を支持される方々からは「とんでもない」と言う言葉を頂くのかもしれません。

今回のブログ内容は・・おそらく、全国の方々に大きな波紋を投げかける事になるかもしれません。

ただ・・球磨には「真実」がその「証」が隠されている。

そう確信に至るまでを順を追ってご説明いたします。

 

①親王様からの令旨

ブログ『相良藩秘中の秘義と「おかはる村」』で書かせて頂いたように

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12414157968.html

 

球磨郡誌では「相良藩の秘中の秘義」として
仁王寺一品親王が願成寺の僧蕘辰に「幕府降伏王政復古祈願」の令旨を下された
と言う記述がありました。

国立国会図書館デジタルコレクション 公開の「球磨郡誌」
コマ番号41  
六 最後に相良氏の沿革史につき一言すべきは・・と言う記述から

お読みになられるとお解り頂けます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262/41

 

しかし、ブログ『相良藩秘中の秘義と「おかはる村」』で私が理解した事は

『上村重次氏 著 九州相良の寺院資料』デラシネ書房(1965年) に記されていた

『 慶長十八年(1613年)葵丑卯月十九日与参内/次仁仁和寺御所江参上之剋自/
覚深親王此聖天令拝領/永代奉安置也僧正勢辰/往歳六十七 』
『御聖天厨子寄贈権僧正勢辰』

の記述より、球磨郡誌記載の

仁王寺一品親王が願成寺の僧蕘辰に「幕府降伏王政復古祈願」の令旨を下された

のではなく

一品に叙せられて法中第一座の宣下をお受けになられた仁和寺覚深入道親王様(出家前の諱は良仁親王様)が願成寺 僧勢辰に「幕府降伏王政復古祈願」の令旨を下された

と言う事でした。

時は江戸幕府が成立した直後の話です。

 

②「勤王秘事」に関わっていた方々

相良頼房(相良長毎)公 相良氏第20代当主(父:相良義陽)

相良家筆頭家老 相良清兵衛こと犬童頼兄。

犬童頼兄の意思を継いだか?相良藩の「勤王秘事」の流れに関わった、もう一人の人物 

「天瑞和尚」

 

1.相良頼房(相良長毎)公と相良清兵衛こと犬童頼兄の

  「勤王秘事」

球磨郡誌より

人吉城頭に、護摩堂を設けて

『大威徳護摩秘法一千日修業、奉祈幕府降伏王政復古云々、大願主、藤原長毎、清兵衛頼兄、寛永四辛卯正月開白』

の記録あり。

さらに 相良家筆頭家老 相良清兵衛こと犬童頼兄この方は

津軽配流となる前に
旧宮原村の黒原山の頂上付近「雨引嶽」(幕府所有古地図にはあまひき嶽とあり)に

御鎮座の「雨引明神」様を中興されました。
★社家傳云 垂跡神三所
雨引明神 山王権現 八大龍王
傳云雨引明神ハ罔象女命ミツハメノミコト

 

2. 「天瑞和尚」の「勤王秘事」 岡原村関係

補足 旧宮原村と旧岡本村は明治22年(1889年4月1日)町村制施行により合併

岡原村が発足致しました。

 

旧宮原村大字宮野字伊勢元(伊勢本)に御鎮座であった「皇大神宮」を中興し
「皇大神宮」の敷地内に「
幕府降伏王政復古を祈願したお経」、千巻とも言われるお経を
経筒に納めて埋め、「経塚」を造られています。

この「経塚」は現代でも「何人も触れてはならない!」と言う「伝え」を守り、発掘調査も行われていません・・

ブログ『宮原誠一の神社見聞牒』の宮原様が今年の1月に

No.091 江戸幕府降伏王政復古祈願の地・球磨郡宮原村皇大神宮 ④ と題して 

詳しくお書き下さいました。

https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12435195732.html

 

