宮原誠一の神社見聞牒(091)
平成31年(2019年)01月25日

No.91 江戸幕府降伏王政復古祈願の地・球磨郡宮原村皇大神宮 ④


アメブロ「古代・中世・近世の繋がり 先祖について」ひろっぷ管理人の「球磨郡久米郷が継承した『古代の真実』」2019-01-13 に、江戸時代初期、朝廷より人吉相良藩に「幕府降伏王政復古祈願」の令旨が出されていることを知りました。
この舞台となった熊本県球磨郡あさぎり町伊勢本の「皇大神宮」と同町岡原北の宮麓の「雨引神社」の話です。

1.「幕府降伏王政復古祈願」の令旨

ひろっぷ管理人ブログ「相良藩秘中の秘義と『おかはる村』」2018-10-24 によると、「球磨郡誌」に「相良藩の秘中の秘義」の「仁王寺一品親王が願成寺の僧蕘辰に『幕府降伏王政復古祈願』の令旨を下された」という記載文があります。
仁王寺一品親王である覚深(入道)親王(かくしんしんのう)が、人吉藩相良家の菩提寺である願成寺の僧蕘辰に『幕府降伏王政復古祈願』の令旨を下された、という。
その一舞台が、熊本県球磨郡あさぎり町(旧宮原村)伊勢本の皇大神宮であると云われています。

覚深入道親王
後陽成天皇の第1皇子。母は典侍・中山親子。出家前の諱は良仁親王(かたひと)。
文禄3年(1594)次期天皇即位を前提に親王宣下を受ける。
この親王宣下の背景には豊臣秀吉の後押しがあり、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は豊臣政権色の強い良仁親王を廃して、天皇の正室である女御・近衛前子の第3皇子の政仁親王(後の後水尾天皇)を立てることとなる。
慶長6年(1601)良仁親王は仁和寺真光院に入室し落飾。仁和寺第21世門跡となる。

願成寺(がんじょうじ)
熊本県人吉市願成寺町956
天福元年(1233)、相良氏初代・相良長頼の創建。
相良家の菩提寺で背後には歴代相良家の墓が整然と並ぶ。
人吉城から見て、東北にあり、城の鬼門に当たることから鬼門を鎮護する意味をこめて、この地が相良家の菩提寺と定められた。

「ひろっぷ」さんが、この『幕府降伏王政復古祈願』の令旨を見出す「きっかけ」がブログ「相良藩秘中の秘義と『おかはる村』」2018-10-24 に述べられています。
その抜粋と要約です。

相良藩秘中の秘義と「おかはる村」ひろっぷ 2018-10-24
王冠を被られた御神像で特に気になった御神像がありました。
熊本県球磨郡多良木町東「池王神社」様の御神像
そこで、多良木町東の「池王神社」様とは何処だろう?と調べたのですが、「池王神社」様の御鎮座地は古多良木でした!!
古多良木(ふるたらぎ)と言えば、私の曾祖父の実家「久保田家」一族が住まわれる場所です。古多良木御鎮座の池王神社様の御祭神を調べたのですが、今の所、解りません。

上村重次著「九州相良の寺院資料」デラシネ書房(1965年)を読み進めていた私は、ある「文章」に衝撃を受けました。「九州相良の寺院資料」に「相良路の秘仏」という項がありました。そこには「歓喜天(聖天)」様の御写真が多数掲載されていました。球磨・人吉の多数の寺院様では「歓喜天(聖天)」様を『秘仏中の秘仏』として一目に触れない所に、しまわれていらっしゃる、と言うお話が記されていました。沢山の歓喜天様の御写真の中の一つに、ある文章が添えられていました。
その文章に私は身体が震えてしまいました。

『慶長十八年(1613)葵丑卯月十九日 与参内/次仁 仁和寺 御所江 参上之剋自/
覚深親王 此聖天令 拝領/永代奉安置也 僧正勢辰/往歳六十七』
『御聖天厨子 寄贈 権僧正 勢辰』

