ヘッダー画面6

 

No.295 宮崎県高千穂は天孫降臨の地か②

 
宮原誠一の神社見聞牒(295)
令和7年(2025年) 12月08日
 

「記紀」(古事記と日本書紀)でいう天孫降臨(てんそんこうりん)神話とは

 

大国主の国譲りにより葦原中国(あしはらなかつくに)平定が終わったので、高天原(たかまのはら)の天照大御神と高木神(高御産巣日神)の二神は、天照大御神の子である天忍穂耳命に「天降って葦原中国を治めなさい」と指示します。天忍穂耳命は「天降りの準備をしている間に、子の邇邇芸命が生まれたので、この子を降したい」と答えた。二神は邇邇芸命に葦原中国の統治を委任し、天降りを命じた。

猿田毘古神の先導のもと、天児屋根命、天太玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命の五伴緒が従うことになった。
さらに、天照大御神は三種の神器と思金神、手力男神、天石門別神を副え、「この鏡を私の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。思金神は、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と言った。

邇邇芸命は天忍日命と天津久米命(天槵津大来目命)の先導のもと、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。邇邇芸命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。(No.264)

※石門別神(門守社) 門神様で豊磐間戸(窓)神 櫛磐間戸(窓)神



高天原の邇邇芸命が葦原中国の委任統治に向かった先が九州の「高千穂」とされる。 その「高千穂」の候補が二ヶ所あります。宮崎県西臼杵郡高千穂と宮崎県と鹿児島県との境に連なる霧島連山の高千穂峰(たかちほのみね)の二説があります。前者は槵觸神社を中心とした高千穂、後者は霧島神宮が鎮座する霧島高千穂峰となります。天孫降臨も神様の霊的降臨とすれば、人が住めない山岳山頂もありうるでしょうが、肝要は、そこの神社の神様がどう対応されるかです。
私は、民族集団の移動を「神話」の形に表現したものと思っています。降臨の地を考えるのも大事ですが、高天原の地を考えるのも大事です。両者は連結しています。

その他、高天原も高千穂の場所について、色んな説があります。

・古田武彦は福岡県糸島飯盛の日向峠(笠沙岬の真北)を天孫降臨伝説の発祥地とする
・天孫降臨はヤマト王権の朝鮮から北九州への上陸を意味する
・朝鮮の建国神話「三国遺事」の「駕洛国記」にある加耶の始祖首露王が亀旨(クジ)峰に天降る話と似ていることが指摘されている→加耶国が高天原とされる地理的位置


天孫が高天原から降臨の折、天真名井の聖水を持ち、降臨の地の井泉に遷す聖井・聖泉があるはずです。そして、御祖神である「天照大御神と高木神(高御産巣日神)」の二神を祀る二神神社(仮称) もあるはずです。「記紀」での新羅の神「イザナギ・イザナミ」の神は御祖神とされますが、神話での「天地開闢」の神であって、本当の御祖神ではありません。

 

※高天原(たかまのはら)を名乗るには、天真名井に相当する聖井泉がないといけません
天真名井所在の神社 (No.294)
蚊田の渟名井=天真名井
 赤司八幡宮 福岡県久留米市北野町赤司1765
瑠理井(たまのい)=天真名井
 槵觸神社 宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井713
與佐の真名井
 真名井神社 京都府宮津市中野905
益影の井
 宝満宮竈門神社上宮 福岡県太宰府市内山883
天真名井
 宗像中津宮 福岡県宗像市大島1811
天之真名井
 市比賣神社 京都府京都市下京区河原町五条下ル一筋目西入
天の真名井
 上津守神社 鳥取県米子市淀江町高井谷52
真名井の滝
 真名井社 島根県松江市山代町84
真名井の清水
 出雲大社 島根県出雲市大社町杵築東真名井
真名井(閼伽井)
 真名井社 和歌山県田辺市本宮町本宮 熊野本宮大社の末社 祭神・天村雲命


※福岡県北野町の赤司八幡神社の止誉比咩縁記の天孫降臨
天孫降臨の時、天忍石(あめのおしほい)長井の水を持降り、天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)を使い、その元(はじめ)の水を日向の高千穂藤岳山の神代川瑠理井(たまのい)と筑紫の道中の神代川蚊田の渟名井に遷す。天祖の神の教を言壽鎮曰(ことぶきよざして)、道主貴に進供(そなえまつり)き。これにより、御井の縣の名が起こりけり。
又、丹波の與佐の真名井石井(いわい)に移し鎮め、以て豊食神の饌水(とよけのかみのみけのみず)に献(たてまつ)りぬ。