写真は宮原様のNo.091 江戸幕府降伏王政復古祈願の地・球磨郡宮原村皇大神宮 ④

よりお借り致しました。

伊勢天照皇大神宮 熊本県球磨郡あさぎり町岡原北伊勢本

「幕府降伏王政復古」を祈願した経塚(御神塚)

091-04

091-05

 

御神塚の「幕府降伏王政復古」を祈願した経塚と伊勢天照皇両大神宮の石塔

091-07


さらに「天瑞和尚」は、私の住む、旧宮原村宮麓集落に庚申堂を建立されていました。
集落内の天瑞和尚建立の庚申堂には『青面金剛像』一体及び『脇侍十二神将』像がお祀りされています。

他にも、「天瑞和尚」は旧球磨郡久米郷岡本村(現あさぎり町岡原南)に

「福元寺」を建立されました。
「福元寺」 天和元年(1681年)人吉「
東林寺天瑞和尚」の開基。

旧宮原村の私の家からは400m程しか離れていないお寺です。

 

③天瑞和尚について

天瑞和尚は1680年(延宝8)熊本県人吉市浪床町(旧浪床村)に黄檗宗寺院『東林寺(とうりんじ)』を開山されました。

天瑞和尚・『東林寺』様については

肥後国 くまもとの歴史様サイト に詳しく記されています。

http://yumeko2.otemo-yan.net/e359919.html

 

1680年(延宝8)、天瑞和尚(てんずいおしょう)によって開山された黄檗宗(おうばくしゅう)寺院。
与謝野鉄幹・晶子夫妻も訪れた寺。

 

東林寺(とうりんじ)由緒
開山は人吉市永野町出身の天瑞道恩禅師
寛永16年(1639) 12才で曹洞宗永国寺末延命寺在孝和尚に就き得度 
20余才で上洛 
信州飯田村の正永寺を董し伊吹山岩窟の苦行 
のち京都宇治の
黄檗山万福寺(黄檗宗の大本山で宗祖は明の渡来僧隠元隆氏琦禅師 
創建は四代将軍家綱公)の四代獨湛性瑩禅師に参じ印可を得 

寛文12年(1672)帰省 
永国寺鑑司を経て錦町新宮寺再興 
延宝7年(1679)藩主・頼喬公より此の銅山の景勝地五町余を賜り
中国盧山の東林寺に模して起工 
天和2年(1682)巨蘆山東林寺として堂塔伽藍が落慶黄檗の地方本山として栄え全盛期には
薩摩の溝辺にまで及ぶ末寺27ヶ寺を有しその一つ心珠院は天端に就き得度し相良21代頼寛公の令室千姫の開基 
小川の三宝寺鉄眼禅師と共に肥後の二傑と称された天瑞は後世岡原に福元寺を建立隠居した。
寛保2年(1742)と文久2年(1862)の祝融 
明治元年(1868)の拝佛毀釈 
同10年の西南役等で壊滅的焼失 
現存の本堂兼庫裡の建設は役後政府の御下賜金の榮に浴したものである(現地案内板より)

県指定文化財 舎利容器(しゃりようき)
寛永20年(1643)、
相良22代藩主・頼喬夫人となった鷲尾大納言隆量の娘・千姫が輿入れの時に京都からから持参した「舎利容器(しゃりようき)」
舎利容器は、正面と裏面の二面覿音開きの舎利殿内に安置されています。
金銅製で框座・反花・敷茄子・蓮台と分造積み上げ式で、その上の水晶製宝珠形舎利壷を金銅の三方火焔で囲む典型的な金銅火焔宝珠形舎利容器です。

全体の高さは105mm、水晶製宝珠形舎利壷の高さは28mm、幅は22mm

製作時期は、蓮台の花弁が連続していることや、火焔が直線的で左右対称に作られていることなどから、15世紀から16世紀頃と推定されるものです。  

舎利容器を収める舎利殿は、木造黒漆塗で、高さ146mm、幅76mmあり、
各扉内面に四天王像、天井裏に竜が描かれています。  

これらのものは由緒書とともに京都の鷲尾大納言隆量の娘千姫(妙光尼)が相良頼寛(1605~1636)へ嫁ぐときに持参したものと伝えらています。  
千姫は入国後、東林寺閉山天瑞和尚に深く帰依したことで知られていますが、この縁により後に寺宝となったものと思われます。  
これらの品は、伝世された経緯が明らかなことや県内の優れた工芸品として貴重なものです。 (熊本県教育委員会 文化財通信より)

