前回のブログ『日本最古のベンガラ彩色耳栓・・呉人が見た球磨人』より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12465743160.html

2019/06/16 18:52 追記 文書内後半「  」の文字の項に一行追記を行いました。

2019/06/18 追記

ブログ内『大神惟基』草創の神社様の記述の下に、私がスルーしてしまっていた、とても重要な事を追記致しました。

 

皆様は榊に美しい白い可憐な花が咲くことを御存じですか?

今、家の敷地内に植えられた数本の榊には満開の花が咲いています。

その姿はスズランにも似ていて、香りは上品で、私はその香りに癒されています。

 

家の敷地に咲く 榊の花

もしかしたら・・榊に白い香り高い可憐な花が咲く事を御存じ無い方もいらっしゃるかもしれない・・と考え、ぜひ、皆様方にご覧頂きたく思い写真を載せました。

(香りまではお届け出来ませんが・・)

榊の白い花で気が付いたのですが、実は家の水の神様をお祀りの「湯川」にも榊の木がありました。(沢山の木が茂っているので今まで全く気が付いていませんでした・・トホホ)

湯川についてご存じない方は、ブログ『家の水の神様(球磨郡久米郷宮原村の宮原家の水の神様)』をご覧ください<m(__)m>

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12449528169.html

 

今回は前回に続く超古代のお話とは異なります。ご了承下さい。

実は・・先日、ブログ『五木村の縁戚の方々と私の先祖が繋がる椎葉村」で書かせて頂いた親戚の宮司家の「尾方のおじさん」がお亡くなりになられました。

未だ過去ブログをご覧頂いていらっしゃらない方は以下のブログをご覧頂きたいと思います。

ブログ内の

①曾祖母の実家の深水家は後世では「藤原氏」(相良氏族)を名乗っていたが、実は、先祖は本姓「源」、すなわち源氏であった事。

の項に書かせて頂いた「宮司家」の方です。

親戚の「尾方家」は

1981年発行 上米良純臣氏編著の熊本県神社誌に記載

古い社家略系図 人吉・球磨地区神職家系図 にもその系が載る「お家」です。
系図には
本姓 大神 氏 尾方 とあり
初代が緒方太郎右衛門。 代々「惟」の通字、「清」の通字を持ち、熊本県神社記には15代目となられる方までが記されています。

お亡くなりになられた方は15代目となられる方でした。

 

神葬式には、私も父と共に参列させて頂きました。

私は知らなかったのですが、尾方のおじさんは
平成7年まで国宝青井阿蘇神社の宮司を務めていらしただけではなく・・
皇居勤労奉仕団の団長を務めていらっしゃいました。
皇居勤労奉仕団の団長は熊本県神社誌編著の上米良純臣氏が初代。尾方のおじさんは上米良氏の後任でいらっしゃったようです。
熊本県神社庁の理事でもいらっしゃいました。
過去数回の伊勢神宮の神宮式年遷宮においては神宮内でお務めを果たしていらっしゃいました。
上皇様とは何度もお目にかかる機会があったそうです。

私は・・本当に全く知りませんでした。 

自分の不甲斐なさをあらためて思い知りました。

もっと早く球磨に戻って、お元気でいらした頃の尾方のおじさんに沢山のお話を伺うべきだった・・と。闘病中の尾方のおじさんは、従弟でもあり、妹の夫でもある椎葉のおじから、私が親戚間のご先祖様を調べている事を聞かれて「それは良いこと。頑張るようにと伝えて」と言って下さいました。その時に、私に調べて欲しい事があると言われて、「一つの頼み事」をされていらっしゃったのですが、私が、尾方のおじさんの頼み事の答えを見つける前に、天国へと旅立たれました。

尾方のおじさんは、神様におなりになられました。「氏神様」におなりになられてご家族をお見守りになられています。

私はおじさんのご冥福を祈り、心から尊敬する尾方のおじさんに答えは必ず見つけますとお伝えして玉串を奉りました。

 

