前回のブログ『祈願の地「球磨」と「五七の桐紋」そして「虎岡名」について』より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12435421041.html

2019/01/31 11:45 一番下部に独り言を追記致しました。

 

今回、書かせて頂く内容と、一年前に書いたブログ『中国のドラマの中で「鯰」さんを発見!(p_-)』が、どうしても繋がっているような気がしてならないので、リブログ致しました。

『中国のドラマの中で「鯰」さんを発見!(p_-)』までに至る経緯で以下のブログから進んでいましたので、皆様、よろしければご覧ください。(当時は今以上に九州の古代の謎は理解出来ていませんでしたので、御了承下さい(..)

ブログ 大同年中に建立が続いた球磨の神社

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12338064869.html

ブログ 『序』肥国のトーテム「鯰さん」と奈良の久米寺様

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12339558210.html

ブログ 『本題』肥国のトーテム「鯰さん」と奈良の久米寺様

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12340557469.html

ブログ 中国のドラマの中で「鯰」さんを発見!(p_-)

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12342592277.html

 

あらためて、一年前に自分自身が感じていた事、書いていた事は、一年経過した

「現在」に”直結”しているようだ・・・そう推測致しました。

中国古代の『姫姓』の方々と、日本に来られた『姫姓』の方々、そして『久米』の地名とを繋げる『トーテム』は『鯰』である・・

さらに、今回の後半で書かせて頂く内容に、上記のブログで数回に渡ってご紹介させて頂いた大同年中鎮座(806年~810年)の人吉『遥拝大明神』(鯰をトーテムとする)が大きなヒントになりました。※人吉『遥拝大明神』様には秋篠宮文仁親王様も御成りでいらっしゃいます。

 

早速、『夫差王を斎祀る山。虎岡名の地名さらに黒原山麓の鳥居から・・』について

書かせて頂きます。

 

①夫差王を斎祀る山

前回のブログ『『祈願の地「球磨」と「五七の桐紋」そして「虎岡名」について』の中で書かせて頂いたように、私が今まで抱いてきた『疑問』を、深い知識と観察力をお持ちのブログ『宮原誠一の神社見聞牒』の宮原様が、検証して下さいました。

さらにブログ『宮原誠一の神社見聞牒』の宮原様とブログ 『ひぼろぎ逍遥』の古川様が

私が、ずっと『疑問』だった、『市房山(イチ フサ山)』の『山の名の由来』について

お二人で推考して頂き、以下の答えを導き出して下さいました。

 

宮原様より頂いたメールより

「市房山」の意味が分りました。
「市」は斎祀る(いつきまつる、いちきまつる)
「房」夫差王
それで、「市房山」は、夫差王を斎祀る山となります。
参考
市杵島姫 → 杵島姫を斎く(いつく) → 厳島神社(いつくしま)

以上頂いた メールより

 

★「市房山」の意味

「市」は斎祀る(いちきまつる)「房」夫差王・・「市房山』

「市房山」は、夫差王を斎祀る山

 

そう言う事か!!!! と 凄く感動致しました。

「市」は斎祀る(いつきまつる、いちきまつる) 斎祀る・・・
私も一つ理解出来た事があります。

「五木村」の「五木(いつき)」なのですが、江戸時代までの表記で「斉木(いつき)」と記されているのです!
実は私の曾祖母実家の深水家の五木村の親戚の方が「五木村」の歴史、古代を調べていらっしゃり、先日お会いする機会があって、「五木」の本当の地名「斉木」の「斉」は神様に関係しているのではないだろうか!?と
私に聞かれたのですが、私は知識不足の為、即答する事が出来ませんでした。

