前回のブログ 『 球磨の古代の復権 』 より続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12455996192.html
平成31年4月30日 23時52分 追記
平成も、わずか数分となりました。
本日、「退位礼正殿の儀」の天皇陛下のおことばを、主人と父とテレビで拝見致しました。
朝から何度も寂しいと言っていた父は、陛下のおことばの後
「天皇陛下 ありがとうございました」
とテレビに向かって泣きながら深々と頭を下げていました。
直後、娘からの電話がありました。娘は「天皇陛下のおことばをテレビで見ていて、凄く寂しい気持ちになったの・・」と涙声でした。
娘は「明治、大正、昭和の時代は戦争の時代だったけれど、平成は災害は多かったけれども、戦争の無い、とても平和な時代を過ごす事が出来た事を心から感謝したの」と言っていました。
国民に心から感謝します との天皇陛下のお言葉は、とてもありがたく、今日この日を私は一生忘れないです。
私は今日、あらためて、日本人に生まれて本当に良かったと思いました。
前回、市房隠遺跡について触れましたが、補足として簡単に御説明させて頂きます。
市房隠遺跡、正式には市房隠支石墓(弥生時代)です。
市房隠支石墓は箱式石棺墓でありました。
出土した免田式土器について
参考文献 弥生人の祈り 免田式土器の謎 熊本県立装飾古墳館 より
免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。
3世紀、「魏志倭人伝」の中に邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
免田式土器は大まかに、文様から2種類、形から9種頬に分類することができます。
文様は、重弧文と鋸歯文があり、それらの文様と一緒にワラビのような文様(ワラビ手文)が施される例もあります。
鋸歯文が施される例は、人吉球磨地方以外ではあまりありません。
また、ワラビ手文がつけ加えられている例は、市房隠遺跡以外では出土していません。
以上 参考文献 弥生人の祈り 免田式土器の謎 熊本県立装飾古墳館 より
市房隠支石墓(箱式石棺墓)から出土した免田式土器には鋸歯文とワラビ手文がつけ加えられていて市房隠遺跡以外では出土していない・・
と言う事です。
弥生人の祈り 免田式土器の謎 熊本県立装飾古墳館は奈良文化財研究所様のサイト
『全国遺跡総覧』よりダウンロードする事が可能です。
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178
免田式土器の出土地一覧も記されています。(免田式土器出土遺跡地名表)
九州北部では殆ど見つかっていないと言われる免田式土器ですが
『免田式土器出土遺跡地名表』を見ると
三雲遺跡 ※福岡県前原市三雲番上(現糸島市)からも出土しているようです。
三雲南小路遺跡 ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9B%B2%E5%8D%97%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E9%81%BA%E8%B7%A1
三雲南小路遺跡(みくもみなみしょうじいせき)は、福岡県糸島市にある遺跡。「三雲・井原遺跡」の一部として国の史跡に指定されており、市内の細石神社の裏手に所在する。
周溝をもつ墳丘墓で、甕棺墓2基をもつ弥生時代の王墓である。
『免田式土器出土遺跡地名表』により市房隠支石墓が箱式石棺墓であった事を知る事が出来ました。
免田式土器の出土地については、後日詳しく書かせて頂こうと思っています。
市房隠支石墓は箱式石棺墓(弥生時代)
http://www.isekiwalker.com/iseki/180250/
箱式石棺墓とは ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B1%E5%BC%8F%E7%9F%B3%E6%A3%BA
箱式石棺(はこしきせっかん)とは、縄文時代~古墳時代にかけてみられる、板石を箱状に組み合わせて作られた石棺の一種である。
縄文後期に青森・長野の遺跡で出現し、晩期に入ると東日本一帯に広まった。
弥生時代の箱式石棺は九州北部・中国西部を中心に前期から出現し、その後近畿を除く西日本に広く分布した。 (ウィキペディアより)
市房隠支石墓はブログ『面田(免田)の「クシカ」と松野連系図 西暦と対照』で御紹介したクシカ(久鹿)の天子神社様からは300~400メートル程しか離れていない場所です。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12444947549.html
前回書かせて頂いたスタルペス様からの御教示
私の伺った「新町支石墓群」から出土した人骨は縄文人のそれと酷似おり弥生人と稲作とのセットで考えるのはそぐわないのではと言われています。
支石墓分布の中心は松浦・糸島地方から北九州地域(西寄り)に広がった墓制です。
その支石墓が球磨地方にあったとは、ほんとうに驚きです。
何れにしても弥生時代に北部九州と球磨地方の交流があったことは事実ではないでしょうか?