天孫降臨の折、天忍石長井の水を持降り、筑紫の蚊田の渟名井(ぬない)に遷された方が天牟羅雲命(あめのむらくものみこと、別表記の天村雲命)です。「天忍石長井」は「天真名井」、「蚊田の渟名井」は「潟の渟名井」とも表記されます。
蚊田の渟名井は現在では益影井(ますかげのい)と称し、福岡県北野町の大城小学校の校庭南隅に廃井として保存されています。
天村雲命は正八幡大幡主で、別名、天忍穂根命(あめのおしほね)で、大根(おおね)の神です。熊野本宮大社の末社の真名井社の祭神が天村雲命です。

その益影井の東横に筒井天満宮が鎮座され、境内の観音堂には天村雲命地蔵尊と十一面観音菩薩が祀られています。観音堂は豊姫神社(止誉比咩神社)の本寺堂であり、豊姫神社の祭神の本地垂迹では、天村雲命地蔵尊は正八幡神大幡主、十一面観音菩薩は天照女神の本地仏とされます。止誉比咩神社は現在の赤司八幡宮に変遷され、天照女神は豊姫(とよひめ=道主貴)、大幡主は高良大神・八幡大神として祀られています。(No.286)

益影井 大城小学校グラウンド南
福岡県久留米市北野町大城(筒井) (No.286)

1

 

2

現在では、写真のごとく綺麗に整備され保存されていますが、
私が30歳台の頃は、単に案内板があるのみでした。



北野町の赤司八幡神社の止誉比咩縁記では、降臨先の真名井として「日向の高千穂藤岳山の神代川瑠理井(たまのい)」が記載されています。私は、今まで、天孫降臨の地としての日向国高千穂の地は「記紀」に添ったテーマパークみたいなものであろうと軽く考えていました。
今回、宮崎県五ヶ瀬町高千穂町の神社を調べているうちに、高千穂に神代川(くましろがわ)があり、その側に天真名井の瑠理井(たまのい)があり、やや麓を登った所に槵觸神社(くしふる)があることに気づきました。高千穂町は何度か訪問しましたが、未熟でした。早速、訪問予定地に編入です。

 

※古昔、筑後川を神代川(くましろがわ)といった 天孫降臨の折、天牟羅雲命(大幡主)は、その霊水を日向の高千穂の藤岳山の神代川の瑠理井(たまのい)と筑紫の道中(大城)の神代川の蚊田の渟名井に遷しています。高千穂と筑紫の道中には共通名の神代川があります。

止誉比咩縁記 『蚊田は筑紫の中瀛海(なかつうみ)に秀(ひい)でたる潟の地なり。故に、「潟」と「蚊田」は同訓なり。古歌に詠めるに「筑紫の潟はこの地に起これる言葉なり」。この潟の渟中より湧き出でたる霊水ゆえに、「蚊田の渟名井」と号(なづ)けたり。この筑紫の潟 神代川は当国の名所なり。』

※日向の高千穂の神代川の天真名井(瑠理井)  (No.286)
筑紫の道中の「道主貴」は、丹後では與佐の真名井を守る神で「道主」という。
天真名井の霊水は
日向高千穂の藤岳山の瑠理井(たまのい)、
筑紫の蚊田の渟名井(ぬない)、
丹後の与佐の真名井(まない)
に遷された。




高千穂町押方(国道218号)の高天原神社
三ヶ所神社(五ヶ瀬町三ヶ所8736)から高千穂の町中に移動の途中、国道218号のすぐ横の谷間に高天原神社がありました。幟旗がなかったら気づかない程です。
氏神の神社ではないようです。店も閉店され廃屋で不在となっています。

高天原神社 宮崎県西臼杵郡高千穂町押方4332
祭神 天照大御神、瓊瓊杵尊、天手力雄命

3

 

4

谷の側で、水が抜かれた水槽に祠があり、
水神の瀬織律姫(天照女神=市杵島姫)を祀る感です
ご神体を確認するのを忘れました

 

5



芝原神社(高千穂町押方3371-3) を後回しにして、
天真名井(高千穂町三田井472) に向かいます。

 

 

6




高千穂町三田井の天真名井
槵觸神社(くしふる)がある槵觸山の麓にあり、そばを神代川(くましろがわ)が流れています。神代川は町中を通って五ヶ瀬川に合流です。神代川の東には、雲海橋が架かる彼の有名な土呂久川があり五ヶ瀬川に合流です。
高千穂町の天真名井は、止誉比咩縁記では「高千穂の藤岳山の瑠理井(たまのい)」と記載されており、藤岳山が槵觸山でしょうか。ここの字名は「吾平原」で、「藤岳」「玉の井」は天照女神に通じます。