※舎利容器(しゃりようき)とは、骨壷(こつつぼ)の事

 

東林寺の磨崖像(まがいぞう)
東林寺の旧参道に沿った崖面(がけめん)には、観音像(かんのんぞう)・羅漢(らかん)・青面金剛(しょうめんこんごう)などの仏像や八幡神(はちまんしん)・春日神(かすがしん)などの神像といった29体の磨崖像や、開山時の天瑞による『開路の句』といった彫刻がある。

 

昭和5年、大雨のため庭の土手が崩れ、そこから7万個の石が出土。
それには
一石一石王政復古を気祈願した墨書が天瑞道恩によって書かれていた。
石に願いを込め、石を地中深くに埋め念じたのだろう。

これは当時、勤王石として多くの人々の注目を集める。

強い関心を持った与謝野鉄幹・晶子夫妻は六女とともに東林寺訪れ、歌を詠んでいる。
与謝野晶子 『橋を越え中川原越え橋を越え 先づ見んとする球磨の禅院』
与謝野鉄幹 『西鶴が朽ちぬ草子を書きつるも この石の字も天和元年』

 

以上 肥後国 くまもとの歴史様サイト 『【人吉】東林寺(とうりんじ)』より

 

※7万個の石

一石一石王政復古を気祈願した墨書が天瑞道恩によって書かれていた。

 

岡原村以外の地での『天瑞和尚』の王政復古祈願

調べると、そこには、信じられない「秘密」が隠されていました。

 

④『天瑞和尚』御奉納の御神像

私が所有する『上村重次氏 著 九州相良の寺院資料』には

『天瑞和尚』に関するページが7ページに渡って多数の御神像・御仏像の写真と共に

詳しく記されていました。

今回、ブログに転写する事を最初は躊躇したのですが、

上村重次氏 著 九州相良の寺院資料』には、普段は決してお目にする事は出来ない球磨の神社様、御寺様に伝わる御神像・御仏像を、自らの目で拝見する事が出来る素晴らしい書籍です。

熟読する事により、球磨の真実、球磨の古代が見えてくる!

私はそう確信致しました。

上村重次氏の御調査、ご研究は『球磨の古代』いえ『日本の古代』を理解するための

『素晴らしい宝である』 と 私は思います。

全国の方々にぜひ、その事を御理解頂きたいと願い、あえて、勝手ながら転写させて頂く事を決意いたしました。

 

『上村重次氏 著 九州相良の寺院資料』 170ページには

旧宮原村伊勢本の伊勢天照皇大神宮の御神石のお写真が掲載されていました。

 

 

上記のページには

『伊勢神宮への敬神と庚申信仰とは天瑞の注目すべき特徴のようである。』

と記されていました。

確かに、先に書きましたように、私の住む宮麓集落にも天瑞和尚は「庚申堂」を建立されて

『青面金剛像』一体及び『脇侍十二神将』像がお祀りされています。

 

そして・・・

『上村重次氏 著 九州相良の寺院資料』 174ページ に掲載の

球磨郡相良村平 伊勢神宮祠堂内の御神像と台座銘の写真を拝見した瞬間・・・

私は、頭の中が真っ白になるような、衝撃を受けました。

 

右が伊勢大神で27㎝

 

左は春日大明神で29㎝

 

 

伊勢大神様の御神像は・・・

男神像様ではないのでしょうか・・・!?