私が覚深親王様をお調べした経緯は、球磨郡誌に記載されていた「相良藩の秘中の秘義」について、非常に興味を持った事からでした。
球磨郡誌では
仁王寺一品親王が願成寺の僧蕘辰に「幕府降伏王政復古祈願」の令旨を下された
と言う記述がありました。

私は仁王寺一品親王様とは何方なのだろう?
当時の相良藩主・相良長毎公(相良氏の第20代当主相良頼房公)、犬童頼兄(相良清兵衛)の護摩堂の記述を基に、時間軸を精査して、もしかしたら、覚深親王様が「一品親王様」でいらっしゃるのではないか?と推測をしたのですが。

球磨郡誌には仁王寺と記されていますが、全国に仁王寺に一品内親王様に該当される方は見当たらず、さらに、願成寺の僧蕘辰とありますが、願成寺の歴代住職の方には蕘辰と言う方が見当たらず、あえて、時間軸で考えると願成寺第十三代住職「勢辰」、この方ではないのかな・・・?と考えたのですが、確証がありませんでした。
所が今回、上村重次氏著「九州相良の寺院資料」をじっくりと読んでいてとても、衝撃を受けました。

 願成寺・僧勢辰、仁和寺・覚深親王 

私が最も知りたい事は、「幕府降伏王政復古祈願」の令旨を下された、と言う記述が、もしも、真実であれば、何故?この球磨の地で「幕府降伏王政復古祈願」を行う必要があったのか?という理由です。
「球磨の地」で、何故?御祈願を行う必要があったのか!?

以上、「相良藩秘中の秘義と『おかはる村』」から抜粋です。
仁王寺一品親王は仁和寺・覚深親王、願成寺の僧蕘辰は願成寺・僧勢辰だったのです。
球磨郡誌でいう、「仁王寺一品親王が願成寺の僧蕘辰に『幕府降伏王政復古祈願』の令旨を下された」と言う記述は、「仁和寺一品親王・覚深親王が人吉の願成寺の僧勢辰に『幕府降伏王政復古祈願』の令旨を下された」ということになるのです。
球磨郡誌でいう「仁寺一品親王」「願成寺の僧辰」の表記は一字違いで、実態を隠すカモフラージュだったのです。

「ひろっぷ」さんの疑問はさらに続きます。
何故?この球磨の地で「幕府降伏王政復古祈願」を行う必要があったのか?と。

「幕府降伏王政復古祈願」の令旨を見出すきっかけとなった「王冠を被られた球磨郡多良木町東の池王神社の御神像」。今の所、解りません、と「ひろっぷ」さんは結ばれていますが、王冠を被ったご神体はそう見かけるものではありません。日本では天皇以外に考えられません。しかし、中国の古代の民族王が日本列島に移住されてきたと考える時、呉の太伯王、白川伯王が日本列島の南九州に移住されてきた頃の王族を想定するのです。
筑後地方でも、そのご一統が神社に祀られているご神体は「王冠を被った」姿を見かけてきたからです。



2.伊勢天照皇大神宮

「仁和寺一品親王・覚深親王が人吉の願成寺の僧勢辰に『幕府降伏王政復古祈願』の令旨を下された」という実行の舞台が熊本県球磨郡あさぎり町伊勢本の「伊勢天照皇大神宮」です。社の建物は拝殿のみで、本殿は拝殿後ろの石積み石塔で建物はありません。

伊勢天照皇大神宮 熊本県球磨郡あさぎり町伊勢本

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皇太紳宮(球磨郡誌 岡原村無格社)
大字宮原字伊勢下にあり、天照皇大神を祭る.天和二年(1682)宮原村黄檗宗勢松庵住天瑞和尚の勧請と言う。神社の裏に当社の御神塚と崇められている神塚があり、其の中に天瑞和尚の筆蹟碑文を彫刻せる石碑がある。

