2019/03/20 追記

2019/03/17の記事、最下部に「とても重要な追記」を致しました

 

前回のブログ 続 ”古代と記紀と『遺伝性の筋肉の病』” より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12445968075.html

 

前回のブログをご覧くださった皆様方に心よりお礼申し上げます。

ありがとうございました。

私は前回最後に書いたように

自らの運命をしっかりと受け止めて、今後も古代の謎に挑んでまいります。

今後ともよろしくお願い致します。

 

以前ブログ『神様、御先祖様への感謝の心』で書かせて頂いたように

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12338768590.html

家や親戚一同の風習(習わし)では

一日と十五日には、各家々の外の神様(氏神様・水の神様)の廻りを綺麗に清掃して、

榊を取り替えて、お神酒をお供えします。

家の神棚にも一日と十五日にはお神酒をお供えします。

一昨日は十五日でしたので、神様に平穏無事に過ごさせて頂いている事の感謝の気持ちを込めて先祖代々の「ならわし」我家のお務めを行いました。

実は、家は門の横にも榊がお供えしてあり、家の敷地にはもう一か所、氏神様とは別に榊をお供えしています。

以前、地元の歴史研究家の方から「お宅(宮原家)は何故?門の横に榊がお供えされているのですか?」と質問を受けた事がありました。

私は・・即答出来ずに「何故でしょうね(?_?) 解りません」と・・

父に早速聞いたのですが、父も「何故?って・・ばあちゃんがそうしていたから・・」と

答えにならない事を言い、親子二人とも意味は解らず、「家の慣わし」だと考えていました。

所が・・家の門の横の榊の意味をようやく知る事が出来たのです!それは、昨年、家にお越しになられた古川様と宮原様から伺う事が出来ました!(^'^)

私が門の横の榊を見て頂くと、古川様が

「こちらの門は南を向いているでしょう。南から神様が御出でになられるのです。神様をお迎えする為の榊がお供えされているのですよ、とても大切な風習をこちらの宮原家は伝承されていらっしゃるのです。」と伺う事が出来たのです。

さらに、もう1か所の榊は裏鬼門に供えてあり、厄除けの意味があった事も教えて頂けました。

氏神様は家の敷地の北東(鬼門)にお祀りされてあり、宮原家をお守り頂けている事は知っていたのですが、他の2か所の榊の意味がようやく理解出来ました。

父に早速伝えると「そう言う意味だったのか!教えて頂けて良かった(^'^)」と喜んでいました。

お話を伺って以降、私は「心を込めて感謝の気持ちを込めて」榊替えを行うようになりました。

祖母の代まではちゃんと意味を理解していたのでしょうが、父には意味が伝わっていなくて、さらに私・・こう言う風に、日本古来の風習は今の時代「解らない」まま消えて行くのかもしれない・・と考えました。

我家の「とても大切な風習」をこれからも守り続けて参ります(^'^)

 

では、早速調査を進めて参ります(p_-)

今回は

前々回のブログ 『面田(免田)の「クシカ」と松野連系図 西暦と対照』からの続きとなります。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12444947549.html

 

まず、最初に・・・私はやはりおっちょこちょいです(@_@。 物凄く大事な事に前回気が付いていませんでした!!

 

1.玖志加也 永初元年十月貢漢

前回のブログで松野連系図に関して・・

★玖志加也 『クシカヤ』 もしくは 『クシカ也(なり)』
あった!!ありました!!「クシカ(久鹿)」とは姫姓「呉王夫差」後裔の方の名前だっ
たのか!?

あさぎり町免田(面田)の久鹿(クシカ)・・・
玖志加也 『クシカヤ』 もしくは 『クシカ也(なり)』

などと書いた後・・

『注記には重複する内容が数か所に見られ、混乱された事が想像出来ます。』

と・・まで書いていたのに玖志加也 『クシカヤ』 この方の注記をしっかりと見ていませんでした。 何だか小さな文字で書いてあるぞ(p_-) と思い、あらためて、父の愛用する(主人が父の日にプレゼントしてくれました(^'^) ) ハズキルーペをかけてじっくり見ると・・

 

玖志加也 永初元年十月貢漢

 

と記されていました! 永初元年十月・・・うん(?_?) ・・あれっ・・あれ~っ!!