 

私は驚いて、しばらく言葉を失いました。

気持ちを落ち着かせて、天照大神様のウィキペディアの記述を拝見しました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E

 

天照大神(あまてらすおおかみ)、または天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、日本神話に主神として登場する神。女神と解釈され、高天原(たかあまのはら)を統べる主宰神で、皇祖神にして日本国民の総氏神であるとされる。

 

『古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、『日本書紀』においては天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)と表記される。別名、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)

『古事記』においては「天照大御神」という神名で統一されているのに対し、『日本書紀』においては複数の神名が記載されている。伊勢神宮においては、通常は天照大御神の他に天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、あるいは皇大御神(すめおおみかみ)と言い、神職が神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)と言う。

 

ツクヨミのように明確な性別の記載があるわけではないが、『日本書紀』ではスサノヲに姉と呼ばれていること、アマテラスとスサノオの誓約において武装する前に髪を解き角髪に結び直す、つまり平素には男性の髪型をしていなかったことに加え、機織り部屋で仕事をすることなど女性と読み取れる記述が多いことなどから、古来より一般に女神と解されている。

※『日本書紀』では・・・つまり、日本書紀の記述が、女神様でいらっしゃる・・と言う説に繋がっていると言う事に気が付きました。

 

天照大神男神説

神道において、陰陽二元論が日本書紀の国産みにも語られており、伊弉諾尊を陽神(をかみ)、伊弉冉尊を陰神(めかみ)と呼び、男神は陽で、女神は陰となされている。太陽は陽で、月は陰であり、太陽神である天照大神は、男神であったとされる説である。

平安時代、『寛治四年十一月四日伊勢奉幣使記』で伊勢神宮に奉納する天照大神の装束一式がほとんど
男性用の衣装であって、江戸時代の伊勢外宮の神官度会延経はこれを典拠にして、『左経記』の宇佐への女子用装束と比較して、「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記している。(『内宮男体考証』『国学弁疑』)。また、『山槐記』永暦二年(1161)四月廿二日条、『兵範記』仁安四年(1169)正月廿六日条にも内宮に男子装束が奉納された記事がある。

京都祇園祭の岩戸山の御神体は伊弉諾命・手力男命・天照大神であるが、いずれも男性の姿である。

天照大神の像は「眉目秀麗の美男子で白蜀江花菱綾織袴で浅沓を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸にかけ笏を持つ。」と岩戸山町で伝えられるとおりの姿である。

江戸時代、円空は男神として天照大神の塑像を制作している。

江戸時代に流行した鯰絵には天照大神が男神として描かれているものがある。京丹後市久美浜町布袋野(ほたいの)の三番叟(さんばそう)に登場する翁は天照大神を表すとされ、振袖を着てカツラを装着し、かんざしを挿して金色の烏帽子を被る姿である。

また、藤原不比等が女性が天皇に即位できるように記紀を作り替えたとも言われる。

以上 ウィキペディアより

 

1600年代後半『天瑞和尚』の球磨の各所に残された王政復古祈願は先に書かせて頂いた通りです。

皆様、想像してみて下さい。

7万個の石 一石一石王政復古を気祈願した墨書が天瑞道恩によって書かれていた。

『天瑞和尚』の王政復古祈願がいかばかりの精神力、信念に基づいて行われていたのか

『想像を絶する』とはこの事を指すのではないのでしょうか!?

その『天瑞和尚』が奉納された御神像

非常に重要な意味が込めてあると私は考えます。

 

一つ言える事は、複雑な事情も含めて

この「謎」は決して通説では解き明かす事が出来ない

ただ、記紀には暗号のような隠した事に対するキーワードが多々みかけられる・・

と私は感じています。

 

何故?球磨を祈願の地と私が呼ぶのか?