天真名井 西臼杵郡高千穂町三田井(吾平原)472

7

真名井橋、左は駐車場

 

8

ケヤキの根本にある天真名井、手前は神代川

 

9

真名井橋を渡って坂を登ると槵觸神社に出ます

 

10

樹齢1300年のケヤキの根本にある天真名井

 

11

 

12

澄んだ水は写っていません、要フラッシュ

 

13

天真名井の上にある祠の祭神は天村雲命(あめのむらくも)

 



井手左大臣・橘諸兄(684-757年)の本拠地、京都府綴喜郡(つづきぐん)井手町井手には、地名として「玉」がつく、玉川、玉水、玉ノ井があります。この名称は天照女神の玉垂命、許黄玉にちなみます。(No.286)

※玉津岡神社
京都府綴喜郡井手町井手東垣内63
祭神 下照比賣命(したてるひめ) → 天照女神
配祀 味耜高彦根命 (あじすきたかひこね) → 大幡主
由緒 飛鳥時代540年、下照比賣命が兎手(いで)玉津岡南峰に降臨し祀ったことに始まるという「玉岡の社」が玉津岡神社の起源。「玉岡の社」は「玉岡春日社」、江戸時代に「八王子社」と称号を変え、現在は玉津岡神社となる。
境内社・橘神社 祭神・橘諸兄(たちばなのもろえ)

14




槵觸神社(くしふる じんじゃ)
「槵觸」は難しい旧字体です、「櫛触」の方が、意味が通じます。
古くは「櫛ひ大明神」や「くしふる大明神」と称せられ、また「二上(ふたかみ)神社」とも呼ばれており、明治6年(1871年)に「二上神社」を正式社名としたが、明治43年に「槵觸神社」に戻した、という。

槵觸神社は本来「二上神社」「二神神社」であり、二神祭祀だったのです。
槵觸神社の創祀は不詳ですが、槵觸山の中腹に鎮座し槵觸山を神体山とするため、長く本殿を持たなかったという。この由緒は、五ヶ瀬町桑野内(中山)の二神神社の祭祀と重なります。(No.282)  江戸時代の元禄7年(1694年)に社殿が造営されます。

 

【宮崎・高千穂】槵觸神社
https://jinja.me/kushifurujinja/
元禄元年(1688年)に延岡藩主の有馬清純が社殿建築を許可しましたが、清純公は元禄5年(1692年)に越前藩の糸魚川へ転封となり、着手に至りませんでした。次の延岡藩主の三浦壱岐守明敬の時、高千穂神社(当時は十社宮と称す)の大宮司の田尻乗信をはじめ、歴代延岡藩主の熱望と高千穂十八郷の民力により、元禄7年(1694年)社殿が造営されました。明治6年(1873年)5月25日、旧称の槵觸大明神から二上神社と改称されたが、明治43年に「槵觸神社」に戻された。



槵觸神社 宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井713
祭神 邇々杵命
相殿 天児屋根命・天太玉命・経津主命・武甕槌命

15

一の鳥居「槵觸神社」

 

16

 

17


槵觸神社由来 (案内板)
槵觸神社の鎮座するくしふるの峰は肇国の昔 天孫瓊々杵尊が三種の神器を奉戴して この国を治める為に天降られた聖地として古史に記されています。
往昔は 社殿はなく 山そのものを神と崇めて 高千穂八十八社の一社に数えていましたが 十社大宮司をはじめ往古の聖跡を慕う歴代延岡藩主の熱望と高千穂十八郷の民力とにより社殿が建立されました。(※元禄7年(1694年)のこと)
古来、武人としての信仰が厚く、また わが国の神道流布根源の地として 広く信仰され 高天原 四皇子峯とともに高千穂を代表する聖地であります。

※十社大宮司 十社宮=高千穂神社の大宮司は田尻乗信

 

※高千穂神社 宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井字神殿1037
日向三代三夫婦の神(高千穂皇神)を祀り、高千穂氏が仕えてきた。後に十社大明神を配祀。明治初期まで宗社、明治4年(1871年)に「三田井神社」と改称、更に明治28年(1895年)に現社名に改称した。古来「十社(じっしゃ)大明神」や「十社宮」などと称された
祭神 一之御殿に高千穂皇神(たかちほすめがみ) 二之御殿に十社大明神