免田式土器が糸島市の三雲南小路遺跡からも出土していた事、免田の市房隠支石墓(箱式石棺墓)・・スタルペス様がおっしゃったように弥生時代に『北部九州と球磨地方の交流があったことは事実』であろうと私は考えます。
さらに、市房隠支石墓(箱式石棺墓)から出土した免田式土器には他では類を見ない
★鋸歯文とワラビ手文がつけ加えられていた。
ワラビ手文 コトバンク様より
https://kotobank.jp/word/%E8%95%A8%E6%89%8B-665668
若葉がまだ開かず先がこぶしのように巻いている早蕨(さわらび)。
早蕨のような先端が巻き込んだ形の意匠。刀の柄(つか)や高欄、神輿(みこし)の屋根などにみられる。
さらに、さらに鋸歯文とは? ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8B%B8%E6%AD%AF%E6%96%87
鋸歯文(きょしもん)とは、三角形を連鎖して表現した幾何学文様の1つ。鋸の歯状に並べたように見えることから命名された。
中国の漢代の青銅器などにみられるため、日本には中国から渡来した可能性がある。
一方で縄文土器の段階で既に存在していたとする指摘も存在する。
弥生時代以降になると様々な文物に用いられ、弥生土器や銅鐸、銅鏡、埴輪、瓦、古墳の壁面装飾などに見られる。
また、鋸歯文の中に平行線を刻んだり、彩色を施した文様も確認されている。
★中国の漢代の青銅器などにみられるため、日本には中国から渡来した可能性がある。
私は「市房隠支石墓(箱式石棺墓)」が何と言うか・・縄文時代晩期と弥生時代早期を合わせたような・・合流したような遺跡だったのでは?と・・そう考えてしまいました。
縄文時代晩期と言えば、ブログ『縄文時代晩期『人吉の中堂遺跡』は凄い!遺跡だった』で御紹介した『人吉の中堂遺跡』ですが・・・
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12427746204.html
私、大事な事を書かせて頂いていませんでした。『人吉の中堂遺跡』からは
赤ちゃんを埋葬した棺38基
が見つかっています! 『人吉の中堂遺跡』は今から約2400年前(BC400年頃)の遺跡です。
当時の人吉・球磨地方には亡くなった赤ちゃんを棺に納めて、手厚く葬る方々が住んでいた
と言う事が解ります。
中国の古代祭祀と球磨の関係「壇」
ブログ『松野連系図と千早振る神々の時代の球磨と帆船』で
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12447362204.html
先に書かせて頂いた『中堂遺跡』と同じ中神村(現人吉市中神町)には「段」地名がある事、
さらにブログ『家の水の神様(球磨郡久米郷宮原村の宮原家の水の神様)』で、
私の家では門に榊をお供えして神様をお迎えしている事を書かせて頂きました。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12449528169.html
その後、ブログ『もう一つの歴史教科書問題』の管理者様よりメールで御教示を頂きました。
ブログ『もう一つの歴史教科書問題』の管理者様より頂いた御教示
門と段について、もしかしたら関連があるかもしれない内容を、『中国の社――土地信仰成立史』(E・シャヴァンヌ 菊池章太訳注、2018年)から引用しておきます。
「中霤(ちゅうりゅう)」の「霤」は一文字では「あまだれ」と読みます。個人的には日本の神社は周代あたりの「中国の社」の制度を取り入れたものではないかとの仮説を持っています。
P9
中霤は古代中国の人々が崇拝した五祀のひとつである。これは家にやどる五つの神格で、あとの四つは竈と井と門と戸である。竈は家事の火をあずかるところ、井は水の精霊がひそむところ、門は家の外側の扉、戸は内側の扉であり、ともに家を守るところである。中霤という言葉は今はすたれたが、家々でまつる土地の神にそれにちなむ名が残っている。
[清朝末期の]中国では夕方になると町のそこかしこで香が焚かれる。通りに面した家の門口では神の名を記した牌のまえで火をともした。
P15
社のある場所には土壇が築かれた。
P18
後漢の状況については蔡邑の『独断』の記述にあきらかである。すなわち「天子の社では五色の土によって壇が築かれた。
ブログ『もう一つの歴史教科書問題』の管理者様は、上記について御自身のブログの方でもお書きになられています。