五木(斉木)では、何と、山深い里にも関わらず、「縄文時代の遺跡」が多数発見されているのです!
五木(斉木)には「市房山」を眺める事が出来る場所があります。(私はもちろん登った事はありませんが)
五木(斉木)と四浦(球磨弁でヨ~ラ)の境の山深い集落「初神」からは「白髪岳・黒原山・市房山」を眺める事が出来ます。
『五木(斉木)」は球磨の中では山深い里だけれど、火の君の本拠地「氷川宮原」には、球磨の中で最も近い場所だから』
と先の方は言われて、今、五木(斉木)の古代に心が躍る!(^’^)と言われていました。
きっと「五木(斉木)」も何らかの「神事」に関わる場所なのだろう!と私は、宮原様と古川様の御教示を伺い、そう考えました。

相良氏が宮原銀山から採れた「銀」で中国(明)と貿易をしていた際に造られた貿易船の名も「市木丸」(いちきまる)
航海の安全を祈願して付けられた「船の名」であったのだと理解出来ました。
さらに、宮原銀山。
相良義滋公は「銀石現出」を「御 神慮」と位置付けて「家繁栄の心懸け」に励むよう子の相良晴広公に伝え
諸篇の御 神慮疑い無く候の間、家繁栄の心懸け申し及ぶまでも無く候

その言葉通りに
相良晴広公は旧宮原村の中島霧島神社(宮原神社)と旧岡本村の大炊霧島神社の中興を行い、
銀鉱石が現出した宮原地区の神社を敬い、相良家の家運をかけて、宮原銀山を開発した・・

相良氏が「市木丸」に込めた思いを今ようやく理解する事が出来ました。

 

さらに『市』の文字は「姫姓 松野連系図」の中にも、『市乾鹿文』・『市鹿文』と言う姉妹の方々が記されていて『市』の文字が名前に付いていらっしゃいます。

『市乾鹿文』・『市鹿文』と言う姉妹の方々は記紀にも書かれた方々です。

『市』・・斉・・いちき・いつき・斉木もいつき・・いち「き」・いつ「き」・・・・・木=紀=姫

方程式の変数「市・斉」と木=紀=姫 ・・成り立ちました。

 

②虎岡名(寅岡名)の地名

ブログ『相良藩秘中の秘義と「おかはる村」』の中で『王冠を被られた御神像で特に気になった御神像』について書かせて頂いていました。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12414157968.html

上村重次氏 著 九州相良の寺院資料より
球磨郡多良木町東 「池王神社」様 御神像

 
明らかに王冠をお被りのように見えます。

 

私は、『相良藩秘中の秘義と「おかはる村」』を書いた直後に、どうしても「王冠を被られた池王様」が気になり、過去のブログにて『中国製の鏡や植物、蝶等』を調べて気が付いていた

古代の球磨と深い繋がりのあった、「呉国」に何か手掛かりがあるのでは?と考えました。

そこで、池 王 呉 と言うキーワードで調べた所・・

以下のサイト様の記述に気が付きました。

 

日本最大の中国情報サイト Record China 様より 

虎丘の剣池、水を抜いた底に古代王墓の入口が…?―江蘇省蘇州市

https://www.recordchina.co.jp/b20067-s0-c30-d0000.html

2008年6月4日、中国新聞網によれば、“呉中第一の名勝”と称される蘇州市郊外の

“虎丘”にある“剣池”の水が20年ぶりに抜かれた。言い伝えではこの池は、紀元前496年に世を去ったとされる呉王闔閭(こうりょ)の墓の入口だという。 

その剣池の持つ最大の魅力は、池の下に呉王闔閭の墓があるという言い伝えで、“剣池”という名称も、闔閭王が生前に好んだ金の剣が副葬品として埋葬されたことに由来しているという。また、剣池は闔閭王墓の入口だとする伝説もある。 

 

虎丘・・・えっ!?・・・(この時の私の心境です・・)

 

さらに「虎丘」について以下のサイト様に記された言葉に驚愕致しました。

蘇州日記様 サイトより

https://ameblo.jp/harvest-minoru/entry-12341826046.html

 

