前回のブログ『 旧宮原村古地図と岡原村の神社様 』 より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12413388345.html

 

2018/10/25 AM4:00 追記

すでに、当ブログ内容をご覧の皆様へ

曾祖母(平川家)の実家「深水家」の御堂にお祀りの「将軍地蔵様」の画像等を追記させて

頂きました。

 

まず、初めに

前回のブログでは『 神社見聞牒様(宮原様)』、『 す~み~☆様 』から、ありがたい御教示を頂きました事を心よりお礼申し上げます。

ありがとうございました。

一昨日、昨日と主人が連休で外出しておりまして、パソコンを使用する時間が取れず、

お礼が遅くなりました事をお詫び申し上げます。

 

実は、『 神社見聞牒様(宮原様)』、『 す~み~☆様 』から頂いたご教示を基に、所有する書籍・資料等をじっくりと読んでいた所、衝撃の記述を目にする事となりました。

その衝撃の記述とは、以前からご紹介している『相良藩の秘中の秘儀』に繋がる事であったのです。

この事に到るまでの経緯を含めて、私のブログをご覧頂いている皆様にぜひお伝えしたい!と考え、今回は書かせて頂こうを思います(..)

 

神社見聞牒様(宮原様)から頂いたご教示に

〉正八幡宮の祭神は本来、大幡主です。出身は白族の白川伯王家です。

〉大幡主の中国風の姿で王冠を被った姿は初見です。
 今まで見て来ました御神体は平安朝の衣冠束帯でした。

〉大幡主は熊野神社の御祭神でもあります。

〉旧岡本村斉堂の正八幡神宮は、「岡本城主岡本頼春(相良頼春)公をお祀りされていると伝わっている」と述べられていますので、恐らく、左右のどちらかの衣冠束帯の御神体でしょう。正八幡神宮に追祀されたと考えます。

と言うお話がありました。

 

さらに、

す~み~☆様から頂いたご教示に

〉相良村に井沢熊野座神社があり、それは、相良氏以前にこの地を治めていた平河氏が建てたものと、日本遺産のHP 41の構成文化財の中で、説明がありました。

と言うお話がありました。

 

そこで、私は気が付いたのであります!

完全に忘れかける所でした・・・(先祖から叱られてしまう(@_@。)

熊野本宮禰宜の職に就き、代々本宮を奉斎する「熊野氏」は物部氏の系でいらっしゃいました。さらに、橘氏とも「熊野氏」は縁戚関係になられます。

参考 日本の苗字七千傑様 サイトより 【熊野氏】(熊野国造) 姓氏類別大観

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02125.htm

 

成務朝に饒速日命(物部氏の祖)の後裔、大阿刀足尼が熊野国造に任じられ、子の稲比が熊野直を賜姓される。 子孫の伍百足が熊野本宮禰宜の職に就き、代々本宮を

奉斎する。
南北朝時代の子孫和田正遠は橘氏の家系を継承して楠木氏を称する。有名な楠木正成は正遠の子である。

【熊野氏】(熊野国造) 姓氏類別大観を拝見すると

饒速日命(物部氏の祖)の後裔、大阿刀足尼(熊野国造)の後裔『多賀志麿』、この方の養子に『橘 島田麿』の子息『真主』と言う方が入られた事が解り、さらに、後裔の方(女子)は

物部氏「穂積氏」後裔の「鈴木氏」の「鈴木良氏」と言う方の妻となられています。

鈴木氏(物部姓)が全国に広がった理由は「熊野神社」が各地に勧請されたから・・と言う事は

系図を調べる方であれば周知の事でした。

つまり、【熊野氏】(熊野国造)の系を拝見すれば「物部氏」と「橘氏」の関係が一目瞭然で解るのでありました。

完全に忘れていました・・・(..)・・・(@_@。

ちなみに、日本の苗字七千傑様の【熊野氏】(熊野国造) 姓氏類別大観の一番下に記されている『掲載姓氏』の項には

【熊野氏】【橘氏】【岩代氏】【真砂氏】【山田氏】【宇原木氏】【小池氏】【和田氏】
【河端氏】【金剛氏】【戸部氏】
※上記の他【長田氏】【永田氏】【堤氏】【預岐氏】【竹内氏】が熊野国造裔。