橘族の絆

親戚の尾方家は本姓大神氏でいらっしゃいますが、家紋は橘紋でした。

私はその事さえ今まで全く知らないでいました。

神葬式に伺って初めて、「橘紋」のお家であった事に気が付きました。

尾方家からは、私の祖母の姉が幼い頃に養女に入った椎葉家に、私の祖母の姉の婿養子の方が入られました。二人の次男であり、椎葉家を継いだ「椎葉のおじ」の妻の方も、尾方家から嫁いで来られた、亡くなった尾方のおじさんの妹の方です。

尾方のおじさんと椎葉のおばさんのお母様は「橘姓中村家」から尾方家に嫁いで来られました。お二人のお母様の妹の方は、私の祖母の長兄の妻として平川家に嫁いで来られています。その橘姓「中村家」とうちの橘姓「宮原家」も縁戚関係にあります。

※補足 

ちなみに橘姓中村家 とは? 縁戚関係にある矢野家にその由緒が伝わっていました。

矢野家系図。
橘姓矢野氏系図とあり、三十代敏達天皇より出て橘諸兄をへて上野国(栃木県)宇都宮城主であったが、信貞の時、伊予国(愛媛県)矢野城主となり矢野伊予守と称した。
「貞広代従菊池肥後守武朝公筑後国三原於中村之庄十二丁賜之同於三池郡六丁預給之都合十八丁領代々住中村仍而改矢野苗字号中村氏」と記されています。

ただし・・気になるのですが、わたくし共「宮原一族」の先祖でもある「橘公業」の後裔にも橘姓中村氏があり、さらに「橘公業」の兄「橘公忠」、この方の後裔は橘姓矢野氏である事も特記させて頂きます。

 

椎葉のおじは、以前から数回ブログで書いたように、私に

系は違っても、家の親戚関係”椎葉家・深水家・平川家・宮原家”は堅い絆で結ばれている」と言います。

この堅い絆には尾方家も入っていらっしゃるのだ!・・と、私は尾方家の家紋「橘紋」を拝見してようやく気が付く事が出来ました。

堅い絆は幾重もの「縁」によって結ばれているのだと思います。三本の矢は折れない・・と同じで、その幾重にも繋がった「縁」が絆をより強固な物にしているのだと思いました。

その「縁」の一つが「」であった事にようやく気付く事が出来ました。

 

神葬式では某神社様の宮司様が斎主となられ、他の数社の神社様の宮司様が声を揃えて祓詞(祝詞)を奏上されました。

掛介麻久母畏伎伊邪那岐大神筑紫乃日向乃橘小戸乃阿波岐原爾御禊祓閉給比志時爾生里坐世留祓戸乃大神等諸乃禍事罪穢有良牟乎婆祓閉給比清米給閉登白須事乎聞食世登恐美恐美母白須

かけまくもかしこきいざなぎのおほかみつくしのひむかのたちばなノをどのあはぎはらにみそぎはらへたまひしときになりませるはらへどのおほかみたちもろもろのまがことつみけがれあらむをばはらへたまひきよめたまへとまをすことをきこしめせとかしこみかしこみもまをす

 

厳粛な神葬式で響き渡る宮司様方の祓詞(祝詞)は荘厳でした。

不思議な事なのですが、私は帰宅しても、何故か?祓詞(祝詞)の中の『日向乃橘小戸(ひむかのたちばなノをど)』のお言葉が宮司様方のお声のまま頭にずっと響き続けていました。

その事を父に伝えると、父も「実は父さんも同じなんだ・・」と言いました・・

 

翌日・・・

主人と二人で霧島に伺いました。実は当日、主人の誕生日で主人が霧島の「ミヤマキリシマ」が見たいと以前から言っていたのです。

残念ながら韓国岳のミヤマキリシマはすでに満開を過ぎていました。

薄っすら頂上付近にピンクのミヤマキリシマが残る韓国岳

(解り辛いと思いますが・・)

 

韓国岳の麓に咲いていたミヤマキリシマ

 

ミヤマキリシマを堪能した後、私がどうしても伺いたい!と願った場所に主人が連れて行ってくれました。 そこは

ブログ『球磨の古代の復権』 https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12455996192.html

ブログ『「壇」地名の意味と天下八方の支配者

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12457528572.html でご紹介した

霧島神宮古宮址 天孫降臨神籬斎場(ひもろぎさいじょう)です!