※高千穂皇神 日向三代三夫婦の神
瓊瓊杵尊と木花開耶姫命、彦火火出見尊と豊玉姫命、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と玉依姫命

※十社大明神 神武天皇の皇兄・三毛入野命(みけぬの)とその妻子神9柱
三毛入野命妃神・鵜目姫(うのめひめ) 両神の御子神である御子太郎(みこたろう)、二郎(じろう)、三郎(さぶろう)、畝見(うねみ)、照野(てるの)、大戸(おおと)、霊社(れいしゃ)、浅良部(あさらべ)

 

 

18



高千穂(高知尾)氏と三田井氏の流れを自己備録として掲載しました

※高千穂神社と高千穂氏 Wiki
三毛入野命が神籬を建てて、祖神の日向三代とその配偶神(高千穂皇神) の六柱を祀ったのが創まりで、三毛入野命の子孫が長らく奉仕。後に十社大明神を配祀。垂仁天皇の時代に初めて社殿を創建したと伝える。
天慶年間(938-947)に豊後国から大神惟基の長子の太郎政次が高千穂に養子入りし、高知尾(高千穂)氏を引き継ぐ。
中世になると土持氏の勢力が入り、建久8年(1197年)頃、妻万(つま)宮(現・西都市の都萬神社)の管轄下にあったようである。同じ頃、高千穂氏によって紀州の熊野信仰がもたらされたようである。
鎌倉時代末期から高知尾氏に代わり島津氏が地頭となる一方、高知尾氏も三田井氏を称して三田井郷の地頭職を所持するなど、この頃から社領や神事を巡る相論が頻出しだす。
南北朝時代にはこれに加えて南朝方に与する阿蘇氏の勢力も進出、以後阿蘇氏支配の下、「高千穂郷総鎮守」として崇められた。
近世の寛永年間(1624-1644年)、延岡藩主有馬氏から200石の寄進を受け、歴代延岡藩主から崇敬を受けた。

 

 

19



※大神惟基の子孫
松尾芭蕉は豊後大神氏の流れで、その豊後大神氏の始祖は大神惟基(おおがこれもと)という。父は大神朝臣良臣(よしおみ)の息子の庶幾(これちか)。芭蕉の神号の請願に使われた系譜では、大神庶幾は嫗嶽大菩薩(うばだけだいぼさつ)となっている。
仁和2年(886)2月、大神朝臣良臣が豊後の介となって豊後国に赴任した。寛平4年(892)3月、良臣の任期が終わるとき、良臣の徳政によって百姓が良臣を慕い、せめて子息を留めてほしいと国府に願い出た。大宰府はこれを許し、子息の庶幾(これちか)を大野郡領に任命し外従六位下を授けた。大野郡領になった庶幾は三重郷に入って豊後大神氏の祖となるが、庶幾の嫡男である大神惟基(これもと)が豊後大神一族の始祖とされる。
惟基には5人の男子があり、惟基は5人を豊後国南部を中心とした地域に置いて勢力の拡大を図っている。
長男:高千穂(高知尾)太郎政次
 . 日向国臼杵郡高千穂郷を本貫とし、後の三田井氏の祖となる。
次男:阿南次郎惟秀 - 豊後国大分郡阿南郷を本貫とし、阿南氏の祖となる。
三男:稙田七郎惟平 - 豊後国大分郡稙田郷を本貫とし、稙田氏の祖となる。
四男:大野八郎政基(栄基) - 豊後国大野郡を本貫とし、大野氏の祖となる。
五男:臼杵九郎惟盛 - 豊後国海部郡臼杵荘を本貫とし、臼杵氏の祖となる。

 

 

20



※三田井氏 (みたいし)
三毛入野命や祖母嶽大明神(大神庶幾)に連なる子孫で、現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町にあたる日向国高千穂地方(高知尾)を治めた高千穂氏の末裔の氏族。
6代目に男子なく、大神惟基の長男・大神太郎政次を養子嫡男とし高千穂太郎政次を名乗らせたという。鎌倉後期に三田井氏と称す。
建長6年(1254年)、鎌倉下知状の写しに「高知尾三郎政重、政重の祖父政綱、父政信」
建武5年(1254年)8月、十社大明神・神主宗重申状案(田部文書)に「三田井武政」「先三田井殿武政」とある。これが三田井を姓とする初見である。

 

 

21

拝殿向拝には龍の彫刻

 

22

拝殿奥

 

23

本殿の屋根には外削ぎの男千木、鰹木五本

 

24

 

25

本殿右手の彫刻、上段には龍の彫刻、
下段には獅子と子供(左)、
下段右には、女性を誰かが訪ねています
※女の人は豊玉姫(天照女神)で、鬼八(大幡主)の帰りを待つのでは?



