★2017/09/23 リンクページ等アドレスの修正を致しました。
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前回のブログ『曾祖父への手紙の真相は?』 より続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12312088938.html
肥人(こまひと)とは・・・
肥人 コマヒト コトバンク様 サイトより
https://kotobank.jp/word/%E8%82%A5%E4%BA%BA-504471
デジタル大辞泉の解説
こま‐ひと【▽肥人】
古代、肥後国球磨(くま)地方に住んでいたといわれる人。
大辞林 第三版の解説
こまひと【肥人】
古代、中部九州・肥前・肥後に住んでいた人。球磨くま地方(熊本県)の人の意の「くまひと」の転じた語か。 「 -の額髪ぬかがみ結へる染木綿しめゆうの/万葉集 2496」
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仕事を辞めて、故郷球磨に戻って、私は体重増加により別の意味での「肥人」化をしていますが・・・
(元々、ガリガリに痩せていて”虚弱体質”だったのですが、今は風邪のウイルスも近づけない程、「肥人」は確かに”強人”です)
本来の「肥人」の話に戻ります(ー_ー)!!
「肥人」と言うワードでサイト検索をすると、必ず「古代の球磨」という言葉が登場します。
「古代の球磨」にいた方々は、「肥人」であったり、古代の元祖的「久米氏」であったり、
記紀には「熊襲」と書かれたり・・・・と
様々な「種族」?・・人種?が古代の球磨には住されていたようで・・・・
しかし・・・「肥人」も古代の元祖的「久米氏」も「熊襲」(球磨曽於)も
実は・・・同じなのか?
いやいや(ー_ー)!!・・・結局は「球磨の人」を総称して「肥人」と呼ばれていたのか?
と・・・色々な考えが頭を駆け巡ります。
ただ・・・記紀に書かれると言う事は良きにしろ悪きにしろ
「球磨の人」は古代から有名?であったと言う事は間違いない!(p_-)・・・と言う事で(-.-)
いずれにしろ、私は故郷球磨の古代、日本の曙の時代の方々にリスペクト致しております。
ちなみに・・・私の住む旧球磨郡久米郷宮原村ですが、読みは「宮原」は「みやはら」とは読みません。
「宮原」は「みやのはる」・・・と読みます。
旧宮原村(みやのはる)にそびえる「黒原山」は「くろばるやま」でございます。
この「黒原山」(くろばるやま)を源流とする川が日向(宮崎)を流れる「大淀川」です。
「大淀川」の河口左岸は
イザナキノミコトが「みそぎはらい」を行ったという神話から出た地名、『古事記』には「日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきがはら)」、『日本書紀』には「日向の小戸の橘の檍原」と記されている「小戸の橘(おどのたちばな)」であると、宮崎の方々が信じてやまない場所だそうです。
私としては・・・宮崎の方々が「小戸の橘(おどのたちばな)」であると、信じてやまないその
「大淀川」の左岸。そこを流れている「大淀川」の源流が実は、私がいつも見上げている
「黒原山(くろばるやま)」であると言う事に誇りを感じています。
この「黒原山」は”古代久米族の権利の象徴であり守護山である”と、ある歴史研究家の方からお伺いしました。
ふと・・・考えるのですが・・・
「黒原山」様が言葉を喋ったら・・・何でも古代の真実が解ってしまうのではないのかな???と。
まるで、子供のようですが、幼い時に見たテレビ番組で「木」に顔があっておしゃべりをする・・・あの状況です。
それはありえない事なので・・・(ー_ー)!! でも・・・そうなったら面白いな!と。
球磨の古代と言えば「記紀」に書かれた「熊県主」(くまのあがたぬし)の「熊津彦」と言う方ですね・・・・
サイト 日本神話・神社様 まとめより
日本書紀 景行天皇(十七)兄熊と弟熊、水嶋の崖の泉
http://nihonsinwa.com/page/1131.html
原文
夏四月壬戌朔甲子、到熊縣。其處有熊津彥者、兄弟二人。天皇、先使徵兄熊、則從使詣之。因徵弟熊、而不來、故遣兵誅之。
現代語訳
(即位18年)夏4月3日に熊県(クマノアガタ=現在の熊本県球磨郡・人吉市)に到着しました。そこに熊津彦(クマツヒコ)という兄弟が二人いました。天皇はまずは兄熊(エクマ)を呼び寄せました。すぐに使者に従って、(天皇に)詣でました。次に弟熊(オトクマ)を呼び寄せました。しかし来ませんでした。そこで兵を派遣して誅殺しました。
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景行天皇は熊襲(球磨曽於)を滅ぼされたと、よく言われますが・・・・
しっかりと読むと、決して熊県主「熊津彦」と言う方は亡くなってはいません(ー_ー)!!