 

上記のブログを書いた後に「どうしても行きたい」と願っていた場所です。

 

霧島神宮元宮と霧島神宮古宮址の位置関係

 

 

霧島神宮古宮址 後方に聳える高千穂峰

 

 

高千穂峰と 御拝殿址

 

ニニギノミコトさまの天孫降臨の際、道標として火を焚いて迎えたという故事にちなんだ
年に1回行われる、『天孫降臨御神火祭』 の『その地』火を焚かれる
八角形の地

 

ブログ『球磨の古代の復権』、ブログ『「壇」地名の意味と天下八方の支配者』でも書いたように、私はこの地に以前伺った時に拝見した、この八角形の場所がどうしても忘れられずにいました。

私はこちらの『八角形』を拝見して、とても標高の高い場所ですから、天に向かっての何か意味がある祭祀だとは感じました。
その後・・多良木町史に記載された『赤坂古墳』の『
八角形の記述』に気が付いた・・と言うしだいで、実はブログ『内部構造が全国的にも非常に珍しい球磨の古墳』を書いた時も、ずっと

霧島神宮の元宮跡で拝見した八角形の祭祀場?の事が頭の中に浮かんでいたのです。

そして、『「壇」地名の意味と天下八方の支配者』でも書いたようにthiro様からのご教示により遂にこの場所がニニギノミコトさまの天孫降臨の際、道標として火を焚いて迎えたという故事にちなんだ年に1回行われる、『天孫降臨御神火祭』 の『その地』火を焚かれる八角形の地と言う事を知りました。

 

来れてよかった!!(^'^) と思いながら、フト考えました・・

私は何故、こんなにも「この地」に伺いたかったのだろう・・?? 伺う事で何か自分自身が忘れている重要な事に気が付くようにお導きを受けているのではないか・・!?

 

そう考えながら、あらためて、先にご紹介した『霧島神宮元宮と霧島神宮古宮址の位置関係』をじっと見つめていて気が付きました!!

そう・・完全に忘れていました・・この地に深く関わっていたのは

「橘氏」である事を!!

この事は今から6年前にすでに気が付いて、利用させて頂いている「スレッド」の方にはちゃんとコメントとして書き残していたのに、私の意識の中で薄らいでしまっていました。

 

橘一族と霧島神宮

霧島神宮元宮と霧島神宮古宮址の位置関係の写真より

霧島神宮元宮

初代の霧島神宮は元々、高千穂峰と御鉢火山の鞍部にあったとされていますが788年の御鉢の噴火で焼失しました。現在、その場所には神社の跡を示す鳥居と石碑が建てられています。

霧島神宮古宮宮址

祭壇は2代目の霧島神宮の社殿がここに存在した事を今に伝えています。

 

霧島神宮様 公式ページより

http://www.kirishimajingu.or.jp/contents/goyuisho.html

社殿の創建

中略・・旧記によると、元宮はもと高千穂峰と御鉢「火山口」との中間 脊門丘に奉斎されていましたが、御山の噴火の為に悉く炎上し、村上天皇の天暦元年(950年)天台宗の僧である性空上人が高千穂河原に再興奉還しました。また、文暦元年(1234年)の大噴火により、社殿、僧坊寺が災禍に遭い、田口の侍世の行宮に250年間奉斎されました。その後、真言宗の僧 兼慶上人が藩主 島津忠昌公の命を受けて 土御門天皇の文明16年(1484年)社殿等を再興しておられます。

そののち、別当寺 華林寺からの失火により全焼の厄に遭われたのを、第21代島津吉貴公の寄進により正徳5年(1715年)に重建されたのが現在の御社殿です。

以上 霧島神宮様 公式ページより

 

村上天皇の天暦元年(950年)天台宗の僧である性空上人が高千穂河原に再興奉還しました。

こちらが、八角形の祭祀場がある霧島神宮古宮 となります。

性空上人とは ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E7%A9%BA

性空(しょうくう、延喜10年(910年) - 寛弘4年3月10日(1007年3月31日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都の生まれ。書写上人とも呼ばれる。
性空上人  俗名は橘 善行

 