と記されていますが、

【小池氏】【和田氏】【長田氏】【永田氏】

うちの(宮原家・平川家・深水家)の親戚にある姓でございます(..)・・・和田家は『旧岡本村の別々の地』に二軒の親戚があります。

以前から、偶然ではなさそうだ・・とは考えていたのでありました。

さらに、親戚の一軒の和田家は『岡本 正八幡神宮』とは目と鼻の先にあります。

やはり、偶然ではなさそうだ・・・と考えました。

 

中国風の姿で王冠を被った姿の御神像について

私は、神社見聞牒様(宮原様)から頂いたご教示を拝見して、自分自身の球磨ボケを痛感致しました。

球磨ボケとは、球磨の古代の遺跡や球磨の植物で頻繁に目にするような

「極めて稀な」とか「非常に珍しい」とか言う記述がだんだんと・・普通に感じて来る・・と言う

私の造語です。

30年以上離れていた球磨に3年前に戻り、求麻郷土研究会に加入させて頂き、球磨の様々な神社仏閣に伺わせて頂いて、御神像や御仏像を拝見する中で、最初の方(3年前)に伺った「荒田大王神社」さらに、相良村の平河氏が建立された「お堂」で、中国風の御神像を見た事がきっかけで、「中国風の御神像」は普通の事なのだ・・と考えてしまっていました・・(..)

もちろん、球磨に戻るまでは、御神像は、何処でも見た事はありませんでした。

その後、曾祖母の実家「新堀家」の弟の方が継いだ「深松家」の御堂で初めて「衣冠束帯」の御神像(男神像)と女神像を拝見して「衣冠束帯」の御神像について知る事となりました。

 

★ここで補足させて頂きます

深松家(新堀家)の御堂にお祀りの男神像様の両胸には並び鷹の羽紋が施されていました。

他に、深松家(新堀家)の御堂には「四手」で「三面」の御神像(尊星王)がお祀りされていました。(御一緒して下さった求麻郷土研究会の溝下様は妙見様ではないのか!?とおっしゃっていらっしゃいました)

さらに、御堂の一番右上には、真っ黒い神棚?(言葉が解りません(>_<) )が置かれていて

何故?真っ黒なのか・・?と思いながら、開けてみると・・

もの凄~く古そうな・・扇が一枚お祀りされていました。

何故???「扇が御神体」なのか・・・全く意味が解らなかったのですが・・・

深松家(新堀家)の御堂について、何かお気づきの点がおありになられた方がいらっしゃいましたら、ぜひ、御教示を賜りたいと心よりお願い申し上げます。

 

2018/10/25 AM4:00 追記

宮原家の曾祖母の実家「新堀家」(後に深松家を継ぐ)の御堂以外に、私の祖母方の平川家に嫁いで来られた曾祖母の実家「深水家」にも氏神様をお祀りの御堂があります。

かなり、以前、ブログにも書かせて頂いていました。

ブログ 『曾祖母の実家「深水家」のお堂』

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12301993392.html

 

深水家の御堂には、

鎌倉時代に建立された「木像地蔵菩薩立像」様

「日向国高知尾」(宮崎県高千穂)から、曾祖母の実家に移動した鰐口

そして、将軍地蔵様がお祀りされています。

 

将軍地蔵様と御神像様の御写真(深水家の御堂にて地元の歴史研究家の方が撮影)


ひぼろぎ逍遥様(古川様)の

『579 十種ケ峰の麓に金山彦が鎮座する “山陰 津和野の愛宕神社』 を拝読させて頂き、

https://ameblo.jp/hiborogi-blog/entry-12414240043.html

深水家の御堂にお祀りの将軍地蔵様が非常に気になりましたので、追記させて頂きました。

 

 

補足前にお話を戻します

お伺いする神社様で度々「衣冠束帯」の御神像を拝見していたのですが、

求麻郷土研究会の御先輩方が、神社仏閣で色々お話をされていらっしゃるのに、私は離れた所から遠目で見ながら『中国風と衣冠束帯の御神像があるのだなぁ~』くらいにしか理解していませんでした(@_@。

『基本の基』が解っていない私の大失態です。

そこで、あらためて、勉強を!と思い、所有する、『上村重次氏 著 九州相良の寺院資料』

等の書籍・資料を読み返したのです。

そこで、素人の私なりに気が付いた事を書かせて頂きます。

 

王冠を被られた御神像で特に気になった御神像がありました。

上村重次氏 著 九州相良の寺院資料より

球磨郡多良木町東 「池王神社」様 御神像 

明らかに王冠をお被りのように見えます。

 

そこで、多良木町東の「池王神社」様とは何処だろう?と調べたのですが・・・

(最近の地名は、東とか西とか岡原北とか岡原南とか、本来の地名が解り辛くなっています)

 

「池王神社」様の御鎮座地は・・・古多良木でした!!