なくなったのは、熊県主「熊津彦」の弟熊(オトクマ)、すなわち弟の方です。
熊県主「熊津彦」と言う方は(天皇に)詣でた・・・お従いしたと書かれています。
景行天皇に御縁のある地名と言われる「天子」。
この天子と言う地名は球磨郡内に23か所あります。
私の住む旧宮原村の家から800メートル程先にも「天子」という地名が残っています。
その「天子」から川を挟んで対岸が「鶴」という地名です。
この二つの地区に架かる橋の名前は「天子鶴橋」です。
「天子鶴橋」は近年架けかえられましたが、最初の「天子鶴橋」の落成式の時に橋を最初に
村民を代表して渡ったのは、私の祖母の実家の「曾祖父母」他親子3代です。
その時の写真は以前、ブログにアップしていましたがあらためてご紹介します。
先頭を歩いているのが曾祖父です。
何故?曾祖父母他、祖母の実家の人達が「天子鶴橋」を村民を代表して最初に渡ったのか・・
それは、解りません。
「熊県主」(くまのあがたぬし)の「熊津彦」。この方のお話に戻ります(..)
「熊津彦」。この方の名前が記された「系図」が存在しています。
それは「姫(き)姓 松野連〈倭王〉系図」です。
ネットでも公開されていて、
久留米地名研究会様のサイト、一番下に公開されています。
http://chimei.sakura.ne.jp/f-32yodohime.htm
画像はこちらです。
http://chimei.sakura.ne.jp/f32-1223.gif
http://chimei.sakura.ne.jp/f32-1224.jpg
「熊県主」(くまのあがたぬし)の「熊津彦」
呉王 夫差 を祖とする 「姫(き)姓 松野連〈倭王〉系図」には明らかに
『宇麻鹿文』と言う方の子息に「熊津彦」と記されています。
さらに
「熊県主」(くまのあがたぬし)の「熊津彦」の子息二人の方の名は
熊津彦 ⇒ 難升米 兄夷守大夫 率善中郎将
熊津彦 ⇒ 掖邪狗 弟夷守 率善中郎将
と書かれていました。
難升米 兄夷守大夫 率善中郎将
掖邪狗 弟夷守 率善中郎将
この方々は・・・・魏志東夷伝に登場する方々ですね・・・・
夷守・・夷守とは、地元に住んでいるので解るのですが・・・黒原山を越えた反対側?宮崎県小林市の旧称です。
系図の真偽はよく解りませんが・・・ただ注記は『鈴木 真年』氏と思われる と記されていて
鈴木 真年氏 ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E7%9C%9E%E5%B9%B4
鈴木 真年(すずき まとし、鈴木眞年とも。天保2年(1831年)- 明治27年(1894年)4月15日)は日本の江戸時代末期から明治時代にかけての系譜研究家・国学者。初めは紀州徳川家に属して系譜編輯事業を担当、明治維新後は弾正台に属して新政府の下での系譜編纂事業に就く。のち、宮内省・司法省・文部省・陸軍省と所属を変遷しながらも、この間に系譜編纂を継続し公的・私的いずれの立場においても多数の系譜集を編み世に送った。
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私は邪馬壹国が何処にあったか?と言う「論争」には全く興味が無く
興味がある事と言えば
こってこての「新球磨人」と、こってこての「日向日下部氏」のハーフ?である私が住んでいる
この「球磨」、そして九州の古代の謎です。
先祖が縁あって、住したこの故郷「球磨」の古代の”真実”を知りたいと言う気持ちでいっぱい・・なだけです。
だからこそ
自分の先祖や親戚の先祖を遡って調べては、気が付いた事を「なんとなく」ですが、このブログに書きとめています。
しかし・・・
故郷球磨の「熊県主」(くまのあがたぬし)の「熊津彦」と言う方の名が真偽は別として
系図に登場している事を知った時は
本当に、嬉しかったです(^'^)
今日は 現代の「肥人」の独り言を・・・書かせて頂きました。
次回 『球磨 あさぎり町の遺跡からの出土品』 に続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12313557213.html