続けて

★その後、真言宗の僧 兼慶上人が藩主 島津忠昌公の命を受けて 土御門天皇の文明16年(1484年)社殿等を再興

兼慶上人とは霧島山略縁起 に

文明十六年甲辰歳、邦君の命により、真言密宗兼慶法印[柏原備前守橘公資三男也、]当山を中興せり 

と記されています。

兼慶法印  柏原備前守橘公資三男也

 

柏原備前守橘公資とは一体何方なのかを以前調べていました。

現在は閉鎖されましたがYahoo!ジオシティーズ様内の島津家家臣団人名録というサイト様に以下のように記されていた事を記録しておりました。

柏原資家時家子信家孫信貞曾孫季村玄孫 橘公業流矢野氏
  行資資家子嘉慶頃
  好資行資子豊前仕島津元久執事応永頃
  知資好資子
  公資知資嗣資世子備前
  公喜公資子
  公昌公喜子
  公頼公資子備前文明頃

  公実公資子文明頃

 

すでに、皆様方の中にはお気づきになられた方もいらっしゃるかと思います。

兼慶法印  柏原備前守橘公資三男也

橘公資と言う方は・・

橘公業流矢野氏 也

わたくし共、宮原の一族と同族でいらっしゃいました。

 

霧島神宮古宮址 天孫降臨神籬斎場(ひもろぎさいじょう)の八角形の場所がどうしても気になっていた私・・・

霧島神宮古宮の再興に関わっていらっしゃった方は性空上人  俗名は橘善行

島津忠昌公の命を受けて 土御門天皇の文明16年(1484年)社殿等を再興した兼慶法印とは、わたくし共宮原の一族と同じ橘公業後裔「橘公資 三男」でいらっしゃった・・

となりました。

 

八角形の地は、元々祭祀場であったのか?性空上人(橘善行)と言う方が祭祀場として建築なさったのか?は解りませんが

霧島神宮の再興には「橘氏」が深く関わっている・・

と言う事はしっかりと理解する事が出来ました。

やはり・・今回「霧島神宮古宮址 天孫降臨神籬斎場(ひもろぎさいじょう)」にどうしても伺いたかった理由は・・お導きであったとしか考えようがありません・・

とても、重要な事を知っておきながら私が6年以上もスルーしていた事にご先祖様方が嘆いていらっしゃったのかもしれません・・・

 

さらに今回 霧島神宮古宮址 天孫降臨神籬斎場(ひもろぎさいじょう)に伺って新たに気が付いた事があります。

元宮はもと高千穂峰と御鉢「火山口」との中間 脊門丘に奉斎されていましたが、御山の噴火(788年)の為に悉く炎上し、村上天皇の天暦元年(950年)天台宗の僧である性空上人が高

千穂河原に再興奉還しました。 つまり・・・

788年~950年の間は御神殿の再興は行われていなかった・・

 

霧島神宮元宮 様が御神殿なし・・の時代 大同元年(806年)大神惟基により創建された

霧島神社」が2社あります。

黒原山の麓、私の住む球磨郡久米郷旧宮原村に創建された中嶋大権現(中嶋霧島神社)

旧宮原村は・・あまり、書こうとは思ってはいなかったのですが・・

後の世には「橘氏の支配を受けていた」と書籍等に記される地です。

さらに同じく大同元年(806年)黒原山の麓、旧宮原村のお隣であった旧岡本村に創建された大炊神権現(大炊霧島神社)

中嶋大権現(中嶋霧島神社)の由緒は

大同元年(806年)大神惟基 霊夢による御神託により草創

とあります。 霊夢による御神託とは一体何だろう?と以前からずっと考えていました。

大神惟基、この方は ウィキペディアよりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E6%83%9F%E5%9F%BA

 

熊本県人吉市にある青井阿蘇神社は、大同元年(806年)、大神惟基が阿蘇神社の祭神12柱のうち3柱を分祀して創建したと伝えられる。また、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある天岩戸神社は、社伝によると、弘仁3年(812年)に大神惟基によって再興されたとされる。

以上 大神惟基 ウィキペディアより

 

国宝青井阿蘇神社の創建、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある天岩戸神社の再興を行われた大神惟基。