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ブログ「球磨郡久米郷が継承した『古代の真実』」ひろっぷ 2019-01-13 から抜粋です。

雨引神社(球磨郡誌 岡原村無格社)
宮原字山王にあり。其の祭神は不明であるが、一に岡象女神を祭るともいふ。
寛永十一年(1634)相良長毎、同頼尚祈願ありて、相良頼兄に命じ再興せしむ。

寛永11年(1634)、相良氏の第20代当主「相良長毎さがらよりつね」、この方は「祈願」の為に相良頼兄(犬童清兵衛 いんどう)に命じて雨引神社様を再興させた。
何の御祈願だったのだろう・・・??
覚深親王様(一品親王)が下された願成寺の僧勢辰への「幕府降伏王政復古祈願」の令旨。「勤王秘儀」に関わっていた方々
 相良家筆頭家老:相良清兵衛こと犬童頼兄
 相良頼房(相良長毎)公:相良氏第20代当主(父:相良義陽)

犬童頼兄の意思を継いだか?相良藩の「勤王秘儀」関わった、もう一人の人物「天瑞和尚」、天瑞和尚は旧宮原村大字宮野字伊勢元(伊勢本)に御鎮座であった「皇大神宮」を中興し「皇大神宮」の敷地内に千巻とも言われる「幕府降伏王政復古を祈願したお経」を経筒に納めて埋め、「経塚」を造られています。
この「経塚」は現代でも「何人も触れてはならない!」と言う「伝え」を守り、発掘調査も行われていません。
さらに「天瑞和尚」は、岡本村に「福元寺」を建立されました。
天和元年(1681)人吉「東林寺天瑞和尚」福元寺を開基。
「福元寺」は私が現在住んでいる家から400m程しか離れていません。
さらに解った事なのですが、実は天瑞和尚は、私の住む集落「宮麓」に庚申堂を建立されていました。庚申堂には『青面金剛像』一体及び『脇侍十二神将』像がお祀りされています。
何故?私の住む「此の地」が関わっているのか?
何故?「此の地」でなければいけなかったのか?

寛永11年(1634)、相良氏第20代当主・相良頼房(相良長毎)公、同頼尚公は、相良家筆頭家老・相良清兵衛こと犬童頼兄に命じて、「祈願ありて」、雨引神社を再興させている。
天瑞和尚は旧宮原村大字宮野字伊勢元(伊勢本)に御鎮座であった「皇大神宮」を中興し、境内御神塚に「幕府降伏王政復古を祈願したお経」千巻を経筒に納めて埋め、「経塚」を造られている。
さらに、「ひろっぷ」さんの疑問は深くなります。
何故?私の住む「此の地・球磨郡旧宮原村」が関わっているのか?
何故?「此の地・球磨郡旧宮原村」でなければいけなかったのか?
旧球磨郡宮原村(みやのはる)は、球磨盆地の中央部で黒原山の南麓です。
祈願の地は人吉城下の菩提寺・願成寺でも、その他の寺社でもよかったわけです。


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         「幕府降伏王政復古」を祈願した経塚(御神塚)

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   御神塚の「幕府降伏王政復古」を祈願した経塚と伊勢天照皇両大神宮の石塔



3.旧球磨郡宮原村の雨引神社

雨引(あまびき)神社は旧球磨郡宮原村の南にそびえる黒原山の中腹に鎮座です。
球磨郡誌より。
 宮原字山王にあり。其の祭神は不明であるが、一に岡象女神を祭るともいう。
 草創の年紀は詳でない。古老いわく「此の山上を雨引嶽と言う、南面第一の高山なり、
 昔は必ず嶽上に登りて雩(あまひき)するに、山路険難なるにより此の地に社殿を建て
 て祭る。
麻郡神社私考より。
 社家傳云 垂跡神三所
 雨引明神 山王権現 八大龍王
 傳云雨引明神ハ罔象女命ミツハメノミコト