玖志加也 永初元年十月貢漢

安帝の永初元年(107年)に倭面土国王帥升らが生口百六十人を献上し、朝見を請い願った。

玖志加也(クシカヤ) この方が、もしかして倭面土国王帥升さま !!!!?

 

何だかとてつもなく凄い事になってたぞぉ~!!・・と思い まとめてみました(p_-)

①球磨郡旧免田村は寛永年間まで『面田村』だった。

②球磨郡面田村には久鹿(クシカ)があり、天子神社が御鎮座。

③松野連系図記載の『玖志加也(クシカヤ)』注記には永初元年十月貢漢とあり。

④安帝の永初元年(107年)に倭面土国王帥升らが生口百六十人を献上し、朝見を請い願った。

⑤東漢書に言われていることには、…師升の倭面土國は、その国の男女は皆、面(顔)と身体に入れ墨をしている。よって面の字を加えてこれ(国の名?)を呼ぶと記されている。

★面田と面土 面田の久鹿(クシカ)と玖志加也(クシカヤ) 

★玖志加也(クシカヤ)と面土国王師升・・・永初元年十月貢漢

 

こんな偶然ってあるものなのでしょうか?? 本当に偶然だと皆様お考えになられますか!?

 

しかし・・松野連系図には第一系図と第二系図が記されており、この繋がりも今一つ意味が解らず・・最大の問題は、もし『玖志加也(クシカヤ)と面土国王師升』この方々が同一人物とした場合、『面田』と『面土国』の関係において、系図にある『阿弓』この方の注記『怡土郡大野住』との繋がりがよく解らなくなります。

それに・・公子忌この方が九州に来られたのは『孝昭天皇3年』、前々回ご紹介した上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧で西暦を見ると『紀元前473年』となります。

公子忌(BC473年渡来)とすると、三代後の「宇閇」と言う方の注記が『後漢光武帝 中元二年貢漢』とあるのはどう考えても不自然です。中元二年とは西暦57年です。

BC473年~西暦57年 つまり416年の間にわずか3代??? ありえません、あきらかに何代か抜けています。

系図の混乱と、注記に混乱が見られる事は、ど素人の私にも理解出来ました。

注記は、かなり後世におそらく明治時代以降に書かれたと言う事は解ります。

志賀島で「金印」が発見された事を念頭に、系図の注記を合わせようとされたのではないでしょうか・・・???

ただ・・気になるのは公子忌(BC473年渡来)の2代後の方『阿弓』

この方の時代はおそらく今から2400年~2350年程前だと思うのですが、当時の

九州内、いえ、近畿を含む西日本唯一の集落内群構造の認められる例は

人吉の中堂遺跡でありました・・・

縄文時代晩期『人吉の中堂遺跡』は凄い!遺跡だった

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12427746204.html?frm_src=thumb_module

 

さらに、呉王夫差の父君であられる呉王闔閭(こうりょ)の墓「虎丘」と同じ地名が日本国内で雄一存在したのは人吉南方の『刁岡(とらおか・虎丘・虎岡・寅岡等の表記あり)』

★「市房山」の意味
「市」は斎祀る(いちきまつる)「房」夫差王・・「市房山』
「市房山」は、夫差王を斎祀る山

夫差王を斎祀る山。虎岡名の地名さらに黒原山麓の鳥居から・・

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12436713225.html

 

注記をお書きになられた方は・・人吉・球磨の事を全く御存じ無かった・・と言うより念頭にも無かったのであろう・・と私は考えます。

 

玖志加也(クシカヤ) この方から4代となられる方が『熊津彦』さらに『弟熊』と言う方々で古代の球磨・人吉に住されていたと言われる方々です。

系図では・・繋がっているのですよね・・・

『熊津彦』の御子息が『難升米』・『掖邪狗』 魏志倭人伝、つまり「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条に登場する方々ですね。

 

難升米 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E5%8D%87%E7%B1%B3

 