※鬼八伝説
三毛入野命が鬼八退治の最中に、神呂岐の家に若い女が来て「三毛入野命様はおられます?」と尋ねて来る。
興梠古文書・高千穂古伝記での最後の文に
「神呂岐家に御滞在の女神、豊玉姫が御出でになり、三毛入野命をお尋ねになるや否や、穴森神に御姿をそのまま御静まりになる。その姿、形は蛇のごとく御変わりになった。」とあります。

※神呂岐(こうろぎ)
「三毛入野命は今、十社宮御鎮座しておられる。神呂岐の姓、彦穂々出見命の後裔であるという伝えがある。」平井俊徳 高千穂古伝記(興梠古文書より 其の2)

 

 

26

本殿左手の彫刻、上段には龍の彫刻、
下段左には、2匹の鯉が老人を見つめています
※鯉は天照女神、老人は大幡主で、天照女神が思いを寄せている構図でしょうか

 

27



※性虎八幡宮 宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町桑野内4668
正八幡宮で古戸野神社の近くにあり。社殿の裏手に、芝原性虎と一族の墓があり、大きな五輪塔が芝原性虎の墓と言われている。なお、芝原又三郎入道性虎は三田井氏、旧名は興梠姓

※芝原神社 宮崎県西臼杵郡高千穂町大字押方3371番地の3
祭神 事解男命 伊弉冉命 速玉男命
芝原神社の創建は不明、古くは熊野三社権現と称され、1522年(大永2)、三田井右京大夫右武が再建し、明治六年芝原神社と改称さる。三田井氏の旧名は興梠姓(芝原氏)
興梠姓(こうろ、興梠木こうろぎ、興呂木こうろき)



※興梠姓(こうろぎ)
高千穂神社と高千穂氏の流れを追うと、高千穂(高知尾)氏の祖は三毛入野命となりますが、高千穂氏は断絶して、大神太郎政次が養子となり引き継ぎます。鬼八伝説では、三毛入野命の頃でも興梠姓が出てきます。三田井氏と興梠姓が重なります。
一方、五ヶ瀬には芝原氏流れの興梠姓があります。その祖は彦穂々出見命(大幡主)又は鬼八という。(この件は要再検討)

 

 

槵觸神社が国史に見える「高智保神(高智保皇神)」とすれば、中世のものではあるが、『八幡宇佐宮御託宣集』巻2に、「高知尾(明神)」は神武天皇の御子である神八井命の別名で「阿蘇大明神」の兄神・神沼川耳命であるとしたり、『平家物語』巻8緒環段に、豊後緒方氏の祖神を「日向国にあがめられ給へる高知尾の明神」として、その神体は「大蛇」であるとするなどの異伝がある、という。(Wiki)
※阿蘇大明神は神八井命(大幡主)であるという



神武天皇の御子が、神八井命、神沼川耳命であり、神沼川耳命の御子が健磐龍命とするのは、阿蘇神話です。小国両神社(宮原両神社)の由緒では次のようになっています。(事実とは思っていません)

神武天皇
 ↓
神八井耳命(かみやいみみ)
 ↓
健磐龍命(たけいわたつ 阿蘇大明神) (后・阿蘇津姫)
 ↓
速瓶玉命・雨宮媛命(阿蘇国造大神)
 ↓
高橋神・火宮神(両神社主祭神)




高千穂は天孫降臨の地か
宮崎県高千穂は「記紀」(古事記と日本書紀)でいう天孫降臨)の地ではありません。現地由来記では「記紀」に沿った天孫降臨の記述が並び、槵觸神社、天真名井が存在しますが、「記紀」の天孫降臨とは関係ありません。話が神話に沿って出来過ぎています。こんな山奥に弥生時代の小国家が築けるわけがありません。
天真名井の聖水と二神(高良玉垂神)を奉斎した一族が九州北岸の高天原から、ある鉱物を求めて民族移動した地と見ました。その点では、天孫降臨ならぬ天族降臨移動の地と言えます。船で筑後川を下り、有明海を出て、八代海に入り、氷川に上陸です。