虎丘は春秋時代の呉の王様だった闔閭(こうりょ)の墓です。
呉は彼が王だった時期(紀元前515年~496年)に最盛期を迎えました。
呉の首都が無錫から蘇州に移ったのもこの時期です。
闔閭が亡くなった際、宰相だった​​伍子胥(ごししょ)の采配により、蘇州を見下ろす小高い丘に立派な墓が建設されました。
この墓に​​闔閭を埋葬した3日後に、白い虎が現れて墓を守ったという言い伝えにより、「虎丘」と呼ばれるようになったそうです。

虎丘の読み方は中国語では「フーチュー」ですが、日本語では書籍やネットには「こきゅう」と書いてあることが多いものの、こちらに住んでいる日本人や日本語ができる中国人はたいてい「とらおか」と呼んでいます。

以上 蘇州日記様 サイトより

 

★こちらに住んでいる日本人や日本語ができる中国人はたいてい「とらおか」と呼んでいます。

 

とらおか・・!!??? えええっ!!? 人吉の地名と同じ!?

凄く驚きました!!!・・・・

天皇領(王家領)であった球磨御領内の人吉庄には鎌倉時代初頭まで『とらおか』の地名があったからです!!

 

人吉南方刁岡(とらおか・虎丘・虎岡・寅岡等の表記あり)の地名について
相良長頼の娘「尼妙阿」は父より『人吉南方刁岡(とらおか)名』の地頭職を譲られました。尼妙阿は平河氏に嫁がれていました。

実は私、2016年の4月に『人吉庄南方寅岡名地頭職相伝系図』が当時の直感で妙に気になりブログにアップしていたのです。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12146170264.html

 

人吉庄南方寅岡名地頭職相伝系図

地頭相伝系図

私は日本全国に刁岡(とらおか・虎丘・虎岡・寅岡)等の地名の存在を確認しましたがどこにもありませんでした。
つまり、鎌倉時代初頭まで、人吉南方には存在した「地名」であったと言う事です。
鎌倉時代初頭と書きましたが、相良一族はこの地名を「隠しました」。

現在「刁岡(とらおか・虎丘・虎岡・寅岡)」が何処であったのかは全く不明です。

 

★闔閭が亡くなった際、宰相だった​​伍子胥(ごししょ)の采配により、蘇州を見下ろす小高い丘に立派な墓が建設されました。
この墓に​​闔閭を埋葬した3日後に、白い虎が現れて墓を守ったという言い伝えにより、「虎丘」と呼ばれるようになったそうです。

 

虎丘の王墓について理解する事が出来ました。

偶然か!? 日本で唯一『刁岡(とらおか・虎丘・虎岡・寅岡)』の地名があったのは

天皇領(王家領)であった球磨御領内の人吉庄南方

皆様・・・平安時代末期、日本には「虎(寅)」さんはもちろん生息していませんよね・・・

人吉南方『刁岡(とらおか・虎丘・虎岡・寅岡)』名・・・一体「何を由来」とする地名だったのか?

皆様はどうお考えになられますか・・・

私は・・・・偶然だとは決して思う事は出来ません・・・

相良長頼の娘「尼妙阿」は平河氏に嫁がれました。そして父「相良長頼」より

『人吉南方刁岡(とらおか)名』の地頭職を譲られました・・

 

③黒原山麓に御鎮座の神社の鳥居から進んで気が付いた事

実は、かなり以前から気になっていた事があります。

私の地元『旧球磨郡久米郷宮原村』の黒原山の麓に御鎮座の神社様の鳥居についてです。

中嶋大権現(中嶋霧島神社)の絵図には鳥居か描かれていませんが(残念)

稲積妙見 こちらには鳥居が描かれています。

稲積妙見

 

さらに切畑大明神(切畑大明神)の絵図にも鳥居が描かれています。

切畑大明神

 

実は、こちらの絵図を拝見していて、この2社の鳥居、何処かで拝見した記憶がある・・

とずっと考えていました。

切畑大明神(切畑大明神)御祭神は阿蘇神社同體とありますが、青井阿蘇神社様の鳥居とは異なります。

私は黒原山の麓に御鎮座であった神社様の鳥居を一体何処で拝見したのだろう・・??