景初2年(238年)6月、卑弥呼は帯方郡に大夫の難升米と次使の都市牛利を遣わし、太守の劉夏に皇帝への拝謁を願い出た。劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送った。難升米は皇帝に謁見して、男の生口4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。12月に皇帝は詔書を発し、遠い土地から海を越えて倭人が朝貢に来た事を悦び、卑弥呼を親魏倭王と為し、金印紫綬を仮授した。皇帝は難升米と都市牛利の旅の労苦をねぎらい、難升米を率善中郎将に牛利を率善校尉に為して銀印青綬を授けた。

正始6年(245年)、皇帝は詔して、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を仮授した(帯方郡に保管された)。正始8年(247年)に邪馬台国と狗奴国の和平を仲介するために帯方郡の塞曹掾史張政が倭国に渡り、その際に難升米に黄幢と詔書を手渡している。

 

238年の遣使の際に魏から率善中郎将の官職を得ているが、これは243年の邪馬台国からの使者(掖邪狗ら)にも与えられている。こうした官職は外国からの使者に与える形式的な名誉職であり、魏の国内においても中郎将や校尉が黄巾の乱以後の戦乱の影響で任官が濫発されていたとは言え、245年に突然、(卑弥呼やそれを補佐する男弟ではなく)難升米に黄幢(魏の軍旗)と詔書が与えられていることは注目される。同時期、魏の帯方郡に対して、三韓が反乱を起こして帯方郡と楽浪軍の太守によって鎮圧される事件が発生しており、難升米に黄幢(魏の軍旗)と詔書が与えられたことの関連性が注目される。

 

難升米この方について、ブログうっちゃん先生の「古代史はおもしろいで」様の内倉先生

『ブログNO.82 紀氏(その2) 二つの紀氏系図、伝承の錯誤や逸脱も 国会図書館蔵本と』の中で、とても興味深いお話をお書きになられていました。

内倉先生、勝手ながらご紹介させて頂く事をお詫び致します。

https://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/entry-12376264476.html

 

内倉先生の

『ブログNO.82 紀氏(その2) 二つの紀氏系図、伝承の錯誤や逸脱も 国会図書館蔵本と』

より

「静嘉堂文庫所蔵」の系図には「宇麻鹿文」の子として国会図書館本にもある「熊津彦」が登場し、その子として難升米(だん しようまい)の名を入れている。「難升米」は『魏志』倭人伝で卑弥呼が魏国に使いした時の団長だ。『魏志』は中原北方で作られた史書だから、漢音で読まなくてはならない。南方の呉音「なん」ではなく「ダン」、すなわち後に姓を「団」とか「壇」「段」と書いた人々のご先祖だろう。

 

★南方の呉音「なん」ではなく「ダン」、すなわち後に姓を「団」とか「壇」「段」と書いた人々のご先祖だろう。

 

私は、こちらの記述を拝読して、非常に驚いたのです。

何故ならば、「段」の地名は人吉・球磨に数か所存在するからなのです!

 

熊本県人吉市中神町段

 

こちらの中神町は旧中神村。中神村は平河氏の所領地で、平河氏の庶流がこちらに住して「中神」の姓を名乗られました。

平河氏の所領地は旧面田(免田)村以外に、旧木上村・旧深田村・現相良村・旧山田村(現山江村)・現多良木町横瀬・さらに現人吉市の中神村・原田村一体・現五木村・

現球磨村も全て平河氏の所領地でありました。

 

平河氏の所領地であった「球磨村」にも「段の地名」があります。

球磨村神瀬の熊野座神社御鎮座地より直線で五木側に進むと「段峠」、他「球磨村神瀬字段」さらに球磨村神瀬から八代方面に下ると八代市坂本の段

 

 

先に書いた平河氏の所領地旧中神村段の周辺には「段村」さんとおっしゃる方々が20軒いらっしゃいます。父の友人に段村さんがいらっしゃり、私はすぐに調べてみました。

段村姓は熊本県内、人吉市以外は何処にもありません。

 

熊本県内の『段』の地名について記されたPDFを見つける事が出来ました。

https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20190317173048.pdf?id=ART0000926383