丹波国の與佐の真名井石井(いわい)に霊水を移し鎮めたご一統も、九州筑後から天真名井の聖水と二神(高良玉垂神)を奉斎し、ある鉱物を求めて民族移動した地と見ました。この人達が丹後、若狭に展開し、後に奈良の大仏殿、二月堂の行事と深く関わっていくことになります。

鬼八伝説は、九州中部の阿蘇と高千穂地方に伝わる伝説です。鬼八は三毛入野命に切り殺され、鬼八の霊は、時折、霜の害で里人を困らせたため、慰霊祭が行われるようになり、これが高千穂神社の「ししかけ祭り」の始まりとされています。

高千穂神社 宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井(神殿)1037
祭神 高千穂皇神、十社大明神

28



高千穂の山間高地で、霜降りの備えがなければ、霜害に会うのは当たり前の事です。これは何かの公害の隠しと見ました。高千穂の町中を土呂久川が流れています。これからピンときます。


「ヒルコのブログ」から「鬼八伝説の真相と闇の神事」
https://ameblo.jp/ringo03080515/
『浄土むら土呂久』の本には、まるで『鬼八伝説』の『ししかけまつり』を連想させることが、書かれている。本には、いっさい鬼八伝説の「ししかけまつり」の事には触れてはいないが。 霜が降る。
それは、季節にかかわりなく舞い落ちる真っ白い猛毒な霜。十七頃の娘の黒髪に降り積もった猛毒な霜。当時は、それがなんなのか不明だった。娘たちは謎な病にふせ息をひきとった。その家族も。生き物、作物、水に真っ白な猛毒な霜が降り積もった。

 

土呂久砒素公害
亜砒酸製造の「亜ヒ焼き」が引き起こした公害
土呂久砒素公害(とろくひそこうがい)とは、1920年(大正9年)から1941年(昭和16年)までと1955年(昭和30年)から1962年(昭和37年)までの計約30年間、宮崎県西臼杵郡高千穂町の旧土呂久鉱山で、亜砒酸を製造する「亜ヒ焼き」が行われ、重金属の粉塵、亜硫酸ガスの飛散、坑内水の川の汚染で起きた公害である。


夏の夜の霜とは、鉱山からたち昇る煙にまじった真っ白い粉のこと。季節にかかわりなく舞い落ちる白い粉をかぶって、娘の黒髪がまるで老女の白髪にみえた。その霜の真っ白い粉こそ、飛ぶ鳥を落とすほどの猛毒物だったのである。

 

三毛入野命と鬼八
https://takachiho88.net/i/2mikenu.htm
神代の頃、二上山の乳ヶ岩屋に鬼八(きはち)という悪神が住んでいて、山を下りては、あららぎの里の「鬼ヶ岩屋」に住み、七ヶ池(ななつがいけ)に棲む祖母岳明神の娘、稲穂姫の子、鵜目姫をむりやり妻にしてかくまっていました。
ある時、三毛入野命(みけぬのみこと)が五ヶ瀬川のほとりにある七ケ池を通られると水鏡に美しい姫の姿が映っており、命がその姫に問うてみると、「鬼八という者にむりやり連れて来られ悲しんでおります。」と言いました。
三毛入野命は鬼八を退治することになり、四十四人の家来を引き連れて乳ケ岩屋を攻め鬼八を退治されました。
鬼八の亡骸を埋めましたが、魔性の者のため何度でも息をふきかえしますので体を三つに切って別々に埋めたところ、鬼八は再び蘇ることはできませんでした。ところが早霜が降りて作物に害を与えますので、里人はこれを鬼八のたたりだと思い慰霊祭を行ったところ、霜は遅く降り五穀もよく実ったそうです。(このお祭りは毎年旧暦の十二月三日、高千穂神社で猪掛(ししかけ)祭として、今も行われています。)
三毛入野命に助けられた鵜目姫は、命の妃になられ八人の御子を産み、子孫代々この地で十社大明神として里人に深く信仰されたということです。



鬼八と三毛入野命の戦いは、稲飯の末裔と言われる漆間氏と豊後境の祖母山にうば岳大明神を祭った大神氏との勢力争いではなかったと捉える学者もいる。先住の漆間氏を追放し、三田井に十社大明神を祭り、主神を三毛入野命としたと見る。


※ヒルコのブログ
https://ameblo.jp/ringo03080515/entry-12902264129.html
鬼八伝説の真相と闇の神事 2025-05-12