 

古多良木(ふるたらぎ)と言えば・・私の曾祖父の実家「久保田家」一族が住まわれる場所です。

 

何だか・・・凄く驚きました。

 

ただ・・・古多良木御鎮座の池王神社様の御祭神を調べたのですが、今の所、解りません。

(これからも、調査を続行致します)

 

ここで神社見聞牒様(宮原様)から頂いたご教示

『旧岡本村斉堂の正八幡神宮は、「岡本城主岡本頼春(相良頼春)公をお祀りされていると伝わっている」と述べられていますので、恐らく、左右のどちらかの衣冠束帯の御神体でしょう。正八幡神宮に追祀されたと考えます。』

と言うお言葉が頭の中を駆け巡りました。

 

球磨郡・人吉市に御鎮座の神社様、主(おも)だった神社様は何故か?創建の御由緒が

「大同年間」(806年~810年)から始まっています。

こう言う事って本当にあるのだろうか・・・?

私は、この事を、「有り」と考えて今まで、色々な視点で、先祖の調査を行って来ましたが

最近は・・・かなり・・・疑い始めています。

平安時代の承平年間(931~938)わが国最初の百科事典『和名類聚抄』によれば、

球磨郡には『久米(くめ)』『球玖(くく)』『人吉(ひとよし)』『東村(ひがしむら)』『西村(にしむら)』『千脱(ちぬぎ)』の六郷がありました。

その『球磨郡』に大同年間以前には神社様が一社も無かっただなんて・・・やはりおかしい!

さらに、太宰管内志. 球磨郡久米郷の項

久米郷 
和名妙に球磨郡久米郷あり・・・
久米物部の住めりし處なるべし。

と記された球磨郡久米郷にも、大同年間以前に神社様が一社も無かったなんて・・・・

絶対におかしい!! 絶対に変だ!!!!かなり妙な話だ!!

と・・・私は考えております。

 

神社様が一社も無かった、まるで不毛の地のような場所に、「黄金の馬具」で飾られた馬に

乗って黄金の鏡を所有し、ブレスレットやネックレスで着飾った方々がいらっしゃったのでありましょうか・・・???? 

ありえない・・・

 

そう考えながら、上村重次氏 著 九州相良の寺院資料を読み進めていた私は・・・

ある「文章」に衝撃を受けました。

 

相良藩秘中の秘義と「おかはる村」

上村重次氏 著 九州相良の寺院資料に「相良路の秘仏」と言う項がありました。

そこには「歓喜天(聖天)」様の御写真が多数掲載されていました。

球磨・人吉の多数のお寺院様では「歓喜天(聖天)」様を『秘仏中の秘仏』として一目に触れない所に、しまわれていらっしゃる・・と言うお話が記されていました。

参考 歓喜天様 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%93%E5%96%9C%E5%A4%A9

 

沢山の歓喜天様の御写真の中の一つに、ある文章が添えられていました。

その文章に私は身体が震えてしまいました。

 

『 慶長十八年(1613年)葵丑卯月十九日与参内/次仁仁和寺御所江参上之剋自/

覚深親王此聖天令拝領/永代奉安置也僧正勢辰/往歳六十七 』

『御聖天厨子寄贈権僧正勢辰』

※勢辰は人吉・願成寺の十三世であり、この歓喜天がどういういきさつで青蓮寺に伝わったかは不明。

 

仁和寺御所江参上之剋自/覚深親王此聖天令拝領/

 

※仁和寺御所 覚深親王様・・・

この御方は・・覚深親王様は、以前、非常に気になってお調べした事がありました。

それは・・・・

相良藩の秘中の秘義についての個人的な調査です。

 

覚深親王様 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E6%B7%B1%E5%85%A5%E9%81%93%E8%A6%AA%E7%8E%8B

覚深入道親王(かくしん/かくじんにゅうどうしんのう、天正16年5月5日(1588年5月29日) - 慶安元年閏1月21日(1648年3月15日)は、江戸時代前期の皇族、真言宗の僧。

後陽成天皇の第1皇子。母は典侍・中山親子。仁和寺第21世門跡。出家前の諱は良仁親王(かたひと しんのう)。後南御室とも呼ばれる。覚深法親王(〜ほっしんのう)としたものも多いが、親王宣下は出家前にすでに受けているので正しくは法親王ではなく入道親王である。