 

「ダン」 には平頂の山の意 もあ るが,段丘 ,台地 に付けられている場合が多い 。

邪馬台国・・台・・台地・段丘

 

壇姓は圧倒的に福岡県が多く98軒。内集中していたのは「みやま市」の54軒。

段姓は圧倒的に鹿児島県が多く49軒。内集中していたのは薩摩郡さつま町15軒・肝属郡錦江町15軒。

他九州内の2番目に多い宮崎県内の段姓の方は都城市が21軒と圧倒的に多くいらっしゃいました。

先にも書いた旧中神村段(人吉市)周辺の「段村」姓なのですが、驚いたのですが

全国でわずか34軒。内20軒が人吉市でした。

 

所でさらに驚いたのですが、今から2400年前の遺跡「中堂遺跡」は熊本県人吉市

中神町小柿、つまり中神村の遺跡だったのです!!

中神町段とは球磨川を挟んだ対岸に位置していました。

つまり、中堂遺跡も、平河氏の所領地内であった事が解りました。

 

2.球磨川と帆船

 

実は以前から非常に気になる御推測をネット上で目にする事が多かったのです(..)

球磨・人吉地方は海から遠く離れた山間部なので、例えば狗奴国の王都で合った可能性は非常に低い・・等の「山の中の球磨郡に・・」と言った御推測です。

おそらく・・球磨の歴史を殆ど御存じ無いのだろうなぁ・・と私は悲しくなっていました。

球磨から海までの交通手段・輸送手段で多く利用されていたのは「船」です。

帰りも「船」でした。

「帆船」です。 相良氏の日明貿易では、旧宮原村で採掘された「銀」を「船」を使用して八代の港まで運んでいました。

帰りは帆船で球磨に遡上していました。

私は相良氏が古代の交通手段をしっかりと把握されていたのだと考えていました。

江戸時代以降も相良藩では球磨川で帆船が大活躍していました。

この事を御存じ無い方が沢山いらっしゃるのだろう・・と私は推測致します。

この相良藩と帆船について、ネットでは情報はあがっていないと思います。

私も4年前に球磨に戻る前は全く知らない事でした。

球磨に戻って、地元の歴史研究家の方々からご教示頂き、初めて知りました。

この時は非常に驚きさらに感動致しました(^'^)

縄文晩期、今から2400年程前であれば、縄文海進の影響が少なからず残っていて、球磨川の形は今と比べると異なっていたと思います。

(縄文海進については次回詳しく書かせて頂きます)

弥生時代前期の時点で八代の球磨川の河口は今とは大きく異なり、もっと山寄りであったと言われています。海が山の近くまで迫っていたのです。

つまり、2400年前であれば、私達が想像するより、遥かに簡単に帆船を使用して球磨に遡上する事が出来たのではないでしょうか?

球磨と「アモリ」と「呉人」と「風神族」 で書いたように

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12442157354.html

 

球磨川に到達したかっぱさんに由来の『オレオレデーライタ(オレ・オレ・デーライタ)』は
①「呉人呉人的来多」つまり、「中国の呉の国からたくさんの人がやって来た」という
  意味。
②「我、我、風の共同体」、つまり「我々は風神族だー」である。

 

風の共同体の方々が使用していた船をまさか「手こぎの船」だったとお考えの方はいらっしゃらないと思います。

おそらく、古代の中国の帆船「広船 Juang Junk」 ジャンク船のような物だったのだろうと私は考えます。

海洋辞典様 サイトより 「広船 Juang Junk」

http://www.oceandictionary.jp/scapes1/scape_by_randam/randam18/select1828.html

 

 

江戸時代においても、相良藩は帆船を使用して、八代と往復していた事をぜひ、皆様にお伝えしたいと考えてご紹介させて頂きました(..)