雨引神社の祭神
罔象女命が本来の祭神と思うのですが。八大龍王は水天龍王の豊玉彦、山王権現は日吉神社の祭神・大山咋神と取れそうですが、山王権現は本来、彦火々出見命(山幸彦)です。
まとめると、
 水神龍神の罔象女神(大山祇の王女)
 八大龍王は水天龍王の豊玉彦(大播主の王子)
 彦火々出見命(物部の太祖、庚申様、大播主の皇子)
となります。
しかし、これらの神々は黒原山の麓の神社に祀られています。二重祭祀となります。
雨引神社(あまびき)の本来の姿は?
雩(あまひき)神社であれば、水神の罔象女神、水天龍王の豊玉彦の水神水天で十分です。
雩神社に祈願するのは「雨乞い」です。
相良氏第20代当主・相良頼房(相良長毎)公が、相良家筆頭家老・相良清兵衛(犬童頼兄)に命じて、「祈願ありて」、雨引神社を再興した神社は雩神社とは思えません。
「幕府降伏王政復古祈願」の令旨が関係していると推察します。
その時の雨引神社の祭神は、天皇家の太祖、呉の太伯王(姫氏きし)関係ではないかと。
大胆な思考の冒険です。

池王神は、球磨郡多良木町東の池王神社の祭神・呉王(呉の太伯王・夫差 ふさ)とみました。
夫差は呉王闔閭(こうりょ)の王子。

呉王闔閭(こうりょ)の墓の推定地・虎丘
2008年6月4日、中国新聞網によれば、"呉中第一の名勝"と称される蘇州市郊外の「虎丘」にある「剣池」の水が20年ぶりに抜かれた。言い伝えではこの池は、紀元前496年に世を去ったとされる呉王闔閭(こうりょ)の墓の入口だという。
虎丘は2500年もの歴史を持ち、その虎丘にある「剣池」は虎丘観光の目玉となっている。地方誌の記述によれば、剣池は「絶えず涸れることなく澄み切った水が湧き出る」とされ、「天下第五泉」とも評されている。また1961年には、全国重点保護文化財にも認定されている。
その剣池の持つ最大の魅力は、池の下に呉王闔閭の墓があるという言い伝えで、「剣池」という名称も、闔閭王が生前に好んだ金の剣が副葬品として埋葬されたことに由来しているという。



4.球磨郡球玖郷は捄の国

平安時代の承平年間(931~938)「和名類聚抄」によれば、球磨郡には久米(くめ)、球玖(くく)、人吉(ひとよし)、東村(ひがしむら)、西村(にしむら)、千脱(ちぬぎ)の六郷がありました。
球玖郷はあさぎり町免田(面田)付近と推測されており、この免田が律令制度の時代の郡衙(ぐんが)が置かれた場所とされています。
旧宮原村宮麓にも府内・府本と言った字名が残っており、律令制の時代に何らかの施設があったのは間違いないと思います(ひろっぷさん)。
千葉県の総国(ふさのくに)を「捄国(ふさのくに)」とも書きました。