そう考えながら色々調べた結果、「ある事」に気が付きました。

     稲積妙見切畑大明神

 

鯰をトーテムとする神社様、大同年中鎮座(806年~810年)の人吉『遥拝大明神』様の鳥居です。確かに赤かったはずだ・・そう思い出し、ブログ『大同年中に建立が続いた球磨の神社』を確認致しました。

 

人吉市
遥拝大明神 (遥拝阿蘇神社)
大同年中鎮座(806年~810年)
御祭神
阿蘇神社同體

※人吉の遥拝大明神 (遥拝阿蘇神社)様のトーテム?は「鯰(なまず)」さんです。
地元「球磨」では「鯰(なまず)」さんの神社様として有名です。
サイト「七転び八起き」様に写真等が詳しく記されていました。

http://longlivenama.blog8.fc2.com/blog-entry-1143.html

 

球磨川を下り、八代市内に入る前(球磨川沿岸道路沿い)の山中にも
遥拝神社が御鎮座です。
正式名称は『豊葦原神社』様です。
八代の『豊葦原神社』様のトーテム?も「鯰(なまず)」さんです。

と私は書いていたのですが、あらためてサイト「七転び八起き」様を拝見したのですが・・・

 

人吉の遥拝大明神様の鳥居の画像 サイト「七転び八起き」様より勝手ながら拝借致しました。 サイト「七転び八起き」様 申し訳ございません。

240414 遥拝神社1

 

似ているけど、何か違う・・「白い部分がある」・・と思いながら画像を拝見して、とても重要な事に気が付きました。

人吉の遥拝大明神様の鳥居、こちらは・・・・『あの神社様』と凄く似ています!!

ブログ 神武天皇御誕生の地 より

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12293980943.html

 

神武天皇御誕生の地 皇子原、狭野神社にお伺いしました。
鳥居から直線の参道はとても長く、真っすぐな光の道に見えました。

 

神武天皇様を御祭神とされる「高原皇子原の狭野神社」様と

「鯰」をトーテムとする人吉遥拝神社様の鳥居は

「菊の御紋」と「御神額」の違いだけでした・・・・

 

そこで、私は、神武天皇様を御祭神とされる宮崎神宮様の鳥居を拝見したのですが、異なりました。しかし、別宮であり大久米命を御祭神とされる五所稲荷(ごしょいなり)神社様が御鎮座である事に気が付きました。

宮崎神宮様 公式サイトより

http://miyazakijingu.jp/modules/about/index.php?content_id=5

 

そこで、ふっと明治時代に創建された『橿原神宮』様の鳥居はどうなのだろう?と考えて拝見したのですが・・

近代建築を訪ねて(近代建築・近代化遺産・レトロな建物)様 サイトより

http://kindaikenchiku.seesaa.net/article/437691526.html

画像

http://kindaikenchiku.up.n.seesaa.net/kindaikenchiku/image/IMG_9624.JPG?d=a48

 

良く見ると、赤っぽく、さらに一番上の部分は過去は黒で塗られていたのかな・・?

などと想像すると、黒原山の麓の神社様の鳥居に似ているような気はしますが・・

狭野神社様の鳥居とは異なりました。

ここで・・私は『橿原神宮』様について、今まで調べた事が無かった事に気が付きウィキペディアの記述を拝見したのですが・・・

驚いた事がありました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%BF%E5%8E%9F%E7%A5%9E%E5%AE%AE

橿原神宮(かしはらじんぐう)は、奈良県橿原市の畝傍山の東麓、久米町に所在する

神社である。

明治天皇により、1890年(明治23年)4月2日に官幣大社として創建された。

所在地    奈良県橿原市久米町934番地

 

えっ!!??「久米」・・久米!??

そう言えば・・・奈良県橿原市久米町と言えば・・

鯰をトーテムとされる「久米寺」様の所在地!