日本の神社は自然発生でなく「中国の社」が淵源ではないか
『古代中国の社 土地神信仰成立史』(E.シャヴァンヌ著・菊地章太訳注、2018年)を読むと、周〜漢代の「中国の社」に関する記述には、古代日本の統治制度と関係があるのではないかと思われる点が見られる。いくつか紹介しよう。
里は二十五家からなり、そこにひとつの社がある。里には春二月の吉日に土地の社をまつることが義務づけられていた。(P10)
古代日本では2倍の五十戸を里(さと)としていた。神社では春の大祭が行われる。
天子は封建諸侯に国を封じるとき社稷を設けさせた。小司徒という官吏がそれを補佐した。[『周礼』によれば]九畿のそれぞれに「社稷の土壇を築き、土地の神とあがめる樹木を植える。土地ごとにふさわしい樹木を選んだので、それぞれの国の社は樹木の名で呼ばれた」という。(P11)
中略・・・
「漢委奴国王」の金印を授かった倭国も漢王朝の統治機構を採用した可能性が高い。
社のある場所には土壇が築かれた。(P15)
古い書物は社の土壇を冢土と記す。……
漢代に宮廷に置かれた社、すなわち太社は五十歩四方の土壇を有した。
壇の四方にそれぞれの方角に対応する色の土が盛ってある。東は青、南は赤、西は白、北は黒、壇の上部は黄色い土である。諸侯の社はその半分の二十五歩四方の土壇を有した。その壇には領地の方角に対応するいずれかの色の土が盛ってあった。(P16)
後漢の状況については蔡邑の『独断』の記述にあきらかである。
すなわち「天子の社」では五色の土によって壇が築かれた。……(P18)
★「天子の社」では五色の土によって壇が築かれた。
ブログ『もう一つの歴史教科書問題』の管理者様には、私からメールでお伝えしたのですが
実は・・・人吉の地名「段」は
江戸時代まで「壇」でした!
人吉市中神町段の「段」は江戸時代1600年代までは実は「壇」でした!
その地には、川嶋大王神社様が御鎮座でした!
元禄十二年(1699年)編纂の麻郡神社私考に記されていました。
中神村川嶋大王神社様の記述 麻郡神社私考より
省略・・
『大王何レノ神ナルカ不知且ツ草創ノ年紀未考』
省略・・
『川嶋ノ神霊大王ヲ同(中神)壇ニ勧請シテ祭ル』
★川嶋ノ神霊大王ヲ同(中神)壇ニ勧請シテ祭ル
中神には「壇」の地名は今はありません。「ダン」と付くのは「段」のみです。
つまり、現在の地名「段」は1699年の時点では地名「壇」であった事が解りました!
※「天子の社」では五色の土によって壇が築かれた。
人吉の「壇」には川嶋ノ神霊大王がお祀りされていらっしゃる・・
と言う事になります。
人吉・球磨の天子地名及び天子神社。さらに大王神社。
※中霤は古代中国の人々が崇拝した五祀のひとつである。これは家にやどる五つの神格で、あとの四つは竈と井と門と戸である
私の家の門には榊をお供えして、神様を御迎えしている・・
全て中国の古代祭祀に直結しているような気がしています・・
ブログ『もう一つの歴史教科書問題』の管理者様、御教示を頂きありがとうございました。
中国の古代祭祀と球磨との関わりが明確に見えて参りました。
八角形と天下八方の支配者
前回のブログ『 球磨の古代の復権 』のコメントでthiro様より「私が見た霧島神宮本宮跡の八角形」について記されたブログ様をご紹介して頂きました。
thiro様 ありがとうございます。
早速、御紹介頂いたブログ様を拝見致しました。
私が、ずっと頭から離れなかった「あの八角形」の場所の意味を知る事が出来ました!
御紹介致します。
神社伝書人 守本朋代様のブログ『霧島神宮古宮址~うまくいかない待ち合わせ』
です。
https://ameblo.jp/morimototom/entry-12298189533.html
神社伝書人様のブログを拝見して、私が見た「霧島神宮本宮跡の八角形」が実は
ニニギノミコトさまの天孫降臨の際、道標として火を焚いて迎えたという故事にちなんだ
年に1回行われる、『天孫降臨御神火祭』 の『その地』火を焚かれる場所だった
と言う事が解りました。
古代中国の政治思想において、八角形が天下八方の支配者にふさわしいという思想
支配者となられたニニギノミコト様に関わる『天孫降臨御神火祭』は八角形の中で火を焚かれる御神事
私の疑問が天孫降臨神話に直結していた事に
鳥肌が立つ程驚いてしまいました・・・・
しかし・・新たな疑問が・・・『天孫降臨の際、道標として火を焚いて迎えた』
一体何方が道標として火を焚かれたのだろう・・?