「ふさの国」の由来
この豊かな県土を示す古代の説話が、約1200年前、平安時代の初期にまとめられた『古語拾遺(こごしゅうい)』という文献にのせられています。この文献は、宮廷のお祭りを担当した忌(齋)部(いんべ)氏の来歴を記したもので、忌部氏の先祖・天富命(あめのとみのみこと)が房総半島に移住し、麻を植えたところ良く育ったので、麻の別名「ふさ」の名を取って、その地を「ふさの国」と名付けたとされています。「ふさの国」を上下に分けた上総・下総の国名は、奈良県明日香村石神(いしがみ)遺跡や橿原市藤原宮跡で出土した木簡(文書など記した木札)に記されており、1,300年以上前の7世紀後半には成立していたと考えられ、房総が「ふさの国」と呼ばれたのは、それ以前であったと考えられます。これらの木簡に記されたフサの字は「総」ではなく、手偏(てへん)に「求」と書く文字です。この文字は、『大漢和辞典』によると「盛る」という意味がある一方、「」となって実った果実を意味し、その意味から「ふさ」と読まれたのでしょう。
何れにしろ「ふさの国」は、豊かで実り多い土地を示す国名だったと思われ、それは、現在の農業県・千葉を支える豊かな県土へと受け継がれているのです。
なお、安房の国については、養老2年(718)に上総国から分かれ、その後、一時、上総国に合併されますが、天平勝宝元年(757)に再び独立、上総・下総・安房国が成立しました。名前の由来は、『古語拾遺』では四国の阿波国の忌部が移住したことによるとされています。こちらは、四国と房総の黒潮を通じた交流を物語る地名と言えるでしょう。              千葉県教育委員会

当ブログ「No.85 福岡県朝倉市杷木志波の宝満宮と志波彦 ⑪」の「3.志波宝満宮の境内社」で日鷲神社(祭神・天日鷲命 あめのひわし)を紹介しました。
天日鷲命は豊玉彦(天太玉命)と阿蘇津姫(天比理刀咩命)の御子です。別名、鳥子大神といいます。天日鷲命は阿波国の忌部氏の祖先神で、この地に麻を植えたと伝えられ、麻植(おえ)神ともいわれています。
さらに、忌部氏が房総半島に移住し、麻を植えたところ良く育ったので、麻の別名「ふさ」の名を取って、その地を「ふさの国」と名付けたと云う。

球磨の「球」は「ふさの国」の「捄」に似ていますね、と「ひろっぷ」さんに問い合わせました所、

球磨は求麻とも書きます。「麻」は天皇様の御祭祀にかかせないものです。
球磨川は人吉を抜けると急流になりますが、人吉から八代までを古代の人達は「木綿葉川(ゆうばかわ)」と呼んでいました。木綿葉とは「麻」の事です。球磨で生産された麻の葉を紡ぐ前に川で洗って(禊ぎ)、「葉っぱ」が川を流れて八代まで流れて来ていた事に由来するそうです。
「麻」についてブログには書けないなぁ~と思っている事が一つ。
実は、球磨では「麻」の生産を続けていて、江戸時代末期まで、「麻で作った煙草」を相良藩は島津経由で中国に輸出していたのです。もちろん藩内では流通禁止!
球磨の歴史研究家の方々の中では、この話は常識で「相良藩の秘中の秘」の一つです。
ただ、古代を考えると「シャーマン」と「麻」はとても関係深いものだと思うのですが、この麻を植える部族の球磨からの移動先が「四国の麻植」であり「房総半島」だと推測していました。

私が、かってに球磨の「麻」について書いてしまいました。
豊玉彦(大幡主の子息)ゆかりの麻を植える忌部氏は、球磨から「四国の麻植」へ、「房総半島」の総国(ふさこく)に移動していったと推測されていました。
さらに話は続きます。

久米=球磨 となった場合「球」と「磨く」の漢字を充てた理由は・・?
私は、最近、人吉の中堂遺跡(縄文時代晩期、今から2400年前)からの出土品に「ヒスイの勾玉」があった事から、「球を磨く」、つまり、勾玉や宝珠(おそらく水晶、あさぎり町深田や湯前町から産出)の製作に関わる人達も古代の球磨・人吉に住居されていたのだと推測していました。

球磨は古代の「ヒスイと勾玉」の産地だったのです。
私はてっきり、勾玉は新潟県糸魚川のヒスイからの生産が主と思っていましたが、「勾玉」の出発点は「球磨」だったのかもしれないと思うようになりました。
さらに、「球磨」は古代の鉄の産地でもありました。(ひろっぷ「球磨と古代の製鉄①②」2017年12月)

「球磨」は古代祭祀と神器の原点の地であるかもしれません。
そして、「ふさの国」は「夫差(ふさ)の国」ではなかったのか?