 

文禄3年4月29日(1594年6月17日)、次期天皇即位を前提に親王宣下を受ける。一説にはこの親王宣下の背景には豊臣秀吉の後押しがあり、朝鮮出兵が成功して明を征服した暁には後陽成天皇を北京に遷して、良仁親王を日本の天皇にする計画が存在したとも言われている。2年後には亡くなった正親町上皇の御所を将来の東宮御所にすべく親王に与えられている。
ところが、慶長3年(1598年)秀吉が死亡すると、突如、後陽成天皇が良仁親王を皇位継承者から外す意向を示す。この時は朝廷・豊臣政権ともに強く反対して中止されるものの、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに勝利して政治の実権を握った徳川家康は豊臣政権色の強い

良仁親王を廃して、天皇の正室である女御・近衛前子が生んだ第3皇子の政仁親王(後の後水尾天皇)を代わりに立てることを条件に天皇の意向を受け入れた。
慶長6年3月5日(1601年4月7日)、良仁親王は仁和寺真光院に入室し落飾。慶長19年(1614年)、一品に叙せられて法中第一座の宣下を受けた。

中略・・・

仁和寺の再興に関連して、真光院の古御堂は栂尾の高山寺に移築され、花園の今宮神社や宇多野の福王子神社の再興も行われている。
 

私が覚深親王様をお調べした経緯は、球磨郡誌に記載されていた「相良藩の秘中の秘義」について、非常に興味を持った事からでした。

ブログ 『 マダマダ続く※大字宮野について 』でも御紹介させて頂きました。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12384787109.html

 

球磨郡誌では

仁王寺一品親王が願成寺の僧蕘辰に「幕府降伏王政復古祈願」の令旨を下された

と言う記述がありました。

私は仁王寺一品親王様とは何方なのだろう?と、この記述に気が付いた時(実は3年前)に

当時の相良藩主「相良長毎(実は相良氏の第20代当主相良 頼房)」公、犬童頼兄(相良清兵衛)の護摩堂の記述を基に、時間軸を精査して、もしかしたら・・覚深親王様が「一品親王様」でいらっしゃるのではないか?

と推測をしたのですが、確証が無く、この事を利用させて頂いているスレッドでコメントとして書いた後、不敬にあたるかもしれない・・と考えて削除した事があります。

球磨郡誌には仁王寺と記されていますが、全国に仁王寺に一品内親王様に該当される方は見当たらず、さらに、願成寺の僧蕘辰とありますが、願成寺の歴代住職の方には蕘辰と言う方が見当たらず、あえて、時間軸で考えると願成寺第十三代住職「勢辰」、この方ではないのかな・・・?と考えたのですが、確証がありませんでした。

 

所が・・今回、上村重次氏 著 九州相良の寺院資料をじっくりと読んでいて

『 慶長十八年(1613年)葵丑卯月十九日与参内/次仁仁和寺御所江参上之剋自/
覚深親王此聖天令拝領/永代奉安置也僧正勢辰/往歳六十七 』
『御聖天厨子寄贈権僧正勢辰』
※勢辰は人吉・願成寺の十三世であり、この歓喜天がどういういきさつで青蓮寺に伝わったかは不明。

 

仁和寺御所江参上之剋自/覚深親王此聖天令拝領/
 

この記述に気が付いてしまったのであります。

とても、衝撃を受けました。

 

願成寺 僧勢辰

仁和寺 

覚深入道親王(かくしん/かくじんにゅうどうしんのう、天正16年5月5日(1588年5月29日) - 慶安元年閏1月21日(1648年3月15日)は、江戸時代前期の皇族、真言宗の僧。

後陽成天皇の第1皇子。母は典侍・中山親子。仁和寺第21世門跡。

慶長6年3月5日(1601年4月7日)、良仁親王は仁和寺真光院に入室し落飾。慶長19年(1614年)、一品に叙せられて法中第一座の宣下を受けた。

 

私は、恐れ多い事を書いているのは重々承知です。

しかし、私が最も知りたい事は『「幕府降伏王政復古祈願」の令旨を下された』と言う記述が

もしも、真実であれば、何故?この球磨の地で「幕府降伏王政復古祈願」を行う必要があったのか?という理由です。

 

記紀により、まるで、熊が襲うような、文化的にも不毛の地のように後世の方々に誤解を受けるような扱いを受けた「球磨」の地に、影のような存在となった「球磨の地」

何故?御祈願を行う必要があったのか!?