天よりニニギノミコト様が降りて来られたと言うお話はあくまでも神話であり、現実的な事で言うと支配者となられるニニギノミコト様をお迎えする為に準備をされた方がいらっしゃった・・と言う事だと推測すると・・・
その方が、天孫降臨前のこの土地の支配者であった・・と言う事であろうか・・?
そうであれば、一体どなた!?
『天孫降臨御神火祭』が行われる「地」よりわずか37km程しか離れていない
多良木の古墳・・「石室が八角形」
私は ただ事ではないような気がしています・・
一体何方が道標として火を焚かれたのだろう・・?(お迎えの準備をされたのであろう?)
八角形・・・そう言えば
ブログ『祭祀・風習・伝承は真実を語り続ける手段』では
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12429560737.html
ブログ『宮原誠一の神社見聞牒』の宮原様が、私の住む集落にお越しになられた後、
旧宮原村・旧岡本村に御鎮座であった神社様を合祀された『岡原霧島神社』についてブログをお書き頂き、私が転記させて頂いた事・・・
※広く各社の氏神が合祀されていますので、古代の神々がよく揃っておられます。
大幡主は別に各地の熊野神社に祀られていますが、大山祗神と大国主命が見当たりません。
月型燈籠(三日月と満月)と八角形の玉垣、さらに、クマソ(大山祗)物部の神額は、この神社の基底が大山祗神・大国主命を祀る神社となりますが、大山祗神・大国主命の祭神名が見当たりません。
ここ球磨地方でも、この二柱の祭神は消されたのでしょうか。それとも、表だっての表記を故意に避けておられるのでしょうか。
かつて宮麓には稲積妙見社が鎮座されていることを思いますと、関連神社が鎮座されてもおかしくないのですが。
月型燈籠(三日月と満月)と八角形は「隅切り角紋」であり、大山祗が使用される。
以上、No.086 熊本県球磨郡の岡原霧島神社と王宮神社の本質 ①より
ニニギノミコト様をお迎えした方は 大山祗神様、もしくは・・大国主命様・・・!?
天孫降臨 ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%AB%E9%99%8D%E8%87%A8
天孫降臨(てんそんこうりん)とは、日本神話において、天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原から日向国の襲の高千穂峰へ天降(あまくだ)ったこと。
邇邇藝命は天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(あまのこやねのみこと)などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。途中、猿田毘古神(さるたひこのかみ)が案内をし、邇邇藝命は筑紫の日向(ひむか)の襲の高千穂に降り立ったという、『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である。
邇邇藝命が天降りをしようとすると、天の八衢(やちまた)に、高天原から葦原の中つ国までを照らす神がいた。そこで天照大御神と高木神は天宇受売命に、その神に誰なのか尋ねるよう命じた。その神は国津神の猿田毘古神で、天津神の御子が天降りすると聞き先導のため迎えに来たのであった。
邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。
天忍日命と天津久米命が武装して先導した。天忍日命は大伴連(おほとものむらじ)らの、
天津久米命は久米直(くめのあたひ)らの、それぞれ祖神である。
邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。
※天忍日命と天津久米命が武装して先導した。
※邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい・・・・
韓国岳から見える場所は・・・韓国ではなく・・球磨
前回書かせて頂いたように
球磨の『高原』からは韓国岳が見える・・ と言う事は逆に
韓国岳からは球磨の『高原』がしっかりと見える・・と言う事になります・・・
記紀により神話化されてしまった事による 『歪曲された真実』
やはり全てが繋がっているのではないか!?・・・・
そう感じるのは 私だけでしょうか・・・?
クマソの方々は討伐などされていないと思います。
天孫降臨の際の堅い絆が崩壊してしまった事による『倭国大乱』を『クマソ討伐』と言う話にすり替えてあるのでは
ないのでしょうか・・・・?
時間軸から推測すると
クマソ討伐とは = 実は 倭国大乱!?
邇邇藝命様を武装して先導した天津久米命様
天孫降臨神話の地よりわずか35kmの旧球磨郡久米郷に住む
ひろっぷがお伝えしました <m(__)m>
次回 『令和のはじめに』 に続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12459134907.html