さらに、球磨盆地の奥に市房山があります。水上村に市房山神宮が鎮座です。市房山神宮は、霊峰市房山を神体として、山中の本宮、山麓の一の宮神社(中宮)があり、湯前町の里宮神社(下宮)が遥拝所として昭和9年に再建されました。市房山の中腹までの参拝が難しいため、この場所に里宮として移されています。
主祭神は瓊々杵尊(ににぎのみこと)ですが、本当の祭神はさらに古い九州王朝の祭神と思っています。
松野連系図」では「夫差王」を初代に、「いち」「ふさ」「かや」の字が付く呉の太伯王族が記載されています。市房山(いちふさやま)の名前の起源も関連がありそうです。この件については「ひろっぷ」さんが調査中です。


志波の宝満宮 福岡県朝倉市杷木志波字宮原5011

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境内社・日鷲神社(祭神・天日鷲命 あめのひわし)

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5.球磨郡あさぎり町免田は「面土」であった

ブログ「速報 大発見『免田村』は慶長年間まで『面田村』だった!!"平安時代までの球磨と面土國"」ひろっぷ 2019-01-15 にて、

実は・・おそらく・・「大発見」を致しました。

ちょうど1年前『平安時代までの球磨と面土國』を書いた当時の私は九州全体の古代について今以上に知識は浅かったのですが、球磨の「免田(めんだ)」の地名が妙に気になり、ど素人ながら、自分なりに身近な姓である「平河氏(平川氏)」の通字「師」と「面土國王師升」の「師」の字との共通点、「倭面國は、その国の男女は皆、面(顔)と身体に入れ墨をしている。よって面の字を加えてこれ(国の名?)を呼ぶ」の記述から大久米命が「『黥(さ)ける利目(とめ)』とあり、目のまわりに入れ墨をしていた」との記述から球磨郡久米郷との関係、さらに「面土(めんど)」と「免田(めんだ)」の「音(おと)の響きが似ている」事などを、率直に書いていました。

旧球磨郡免田村は慶長年間まで『面田村』でした!!
『北宋版「通典」 安帝永初元年 倭面土國王師升等獻生口 (安帝永初元年 倭面土國王師升等が生口を献じた。)』「倭面土國王師升」・・・倭の面土國に気が付いた事、やはり、球磨郡免田村の「免田」は「免田(めんでん)」と言う意味では無く!!
「地名」でした。元の村名は「面田村」。
こうなると・・・一番気になっていた「面土國」との関係。
「めんど」と「めんだ」の音(おと)の響きだけではなく、「面田(めんだ)」と「面土(めんど)」と漢字まで似てきた事になります。

北宋版『通典』安帝永初元年 倭面土國王師升等獻生口
安帝永初元年(107)倭面土國王師升等が生口を献じた。

球磨郡面田の各遺跡が残る地を平安時代に所領していた「平河氏」の鎌倉時代初頭における通字は「師」です。師高・師貞・師忠・師里・師種・師頼 他、多数の平河氏に「師」の文字が見えます。つまり「師」を継ぐ「平河氏」です。

「面田」と「面土」
「師升」と「師高・師貞・師忠・師里・師種・師頼 他、多数の「師」の文字が名前に付く平河氏」

でも、何故?相良藩は慶長年間(1596年から1615年)まで「面田(めんだ)」だった村をわざわざ、それ以降いずれかの時期に「免田」に変えたのでしょう・・??