記紀により、隠ぺいされた歴史と言う言葉をよく目にしますが、本当に隠された「真実」の一つは「球磨」の古代ではないのでしょうか・・・?

 

何とも言えない心の叫びが湧きあがっています・・・

 

私の住む旧宮原村・旧岡本村は「相良藩の秘中の秘義」に深く関わっています。

ブログ 『 マダマダ続く※大字宮野について 』でも御紹介させて頂きました。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12384787109.html

 

「勤王秘儀」に関わっていた方々

相良家筆頭家老 相良清兵衛こと犬童頼兄。

相良頼房(相良長毎)公 相良氏第20代当主(父:相良義陽)
 

津軽配流となる前に相良家筆頭家老 犬童頼兄、この方は数回に渡って御紹介した

旧宮原村の黒原山の頂上付近「雨引嶽」に御鎮座の「雨引明神」様を中興されました。
★社家傳云 垂跡神三所
雨引明神 山王権現 八大龍王
傳云雨引明神ハ罔象女命ミツハメノミコト

 

相良頼房(相良長毎)公 相良氏第20代当主(父:相良義陽)、この方の母君「了信尼」の

位牌所として建立されたお寺が、宮麓の庭柏寺です。

初め「真言宗」のお寺でしたが、後に黄檗宗に変わっています。

家の宮原家、祖母の実家の平川家等、親戚も、江戸時代末期まで、庭柏寺にお世話になっていました。

 

犬童頼兄の意思を継いだか?相良藩の「勤王秘儀」関わった、もう一人の人物 「天瑞和尚」
「天瑞和尚」・・実は・・
旧宮原村大字宮野字伊勢元(伊勢本)に御鎮座であった「皇大神宮」を中興
「皇大神宮」の敷地内に「幕府降伏王政復古を祈願したお経」、千巻とも言われるお経を
経筒に納めて埋め、「経塚」を造られています。
この「経塚」は現代でも「何人も触れてはならない!」と言う「伝え」を守り、発掘調査も行われていません・・
さらに「天瑞和尚」は、岡本村に「福元寺」を建立されました。
「福元寺」 天和元年(1681年)人吉「東林寺天瑞和尚」の開基。
「福元寺」は私が現在住んでいる家から400m程しか離れていません。

こちらの福元寺には元禄五年(1692年)に建立された庚申塔があり施主「橘公貞」と

橘氏の名前が刻まれています。

現在の「福元寺」の御住職は「辛島氏」でいらっしゃいます。

御住職の辛島様は父の同級生でもあり、地元の歴史研究家の方の話では、辛島御住職は

『「先祖様は古代の中国から来られた」とおっしゃっている』と伺っています。

 

相良藩の「勤王秘儀」

何故?宮原村、岡本村が関わったのか・・・?

それは・・・この地が「古代 物部氏」所縁の「地」であるからではないのか・・?

「古代 橘氏」に所縁の「地」であるからではないのか・・・?

それとも・・他にも何か理由があるのか・・・?

 

今回は

『 神社見聞牒様(宮原様)』、『 す~み~☆様 』から頂いたご教示を基に、所有する書籍・

資料等をじっくりと読んでいた所、最後には衝撃の記述を目にする事となりました。

 

実は、先月の相良三十三観音堂の御開帳の際に主人と「青蓮寺」様に

お伺い致しておりました。

その日、その時間、参拝の方が偶然途切れて、私は、青蓮寺内の観音様の前で、案内をされていた方々と「球磨について」1時間ほど其々の意見を話したりと、とても楽しい時間を過ごさせて頂きました。

きっと観音様は、うるさい私を苦笑いされていらっしゃった・・と思います。

「青蓮寺」様は、私の曾祖母の御先祖様「新堀頼兼」の妻の方の御両親「相良頼景公」と

妻の「青蓮尼」様の菩提寺であります。

その「青蓮寺」様に私がずっと知りたかった事(記述)が残っていた・・

 

私は、考えるのです。

きっと、何らかの御導きが働いているのでは? と。

科学では証明出来ない力、私は必ず存在すると信じます。

 

『 神社見聞牒様(宮原様)』、『 す~み~☆様 』

御教示、本当にありがとうございます。

私のブログに関心をお持ち下さっている皆様方にも感謝申し上げます。

皆様方に、心より御縁を感じています。

 

次回 『古代と記紀と「遺伝性の筋肉の病」』 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12415376566.html