拙い文章でしたが、その理由を新たに知った事を含めて書かせて頂きました。

 

何故? 球磨に親王様より幕府降伏王政復古の令旨がもたらされたのか・・・

私は、球磨が古代の「謎」に直結する地であるから・・だと推測しています。

室町時代にその「球磨」の統治を成し遂げた「相良氏」

さらに、相良氏も古代の「謎」に直結する方々であったから・・だと推測しています。

 

その理由は

鎌倉時代初頭の相良一族の所領範囲は、球磨・人吉の範囲だけではありませんでした。

泉新荘・泉本荘(肥後国山鹿郡)※熊本県山鹿市鹿本町高橋等 豊前国上毛郡成恒庄等がありました。

角川地名大辞典 泉荘(中世) をご覧下さい。

http://jlogos.com/ausp/word.html?id=7618239

鎌倉期~室町期に見える荘園名山鹿郡のうち菊池川の支流内田川の流域一帯に位置し,現在の菊鹿町および鹿本町北東部に比定される。

荘名は荘内各地に清泉が湧くことに由来するという。

荘域のうち高橋・津袋など南部一帯を本荘,内田・相良(あいら)など北部地域を新荘という。本荘の中心は,高橋八幡宮が鎮座し,有福寺跡に鎌倉期の巨大な五輪塔が残る現鹿本町高橋であったとみられ,泉本荘を高橋荘ともいう。

荘名の初見は鎌倉初期と推定される。

 

こちらの、相良一族は所領した土地にちなんで『高橋氏』・『内田氏』・『山井氏』を名乗られています。

山鹿の高橋と言う地が古代九州王朝にとっていかに重要な土地であるか・・ご存じの方々も多くいらっしゃると思います。

さらに、南北朝時代の相良一族の所領地には肥後国江田村が含まれていました。

あの、江田船山古墳で有名な旧『江田村』です。

 

古代九州王朝に関わる地・・その地に深く関わる相良氏。

知り得る限り、江戸中期の「相良氏」は遡ると、九州の古代王朝に直結される孝霊天皇様に繋がる方々です。

今回は、ご説明出来ませんでしたが、次回は相良氏を中心とした古代との繋がりを書かせて頂きます。

 

最後は、相良氏とご縁のある山鹿のYouTubeに公開されている神社様の映像を

ご紹介いたします。

ANASHI様の そうだ神社に行こう!#05 一ツ目神社、不動岩  です。

球磨の雨宮神社様の映像とは異なり、癒し、安らぎではなく、古代の「大乱」・「戦」を想像する映像です。

私は、流れている曲の中にある

正しいのは自分の方だと強く信じていた』 と言う言葉が心に強く残りました。

きっと、古代の方々は皆、其々の「正義」をかけて戦われたのだと・・

私は思っていたからです。

 

 

2019/08/03 7:50 追記

今回の『相良藩の秘中の秘事』に関係された方々は

1600年代の方々です。

明治維新より約200年程前のお話となります。

明治維新と直接の関係はない・・と私は考えます。

何故なら、相良藩は『秘中の秘事』以降も、『江戸』とは友好な関係を続けて、います。

相良氏についてはウィキペディアの記述にもあるように

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E8%97%A9

藩主家の相良氏は鎌倉時代初頭の建久4年(1193年)、この地の地頭に任ぜられた。その後戦国大名に成長し、江戸時代に入っても領主として存続し明治維新を迎えた極めて稀な藩の一つである。

相良氏は『極めて稀な藩』の藩主でいらっしゃったのであります。

 

ウィキペディアの記述『藩内抗争』をご覧頂くと、お解り頂けますが

人吉藩では深水氏と犬童氏の対立に始まり、門葉(相良一族、小衆議派と呼ばれる)と家老(大衆議派)との対立が絶えず、たびたびお家騒動・事件が起こった。古来からの小領主ゆえに門葉が数家あり、また家臣も古くからの存在で、互いの権利主張が当主の権力を小さくしていった。しかし、これほど多数の騒乱が起こった藩は極めて珍しい。

とあります。

 

それでも、江戸よりのお咎めは無く明治時代を迎える事になった

極めて稀な地域 球磨・人吉

なのです。

 

今回も最後までご覧頂きありがとうございました。

ひろっぷ

 

次回 『球磨と戦争 その『根源』 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12502506807.html