球磨郡あさぎり町免田は倭の面土國王・帥升(師升)の「面土」であった、ということです。
倭の国王・帥升(師升)は球磨郡あさぎり町免田を中心とする九州王朝(姫氏きし)の太祖であった。倭国(伊国)の原点は球磨の免田にあった。
「平河氏」は九州王朝姫氏の流れが強くなります。
百嶋神代系図では、帥升(師升)と神玉依姫の間の皇子を神武天皇(狭野命)、帥升(師升)と大伽耶姫の間の皇女をヒミコとします。神武天皇とヒミコは異母兄妹となります。
近くの宮崎県高原町には狭野命を祀る狭野神社があります。
球磨郡久米郷では神武天皇と久米物部の話がよく出ますが、それも面土国と関係があるのでしょう。倭国の中心は、球磨免田→福岡市西→糸島とつながることとなります。
球磨の免田が帥升(師升)面土国と証明されることを期待します。



6.球磨の人吉藩相良氏は古代では一体何者だ

朝廷の「幕府降伏王政復古祈願」の令旨を受け入れる人吉藩の相良氏は古代では一体何者だと不思議になります。

ひろっぷ 古代・中世・近世の繋がり 先祖について
「球磨・守った人達、消した(隠蔽した)人達」2018-11-10 にて
私は「相良氏」と「古代の関わり」に対して、今までの先入観を取り除いた上で、今回「球磨」との関わりについて考えて、調べてみました。
そして、相良氏が「球磨の古代」を守って来られた事の証明が「才園古墳」である事にようやく気が付く事が出来ました。

歴代の相良氏は「球磨の古代」を守って来られた、球磨の領主です。
球磨の古代を守って来られた相良氏は古代九州王朝と深い関係があるのではないか。
「相良」を「さがら」と詠む。素直に読める読み方ではない。普通には「あいら」と読める。
南九州には、古代の名称として、「姶良あいら」「吾平あいら」があります。
相良氏は本来「あいら」氏と呼んだのではないでしようか。
神武天皇の后「吾平津姫」を「あいらつひめ」と呼ぶように、九州王朝と関係の深い「あいら」氏ではないかと思うのです。吾平津姫は金山彦と月読命の姉・大市姫(おちひめ)の姫君です。姫氏、越智氏、瀛氏の縁戚が強くなります。
古代天皇家に繋がる相良氏、古代天皇家を守って来た相良氏であればこそ、南九州の山々に囲まれ、周囲から閉ざされた地、しかも、古代九州王朝の起源の地・球磨郡球玖郷である故に、朝廷が「幕府降伏王政復古祈願」の令旨を人吉の相良氏に託すことができたのではないでしょうか。
そして、相良氏は九州王朝ゆかりの流れとみることができるのです。
球磨の平川氏、久保田氏、相良氏は同族で、呉の太伯王姫氏との関係が深くなってきました。



7.伊勢天照皇大神宮が鎮座する球磨郡あさぎり町伊勢本の人々

伊勢天照皇大神宮が鎮座する球磨郡あさぎり町伊勢本の人々とは、どういう方々でしようか。
境内すぐ近くに村の共同墓地がありました。その墓石には、それぞれの家名と家紋が刻んでありました。
家紋から見る伊勢本の人々の話です。

五三桐紋(ごさんのきり) 深松家 太田家 真名子家
剣片喰紋(けんかたばみ) 福永家 多田家 赤川家 福永家 今田家 福原家
橘紋(たちばな)     立花家 野田家
抱き茗荷紋(だきみょうが) 伊勢家 鶴田家
桔梗紋(ききょう) 西家
梅鉢紋(うめはち) 福元家

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五三桐紋は大幡主系の家紋、橘紋・抱き茗荷紋は豊玉彦系の橘族、桔梗紋・梅鉢紋は物部族関係の家紋と想定します。
剣片喰紋が多いようです。

武内宿禰を祀る宇倍神社(うべじんじゃ)が鳥取県鳥取市国府町宮下に鎮座です。神紋は「亀崩し」紋です。武内宿禰は神功皇后が亡くなられると、因幡の国の一の宮・宇倍神社鎮座地を安住の地として移られます。