 

3.千早振る神の時代と平河氏

 

古代に繋がる系であると確信する平河氏ですが、時代が下り

平河氏某が江戸時代『南藤蔓綿録』並びに『嗣誠独集覧』の編纂者 梅山 無一軒宛てに書いた極月中旬寒舞。

中にとても気になる言葉があります。

皆様にぜひお読み頂きたいと思いご紹介させて頂きます。

 

原城平川某より極月中旬寒舞とて送られたる一紙

 

無一観
 かしましひ■も浮世も心からすませば何もなかりけるかな

無我の本我
 柴の戸を開きて見れば何もなしなきこそ本の我にてありけり

 吹風に一如の花のふりまするいろのはなれてちらりちらりと

 寒祢川の二つより出る我なれば月日そのままこの身このまま

 かりの世にかりに生まれて暮らしかぬ浮世を廻り影もはつかし

 我ながら我もおかしく千早振る神の残せし姿とおもへば

 ふる雪に山川草木一面に有無も見出さず無一白

 草も木も国土もさらになかりけり極意秘密も猶なかりけり

 何もかもなき源の流れゆゑ何もかもなし無き物もなし

 

いかがでしょうか・・・私には何か伝えたい事がこの方にあったのでは?と見えるのですが

皆様はいかがでしょうか・・・

我ながら我もおかしく千早振る神の残せし姿とおもへば

 

平河氏について鎌倉時代以降の詳細をこちらのブログでは殆ど書いた事がありません。

私は数年間に及び調査を行い沢山の事を知る事が出来ました。

今後詳しく書かせて頂くつもりです。

私が「平河氏とは一体どういう一族だったのか!?」と調査を始めて最初に衝撃を受けた事があります。

それは、鎌倉時代に平河氏が起こした球磨郡西村(現錦町西村)の地頭職をめぐり訴訟を起こした・・その訴訟の相手の方を知った時でした。

その方は、大江広元の外孫であり、北条泰時の娘婿である「徳大寺実春」

北条 泰時 鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。

鎌倉幕府第3代執権

(在職:貞応3年(1224年) - 仁治3年6月15日(1242年7月14日))。

大江広元 鎌倉幕府の政所初代別当

 

時の最大の権力者『鎌倉幕府第3代執権』の娘婿であり、鎌倉幕府の政所初代別当の孫である「徳大寺実春」この方を相手に

球磨の平河氏は訴訟を起こし、勝訴しているのです。

 

これが・・球磨の鎌倉時代の平河氏です。

私はこの事を知った時に、先祖平河氏に対して『一体どういう一族だったのか!?」

と大変驚いた事を今でも忘れてはいません。

詳しくは、後日必ず書かせて頂きます(..)

 

2019/03/20 追記

4.クマソの「クマ」は球磨か玖磨

す~み~様へのコメントを書かせて頂いた後、私はとても重要な事を書いていなかった!!

と気が付きましたので、本日追記致しました。

 

「クマソ」の記述について

1700年代編纂の筑前国風土記には『球磨囎唹』と記されている事は以前から知っていたのですが、私は『年代が新しすぎる』(ー_ー)!! とあまり参考にはしていなかったのです。

所が杉下潤二名城大学名誉教授著書の『縄文人は肥薩線に乗って』を拝読して、とても重要な事を知る事が出来ました。

「クマソ」
和銅5年(712年)に太安万侶が編纂の古事記では「熊曽」
養老4年(720年)に完成した日本書紀では「熊襲」

しかし
天平四年(732年)の『肥前国風土記』には『球磨曾於」
★天平五年(733年)の『豊後風土記』には『玖磨贈』

と記されていた事『縄文人は肥薩線に乗って』を拝読して初めて知りました!。

 

九州内の730年代の方々が間違った文字を書くとは思えず・・「クマソ」の「クマ」は

熊ではなく本当は「球磨」だったのではないか!?と私は考えます。

紀元前からの「球磨」の歴史(栄華)は後世の九州に形を変えて(話を変えて)ちゃんと伝承されていたのだな・・と

話を変えてごめんなさい(..) の証が・・おそらく球磨を取り囲むように建立されている神社様ではないのかな・・(p_-) 豊後の方が関わっています・・(p_-)

この続きは次回に書かせて頂きます。

 

次回、今回の補足

『家の水の神様(球磨郡久米郷宮原村の宮原家の水の神様)』に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12449528169.html