『浄土むら土呂久』川原一之著(筑摩書房)の本には、
まるで『鬼八伝説』の『ししかけまつり』を連想させることが、書かれている。本には、いっさい鬼八伝説の「ししかけまつり」の事には触れてはいないが。
『浄土むら土呂久(とろく)』は高千穂の悲しいヒ素公害で亡くなった方々の話になる。
この土呂久ヒ素公害を知ったうえで高千穂神話伝説。鬼八伝説を考えてほしいとヒルコは思います。

 

鬼八伝説のししかけまつり
高千穂町には鬼八塚として首塚・胴塚・手足塚の3箇所が存在する。
古来、霜を降らせる鬼八荒神の霊を慰めるため、毎年16歳の処女が人身御供として捧げられたが、天正年間(1573-93年)三田井氏の家老・甲斐宗摂(かいそうせつ)の娘がくじに当たり、宗摂の命により身代わりに猪を奉納するようになった。この神事は高千穂神社(高千穂町三田井神殿)の猪掛祭(ししかけまつり)として現在に伝わる。三毛入野命と鬼八の妻・鵜目姫命(うのめひめ)の子孫である三田井氏が高千穂郷を治めていたが、天慶年間(938-947年)男子なく家系が絶えるため、豊後国大野郡で勢力を広げていた大神惟基(おおがこれもと)の長男を高千穂太郎政次(まさつぐ)として養子に迎えたという。


土呂久の銀山で毎年16歳の処女を誰に献上していたのか。
そんな解釈もできてしまう。
土呂久問題や鬼八伝説を調べれば調べるほど、そのような解釈もできてしまう。

霜が降る。
それは、季節にかかわりなく舞い落ちる真っ白い猛毒な霜。
十七頃の娘の黒髪に降り積もった猛毒な霜。
当時は、それがなんなのか不明だった。
娘たちは、謎な病にふせ息をひきとった。その家族も。
生き物、作物、水に真っ白な猛毒な霜が降り積もった。

 

この高千穂土呂久の古祖母山には、1600年前後に質の良い宝の銀があった。
七福神。打ち出の小槌のようだ。
ザックザックだったろう。ピカピカ光る銀の鉱脈。
床屋とは小屋をかけただけの簡単な製錬場のこと。古祖母山腹のあちこちに設けられた。床屋大工と呼ばれる製錬夫がびっしょりになって、フイゴを吹き吹きカッカと炭火を起こし鉱石中の銀を溶出させている。
山腹の床屋からいっせいに煙がたちのぼる。こうした繁盛の裏に決まって衰亡の芽が潜んでいる。村人はよく知っている。
鉱山の栄枯盛衰をみてきた村人の目は、製錬の煙にうごめく黒い影を見逃さなかった。ゆらゆらとたち昇る幾千幾百もの白い筋を、はたして銀山繁栄のシンボルとして歓迎してよいものか。鉱山の上空をみていると、山から谷へスーっと黒い物が落ちてくる。『鳥だ!』煙にあてられた鳥たちが息もたえだえに空から落下してくる。
当時、村人は白い粉の正体はわからなくとも、背筋のぞっとするような解釈になる。




阿蘇の霜神社と鬼八
阿蘇の霜神社は鬼八の霜害を鎮める神社です。
阿蘇神社の西側約3キロ離れた役犬原地区の湧水群の側にあり、阿蘇の「火焚き神事」が行われる重要な神社となっています。

霜神社 熊本県阿蘇市役犬原9
祭神 鬼八

29

現地の神楽殿掲示版には祭神名が書かれ、
霜宮 大御中主命と高皇産霊命の文字が大きく、
他の祭神は小さな文字で書いてある。
国狭槌命. 山の神
岡象女命. 水の神
軻遇突智命 火の神
旬旬逎馳命 木の神
金山彦命. 金山の神
速秋津日命 水分の神
垣山姫命. 山の神
神殿に二躰の神像ありと付け加えてあります。
主祭神と思われる大御中主命は天御中主神であり、正八幡大幡主です。


霜神社の祭神は鬼八ですが、これが豊後では、建男霜凝日子(たけおしもこりひこ)となり、久住山の麓の久住神社(竹田市久住町久住)に祭られています。

久住神社 大分県竹田市久住町久住6499
祭神 健男霜凝彦神、姫神
追祀 彦五瀬命

30

神紋は高良神社・伊勢神宮の花菱紋、本殿向拝の四本柱は高良神社造りです。
本殿の屋根には、外削ぎの男千木に、鰹木四本で、ここは男神が主祭神で、男女神を祀ります。
祭神は健男霜凝彦神(たけおしもこりひこ)の天之御中主神=大幡主、姫神は天照女神となります。由緒では、姫神の天照女神が上宮となっています。
この久住神社の祭神は竹田市神原の健男霜凝日子神社を分かりやすく表現しています。