大神惟基、この方が草創した、私の地元の二社の霧島神社 中嶋大権現と大炊神権現

当時、高千穂峰の霧島神宮元宮の御拝殿が焼失して無かったと言う事と、二社の草創は全く無関係とは私には到底考えられなくなって参りました・・・

霊夢による御神託

私は以前ある方より頂いたお話(霧島岑神社様を勧請との論)から地元の神社の創建について今まで考えていましたが

もしかしたら・・今回気が付いた事も、一つの推論として考えるべきではないのか・・・

 

高千穂峰 霧島神宮 橘氏 大神惟基 旧久米郷宮原村 旧久米郷岡本村・・・

霧島神宮の再興に携わった「橘氏一族」

球磨の「橘一族」

親戚の本姓大神氏の尾方家の家紋は橘紋であった・・・ 

八角形は本来「大山祇命様」、「大国主命様」を象徴する形状でもある・・・

 

私は全て、繋がっている事なのでは?と今回のブログを書いてそう考えています。

おそらく、平安時代と言った新しい時代ではなく、もっともっと古(いにしえ)の時代でしょう・・

 

2019/06/18 追記

とても大事な事をスルーしていました!

大神惟基、この方の霊夢による御神託により草創の中嶋大権現 (中嶋霧島神社)

ブログ『故郷の旧社三社の絵図と旧久米郷の田園風景』で書かせて頂いたように

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12145838672.html

元禄十二年(1699年)編纂の麻郡神社私考の記述によれば、当時の『社人』の方は

宮原主馬

つまり・・宮原の一族の方でした!

中嶋大権現(中嶋霧島神社※宮原神社)宮原中嶋山
大同元年(806年)大神惟基 草創 
社人 宮原主馬
日州霧島神社同體
應永十四年丁亥(1394年)神殿修復
永亨四年(1432年) 藤原前續公御願ニ依テ別當龍泉寺重慶修造 
 ※補足 藤原前續・・相良前続 相良氏第九代当主
天文年中(1532年~1555年) 藤原晴廣公本殿改造 文禄五年 拝殿修復
 ※補足 藤原晴廣・・相良晴広 相良氏第17代当主

 

やはり・・霧島様と橘氏(橘族)は非常に深いご縁がある!

確信致しました。

 

日向乃橘小戸(ひむかのたちばなノをど)

一体どこだったのだろう・・??

大変申し訳ないのですが・・私は自分が住む「球磨」より北の方の「小戸」(あえて場所の特定は控えさせて頂きます)には意識が全く向きません・・

何故ならば、その地には後世の「橘氏」が関与していないからです・・

 

以前、ブログ『現代の肥人(こまひと)の独り言・・』で触れたのですが

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12312687764.html

 

旧宮原村(みやのはる)にそびえる「黒原山」は「くろばるやま」。
この「黒原山」(くろばるやま)を源流とする川が日向(宮崎)を流れる「大淀川」です。
「大淀川」の河口左岸は
イザナキノミコトが「みそぎはらい」を行ったという神話から出た地名、『古事記』には「日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきがはら)」、『日本書紀』には「日向の小戸の橘の檍原」と記されている「小戸の橘(おどのたちばな)」であると、宮崎の方々が信じてやまない場所だそうです。

第12代景行天皇の勅により創建と伝える 日向国 小戸神社様 公式ページ

http://www.odo-jinja.jp/

創建の御由緒

http://www.odo-jinja.jp/rekishi.html

御神紋

日向國 橘之 小戸神社


私としては・・・宮崎の方々が「小戸の橘(おどのたちばな)」であると、信じてやまないその
「大淀川」の左岸。 そこを流れている「大淀川」の源流が実は、私がいつも見上げている
「黒原山(くろばるやま)」であると言う事に誇りを感じています。

そして・・その大淀川の源流である黒原山の麓には橘 族が住んでいた・・

 

ちなみに大淀川の源流「黒原山」の麓、宮原城址、中嶋大権現、切畑大明神址には

「宇土(うど)山」・「宇土(うど)谷」と言った「字」が付いています。

「うど」・・「お」 は球磨弁で 「う」 です。

うど」・・は大和言葉ではおそらく・・「おど」なのでしょう・・・・

最後は意味深な言葉で締めくくらせて頂きました<m(__)m>

 

次回 『孝霊天皇様後裔の方と白髪岳 と パイプ状ベンガラのプレゼント』 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12485134756.html