私、以前調べていたのに・・・「橿原神宮」について、何故だか興味を持つ事が出来ないで調べていなかった・・・

ブログ 『本題』肥国のトーテム「鯰さん」と奈良の久米寺様 です。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12340557469.html

 

当時 奈良の宿大正楼様サイト 久米寺の鯰の謎 より抜粋させて頂いていました。

『橿原神宮のすぐ傍に佇む古刹・久米寺の住所は、奈良県橿原市久米町502です。全国各地に久米の苗字を名乗る人も多いと思われますが、久米という姓は、古代大和朝廷で軍事的な役割を果たしていた久米部に由来します。その久米部の本拠地が、今の久米寺界隈に当たります。』
『久米寺本堂に掲げられた鯰の奉納絵馬。』
『久米寺になぜナマズなのか?その謎を解く鍵は、久米という地名に隠されているのではないかと思われます。』

 

※『久米族』のトーテム『鯰』

※『鯰』をトーテムとする『人吉 遥拝神社』様

※神武天皇様御誕生の地の御鎮座の『狭野神社』様の鳥居と『人吉 遥拝神社』様の鳥居はとても良く似ている・・・

※奈良県橿原市久米町には明治天皇により、1890年(明治23年)4月2日に官幣大社として創建された「神武天皇様」を御祭神とされる「橿原神宮」が御鎮座

※「橿原神宮」の近く奈良県橿原市久米町は『鯰』をトーテムとされる「久米寺」様の

所在地。

 

そして・・・

今回リブログした『中国のドラマの中で「鯰」さんを発見!(p_-)』で気が付いていた事は

鯰をトーテムとされた『「王允」とは国姓を姫(き)とする周王朝第23代王霊王の太子姫晋の後裔である事が解りさらに句呉(こうご)と号して国を興した姫(き)姓「呉王太伯」さらに肥後に来られたと言われる姫(き)姓「呉王夫差」、この方々の系とは同族であった事です。

 

九州の古代王朝が奈良に移った際に「鯰をトーテムとする方々」も一緒に動かれた・・・

その鯰をトーテムとする久米族と言われた人達の古代の元祖的本拠地と言われる場所は『球磨郡久米郷』・・・

 

最後に、鯰をトーテムとされた「王允」の御先祖様でもあり、呉王夫差様の御先祖様でもあり

呉王太伯様の父でもあられる『古公亶父』

古公亶父 この方のウィキペディアの記述を読んで、非常に驚いた記述がありました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%85%AC%E4%BA%B6%E7%88%B6

 

古公亶父(ここうたんぽ)は、周王朝初代武王の曾祖父。周の先王の一人。公叔祖類の子。姓は姫(き)。先祖の后稷、公劉の業を納め、国人から慕われた。古公とも呼ばれる。

詩経では大王。周が殷を滅ぼした後は太王と尊称される。

 

大王様をお見みつけ致しました・・・

球磨・人吉には大王様と天子様・・・沢山残されています(内容は次回に・・)

 

2019/01/31 11:45 追記

ここからは、あくまでも独り言です・・・

橿原神宮(かしはらじんぐう)は、奈良県橿原市の畝傍山の東麓、久米町に所在する
神社であり神武天皇様
久米の地の所縁によって明治時代に創建された神社様・・

うん(゜-゜)?・・と言う事は・・・

球磨郡久米郷多良木村に大同2年(807) 神武天皇様の帝廟(天子のみたまや)を勧請して創建された王宮神社様は・・・

「久米の地」に所縁の「神武天皇様」を御祭神とされて創建された橿原神宮様より

ず~っと古くから、この球磨郡久米郷に御鎮座であった・・・と言う事ですねぇ~

「久米の地」に所縁の「神武天皇様」・・・そう言う事ですね・・・

独り言でした(-.-)

 

2019/02/01 大発見を致しました!

緊急ブログを今回の追記として書かせて頂きます。

次回『緊急 大発見!!蘇州”虎丘”近くには平河(平川)が沢山!!!』 に続きます!

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12436957817.html