「日本書紀」景行天皇紀では、屋主忍男武雄心命と影媛との間の生まれ、孝元天皇紀では、孝元天皇皇子の彦太忍信命を武内宿禰の祖父とし、武内宿禰は孝元天皇三世孫とされる。
「古事記」では、孝元天皇皇子の比古布都押之信命(彦太忍信命)と山下影日売との間に生まれ、孝元天皇皇孫にあてている。

本当は、武内宿禰は孝元天皇と山下影姫との間の生まれで、大彦命と兄弟で弟であり、さらに、開化天皇とは異母兄弟となります。皇族です。武内宿禰の紋章は天皇家の紋章、五七桐紋です。五七桐紋を持つ古代人は、鵜草葺不合尊、開化天皇、武内宿禰が挙げられます。

香川県丸亀市綾歌町に宇倍神社を勧請した宇閇神社(うべじんじゃ 祭神・武内宿禰)が鎮座です。社殿には「丸に剣片喰」の紋があります。
本来であれば、神社の神紋に武内宿禰の紋章である五七桐紋が付くべきでしょう。
しかし、日本書記の手前、武内宿禰は臣下になられ、各豪族の祖となっています。
さらに、「松野連系図」では「夫差王」「宇閇王」が記載されています。
武内宿禰は古代九州王朝の皇族、そして呉の太伯王姫氏の流れとなります。
よって、剣片喰紋を持つ家は、本来、五七桐紋を持つ家と見てよいのかもしれません。



参考資料

雨引神社(球磨郡誌 岡原村無格社)
宮原字山王にあり。其の祭神は不明であるが、一に岡象女神を祭るともいふ。
草創の年紀は詳でない。古老の言に曰ふ「此の山上を雨引嶽と言ふ、南面第一の高山なり、昔は必ず嶽上に登りて雩(あまひき)するに、山路険難なるにより此の地に社殿を建てて祭る。寛永九年(1632)雷火に焼く。同寛永十一年(1634)藤原(相良)長毎、同頼尚祈願ありて、相良頼兄に命じ再興せしむ。天和三年(1683)社殿造換。」

願成寺(がんじょうじ)
熊本県人吉市願成寺町956
天福元年(1233)、相良氏初代・相良長頼の創建。
開山は遠江国常福寺(静岡県)からともなった弘秀上人(こうしゅうしょうにん)。
寺は度々火災に遭い、現在の本堂は大正11年建立。
相良家の菩提寺で背後には歴代相良家の墓が整然と並ぶ。
人吉城から見て、東北にあり、城の鬼門に当たることから鬼門を鎮護する意味をこめて、この地が相良家の菩提寺と定められた。

覚深入道親王(かくしんにゅうどうしんのう)
天正16年(1588) - 慶安元年(1648)
江戸時代前期の皇族、真言宗の僧。
後陽成天皇の第1皇子。母は典侍・中山親子。仁和寺第21世門跡。
出家前の諱は良仁親王(かたひとしんのう)。後南御室とも呼ばれる。
文禄3年(1594)次期天皇即位を前提に親王宣下を受ける。
この親王宣下の背景には豊臣秀吉の後押しがあり、慶長3年(1598)秀吉が死亡すると、突如、後陽成天皇が良仁親王を皇位継承者から外す意向を示される。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は豊臣政権色の強い良仁親王を廃して、天皇の正室である女御・近衛前子が生んだ第3皇子の政仁親王(後の後水尾天皇)を立てることとなる。
慶長6年(1601)良仁親王は仁和寺真光院に入室し落飾。
慶長19年(1614)一品に叙せられて法中第一座の宣下を受ける。

福元寺(球磨郡誌)
熊本県球磨郡岡原村大字岡本
京都府宇治郡宇治村黄檗山萬福寺末
黄檗週の寺院にして無量山と号し本尊は阿弥陀如来である。天和元年(1681)東林寺の開山天瑞禅師の創立である。従来寺院を福元庵と号していたが、大正二年福元寺と改称した。その由緒は祥かでない。壇徒数九十五戸