さらに、豊後竹田市の祖母山の北麓には関係する建男霜凝日子神社が複数あります。


健男霜凝日子神社(上宮) 大分県竹田市神原
祖母山頂上 祭神:嫗嶽大明神(祖母嶽明神)

健男霜凝日子神社神幸所(里宮) 大分県竹田市神原2447
祭神 健男霜凝日子神
配祀 豊玉姫命、彦五瀬命、鵜葺草葺不合命

31

本殿には男千木に鰹木三本、拝殿の向拝は四本柱で、高良社です
高良玉垂社の祭神は天照女神(玉垂神)と大幡主(高良神)を祀ります。

健男霜凝日子神社(下宮) 大分県竹田市神原1822
祭神 健男霜凝日子神
配祀 豊玉姫命、彦五瀬命

穴森神社 大分県竹田市大字神原1432
祭神 嫗嶽大明神

32


祭神の健男霜凝彦神は高良の神です。高良神は正八幡大幡主です。姫神の天照女神と共に祀られています。
健男霜凝日子神社は祖母山の北麓にあります。神社構成は、祖母山山頂の上宮、祖母山北麓の下宮・神幸所、及び穴森神社からなります。祖母山は翁姥岳(おじうばだけ)とも言われ、大幡主(健男霜凝彦)と天照女神(姫神)を祀る山です。よって、祖母山は二神祭祀です。
健男霜凝日子神社の祭神(祖母山の神)が変化したのが、穴森神社の伝説で伝えられる大蛇とされます。大蛇神は大神惟基(これもと)の父で大神庶幾(これちか)ですが、これは後のことです。本来の大蛇神は天之御中主神の大幡主です。

祖母山の「祖母」に注目するならば、祖母は天照女神でしょう。「記紀」の天孫降臨神話の邇邇芸命からみて天照女神は祖母です。祭神に配祀として豊玉姫命、彦五瀬命が記載されているから余計な推測を呼び起こすのです。
竹田市神原(ごうばる)の穴森神社の祭神は大蛇神の大幡主で、大神惟基の父・庶幾(これちか)が被さっています。
大野市宇田(うた)の宇田姫神社の祭神は天照女神(水神)で、宇田姫(華ノ本姫)が被さっています。


この祖母山・古祖母山の南麓に宮崎県高千穂町土呂久があります。
豊後では、鬼八は健男霜凝彦として好意的にみられていますが、日向高千穂では霜害の鬼八として悪者扱いです。ここでも大幡主は悪者扱いです。
三毛入野命と五瀬命(いつせのみこと)は本当に兄弟なのか?

 

鬼八伝説の『猪々掛祭』(ししかけまつり)は、かなり行き違いがある。
鬼八は高千穂を荒らしていた災いの神か。
これが神事か。残念だ。
でも当時からの隠蔽体質が、この神事に繋がるのだろうか。
あの地では、この神事がきっと、正解なのだろう。
誰かが徳を得ただけ。農民はいつでも犠牲者だ。
この神事に、罪もない猪を使うのはやめてほしい。 (ヒルコ)


猪(いのしし)は大幡主の神使いです。

 

※和気清麻呂と八幡神神使の猪
「猪に乗った摩利支天」を補説するかのような伝説
神護景雲3年(769)、称徳天皇 (重祚:孝謙天皇)は、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の宇佐八幡大神宣託「道鏡を皇位に就かせたならば国は安泰である」を確認するために、和気清麻呂公(わけのきよまろ)を宇佐八幡宮に派遣します。
「我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし。」とのお告げを清麻呂公は帰京し奏上。

道鏡の怒りをかった清麻呂公は、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名され、大隅国(鹿児島県)に流されることになり、その旅の途中、道鏡の放った刺客に襲われ、足の筋を切られます。
宇佐八幡宮へ立ち寄る際、豊前国(福岡県東部)にさしかかった時、どこからともなく三百頭ものイノシシが現れ、清麻呂公の輿の周りを護リ、約40 Kmの道のりを案内したという。さらに宇佐宮に詣でたところ、道鏡に傷つけられた脚が回復するなど、八幡大神のご加護による数々の奇跡がおきたと伝える。

一年後、称徳天皇の崩御により道鏡は失脚し、清麻呂公は都へ呼び戻されます。
和気清麻呂公は宇佐八幡宮末社、護皇(ごおう)神社に祀られています。